■彼らが夢想するのは終わらない明日
堂々と扉を開けて入ってきた人間に驚いて、兎吊木はふっと振り向いた。
斜道郷壱郎博士の研究所は、人が滅多にやってこない山中にある。そこは言わずもがなセキュリティの厳しい―――何といっても、かつて世界を混沌へと落とした《チーム》のリーダーが手がけたセキュリティだ―――故に、外部の人間は入ることができない。
その隔離された研究所の、そのまた隔離された第七棟にいた兎吊木は、下手すれば一日中人と会わずに過ごす事だってあった。『実験材料』という名目で生きる彼は、研究所の人間にとっては『研究対象』でしかなく、そして同じように、兎吊木にとって研究所の人間は『研究する人間』でしかない。
その癖、研究所の人間は、(主に会うのは雑用を任される少年なのだが)兎吊木に対して丁寧な物腰で相対する。頭の良さというのは人間と比較すべきではないと考える兎吊木は、そんなものどうでも良かったし――――酷く鬱陶しかった。
だから、突然ノックもされずに扉が開いた時は、何事かと少なからず驚いたのだった。
「――――――――式岸」
その上、そこに立つ人間が、研究所の人間ではなかったから――――本当に目が飛び出るほど驚いたのだ。
室内が薄暗いせいで、扉の元に立つ式岸軋騎の姿は後光が差していて眩しく見えにくい。しかし、彼は昔と同じように、黒く短い髪を後ろに撫でつけ、そして細身の体にあった黒いスーツに身を包んでいた。
思わず言葉を無くす。
式岸はといえば、冷ややかな透明度の高い碧色の目で兎吊木を見据えるかと思えば、軽く失笑を洩らし、こつ、と革靴の音を立てて室内に入ってきた。薄暗い室内に足を踏み入れれば、兎吊木から式岸の表情も伺えるようになる。
「老けたな、兎吊木。今年で35だったか」
「――――――、君こそ」
式岸は32歳になったのだったか。兎吊木の見据える先の式岸軋騎は、口元に緩やかな笑みを含ませたまま、のんびりと兎吊木が座る椅子近くまで寄ってきた。近くまで来れば、以前より大人びたことが分かる。以前から達観した見方をする若造だと思っていたが、その落ち着いた視線は今になっても変わらない。少し残るあどけなさも、自分よりも汚れているくせに、そんなこと微塵も感じさせない、潔癖具合も。
「老けたね。・・・・・・・・でも、全然、変わらない、な」
彼がこんなところにいるなんて、これは夢だろうか?兎吊木の頭を少し自嘲が過ぎった。手を伸ばせば、手触りの良いスーツの裾に指先が触れた。
「式岸、」
どうしてここに、と言葉が出ないので視線で問えば、式岸は少し笑った。昔のような人を小馬鹿にする笑みだ。ゆっくりと、意識に体温が戻ってくる。
「俺が《仲間》で何の役割を受け持ってたか忘れたのか?その脳味噌もそろそろ使えなくなってきたな」
式岸は、《一群》の中で、唯一外で力を発揮できる人間だった。物理的な分解に置かせれば、彼の右に出るものはいない。
侵入の、プロ。
「は、ははは、泥棒みたいな真似しやがって。なんだ、こんな所に忍び込んで、ふふ、ふふふ、俺の心を盗もうってか?もう盗まれちまってるよ!」
込み上げてくる笑いが止められず、肩を震わせて椅子に沈み込む。幸福だ――――こんな所で幸福が得られようとは思ってもいなかった。はじめてこの研究所が好きになった。
式岸は呆れた目で兎吊木を見ていたのだが、兎吊木は突然目の前にある式岸の腰に抱きついた。バランスを崩した式岸は、咄嗟に兎吊木の座る背凭れに手をかけ、転倒を免れる。
兎吊木は式岸の腹部に顔を摺り寄せ、その腰に両腕を巻きつけたまま、ゆっくりと吐息を吐いた。衣服越しに体温が交わる。
「また、痩せたんじゃないかい。ふふふ、中年太りという言葉を知らないのかい、君は」
「てめぇは・・・」
呆れ交じりの呟きは、兎吊木の気持ちを高揚させるだけに終わった。
「死線の匂いがする」
たっぷりと息を吸い、兎吊木は満足気に囁いた。その言葉に、式岸も少し笑みを浮かべる。
もちろん、式岸は死線の蒼に会ってきた訳ではない。《チーム》のメンバー同士、こびり付いた崇拝の空気に浸っているのだ。一人では偶像、複数では夢を見る。
式岸は腰に抱きついたままの兎吊木の頭に右手を乗せ、癖のついた白髪をくしゃりと撫ぜた。
「そうだな」
その優しい手はどこか優しげな女性を思わせるような、そっと触れるような手つきだったが、かつての式岸の触れ方というよりはどこか死線の蒼のぞっとするような柔らかさに似ていて、兎吊木は半ば夢心地のまま男を硬い床の上へと押し倒した。
式岸はそんなこと既に予測していた事態だったのか、ゆっくりと足を折り曲げ受身を取りつつ抵抗というよりも己から望んで床に倒れた。
窓から差し込む月は暗い空を含んで、どこか蒼く見える。例えるのならば深海のような暗さと甘さを持って、反射した薄闇は捨てられた奴隷達を飲み込んだ。
荒い息遣いも、偶に飲み込まれる冷え冷えとしたその呼吸の繋ぎ目も、触れることを忘れた体温の低い柔肌も、昔よりも絶望を知ったその双眸も、全て二人を微温湯のような白昼夢に誘う。
前とは思えない程式岸はその行為に積極的だった。ばさりと品の良い上着を脱ぎ、深緑のネクタイを己で解き、上からワイシャツのボタンを外す。それを少し黙ってみていた兎吊木も、その脱衣の動きに急かされるように、何を思ったか式岸のワイシャツのボタンを逆――――下のほうから外しに掛かる。子供の着替えを手伝うようなそんな稚拙な二人の動きに、式岸がふと笑った。
「――――なんだ、よ」
「いや、馬鹿みたいかと思ってな」
頭上でそれを嘲笑われて、兎吊木が不思議そうに上を見上げた。ボタンを外す手を止めていた式岸は、縋るような目をした同僚に一度笑いかければ、途中まで外していたそのシャツの両側を引っつかみ、乱暴に逆の方向へと引っ張った。ボタンがはじけ飛んで、その下にあった引き締まった腹部が月明かりに照らされる。
「・・・・っ」
熱に浮かされるように、嘲笑する式岸の顔を仰ぎ見ながら兎吊木がその平坦な胸へと唇を這わした。式岸の体は、昔よりも筋肉が落ちたのか痩せたように見える。
「食事はちゃんと取ってるのかい」
「多分、お前よりはな」
さらりと吐かれた言葉に苦笑しながら、兎吊木は胸の突起にむしゃぶりつく。乳臭い餓鬼の匂いはかけらもしないのに、どこか死線の蒼を髣髴とさせる未発達な体に酷似している。男のそのできあがった肉体と少女の完成されていない体なんて似ても似つかないのに、何故。
兎吊木はその既視感にくらくらする頭のまま、慣れ親しんだ血肉の匂いと男の死線に会う度につけられていた飾り気の無い香水の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。麻薬に似ている。幸福で幸福で仕方が無いのに、脳髄をみっしりと埋め立てるのは過去への後悔と現在への絶望だけなのだ。
ぷくりと立ち上がったその乳首に歯を立てれば、びくりとして式岸の肩が痙攣した。念入りに嘗めすぎたのか、少し血の味がして驚く。はっとして顔を上げれば、微かな傷口から肌の隙間を縫うようにじわりと血が染み出していた。
「わーお」
「わーおじゃねぇよ・・・」
疲れたようなそんな声音と共に投げかけられるのは侮蔑するような視線だ。謝りながらもう一度嘗め取れば、紅は一瞬だけ消えた。
痩せた白い男の腹部を嘗めながら降下していき、黒いベルトに手を素早く取り去る。自分で脱いでくれないだろうかと少しの希望を持って見上げれば、羞恥と絶望で顔を真っ赤にして、目元を腕で隠していた。あの碧が視たいのに。
少しがっかりしながらズボンを引き下げれば、既に緩く立ち上がった式岸のそれが存在を主張していた。痛みに感じるとは変わらないもんかと、もう一度一群の思い出に浸りながらパンツの裾を齧って下げる。熱を持ったそれが冷たい外気に触れて、小さく式岸が息を呑む声が零れた。ぎく、と太腿が硬直し、式岸の腰がゆるりと動いた。
「なぁ、まだ人を殺してる?」
「っ、く、ぁ」
返答しようとした瞬間をついてぱくりとその先端を口に含めば、びくりと腰が痙攣を起こして反り返った腹に力が込められ、浮いた腹筋がひくりと動いた。
「っ、う、ぐ」
舌でじりじりと下着を下げながら、そのまま竿も舐っていく。すぐに兎吊木の唾液と先走りで濡れた男根は完璧に立ち上がった。
「こ、ろさなかった、ら」
「うん」
「・・・っ、はぁっ、あ、さ、つじん、きじゃ、・・・あ、あ」
どうにかして会話をしようとする努力は認めるが、殆ど言葉になって無いのがわかっているのだろうか?式岸への愛しさで胸が満たされるのを感じながら、兎吊木は小さく笑った。
「さつじん、きじゃねぇだ、ろ、・・・ふ、は、っあ!」
「そうだな」
懸命にその言葉を吐き出したのを聞き終えた後、兎吊木はその下着の隙間から式岸の後孔に指先を這わせた。
式岸はけして兎吊木の背に手を回さない。それに意味があるのかなんて兎吊木には知ったことではないが、ただ重さの無い両肩がどこか寂しいかもしれない。だが、兎吊木には式岸に腕をまわせと言うことができないのだ。
昔の方がまだ言えたかもしれないけれど。
しばらくやっていないせいか凝り固まった肉の壁が兎吊木の指を拒絶していた。ローションは隣の部屋だった。ついでなので隣の部屋にでも連れて行こうかと思うが、生まれてからこのかた引きこもり続けた自分に人間を持ち上げられる訳が無かった。
「・・・・無理すんなよ・・・」
「・・・・・・」
兎吊木に抱き上げられなかったことに安心したのかふと笑みを零しながら、式岸が兎吊木の頭を撫でた。式岸が無言で懐から容器に入った液体と薄いピンク色のセロハンのようなものを取り出し、無造作に兎吊木に押し付ける。
ゴムとローションだった。
「・・・・・・・まぁ、最初からこれ狙いなら、なぁ」
小さくついた溜息には喜びが入っているのが否めない。兎吊木はもはややることも言うことも無いと沈黙に伏した式岸を意地悪く見つめながら、ローションを全て式岸の下半身にぶちまけた。ぎくっと足が強張るも、すぐさま捕らえられて兎吊木の指が式岸の後孔へと侵入してきた。周りを優しくほぐしながら、ぬるぬるとぬめった指が二本、無造作に突き入れられる。
「っ・・・・・」
異物感に奥歯を噛み締め、苦痛と息苦しさを乗り越えて式岸はゆっくりと息を吐く。いれられた二本の指が徐々に中を解きほぐしていき、段々と式岸の息が乱れていく程にはいつしか中へと入れられていた指は三本へと増えていた。
「っああ、あ、っはぁ、・・・・っ、あ」
記憶の中に引っかかっていた式岸の前立腺をひっかいてやれば、体を弓なりにそってがくがくと引き攣る。この声を聞くのも久しぶりだな、とぼんやりしてくる頭で、先走りで濡れている両足を大きく開かせた。ふっと式岸の表情がなんともいえない蒼褪めた表情へと変わり、「まて、はやい、」と舌ったらずな声が呟かれるよりも早く、兎吊木の勃起した昂りが指の代わりに式岸の中へと後退するように入れられた。
「っひ、ああぁあ、あっ、あ、あ、まっ、まっ、て」
式岸の両腕が何かを求めて空中を一度掻いた。何かに縋ろうとするように頼りなさげだったが、一度聞こえた待てという言葉に一度大人しく従い、昂りを圧迫する熱い式岸の肉壁を少し堪能しようと深く付きいれ、兎吊木は一度一息ついた。
「は、ぁ、ふっ、待って、待て、まだ、まだうごく、な」
途切れ途切れに哀願する式岸の声には弱さが滲んでいる。
「昔より、血の匂いが薄くなったんじゃないか?」
「っ、ぁ、あ、あぁ、は、あ」
空中を彷徨った両腕はもう一度床へと落ち、皺くちゃになっていたスーツの上着を握り締めた。その健気な動きに笑みを零し、兎吊木がふるふると震える式岸のなかからゆっくりと引き抜き、一気に突き入れる。一瞬息を呑むも、次に零れた悲鳴は部屋に響いてゆっくりと溶けた。
「あっああ、あぁあ、・・・・・・・、ひ、ぃあ、あ」
「なんで、来たん、だ?」
「あっ・・・?・・・・あ、は、・・・・・・、ん」
兎吊木は縋るように聞いた。はらりと後ろに撫で付けた式岸の前髪が数本式岸の頬へとかかった。汗によって張り付く。翠色をした目が情欲によってうっすらと潤い、その視線の先の冷たい殺意が恍惚を孕んで兎吊木へと注がれていた。どくどくと脳に血液が集まるのを自覚しながら、その目を見返す。
式岸は困ったようにゆっくり目を閉じ、無言で首を振った。全てを拒絶したようなその仕草に、兎吊木は無言で返して、もう一度昂ったままの己の肉を式岸の後孔へと突き入れた。
「・・・・・・・夢オチだと思ったんだけどなぁ・・・」
残滓の残った床にごろりと寝転がりながら、おいていかれた式岸の黒い上着を抱きしめる。染み付いた匂いは香水の香りしかせず、室内にも精液の匂いと男の匂いしか残っていない。
彼は死んでしまうのではないだろうか。ふとそんな思いに駆られるが、ここから出る気も無い自分にはとめることもできなかった。昨日の情交を拒否していた方が良かったのだろうか。いや、据え膳喰わねば男の恥だ。死線の残り香が着たっていうのに欲情しない奴隷なんて奴隷じゃない。
式岸の姿は気がついたら無く、ただ衣服だけ整えられて転がされていた。そういえばローションと共に押し付けられたゴム使ってねぇや、と視線の先に切なげに落ちているピンクを見つけて思う。
生きているのならば、もう一度会えるはずだ。死線が死んでいないのだから。
だから、だから、心配なんてさせないでくれ。
兎吊木はごろりと反転して、スーツに染み付いた香水の匂いをもう一度胎へと溜めた。血の匂いのしない彼は昔よりも酷く弱くなっているようだったが、守りたい気は全然起きなかった。ゆっくりと人を食いつぶす方法を知っている。
「兎吊木さん?」
呼びかけと共に扉がノックされた。どうせ式岸の侵入した形式なんて残ってりゃしないだろう。志人くんはこの精液のなかごろごろしてる俺を見てどう思うだろうか。少し笑えた。
「兎吊木さん、入ります――――――――、っ!」
予想通り半歩引いた少年に笑いが止められず、にやにやしたまま彼を仰ぎ見る。少年はしどろもどろになりながら、「入るなと、言ってください」と慌てながら言った。
「何でだい?もうこれは終わったあとだよ。そう恥ずかしがるもんじゃないだろ」
「いえ、でも、――――自慰は」
「生理現象だろそれは。それにこれは自慰じゃないよ」
そう言ってやれば、怪訝な顔をされる。
俺はたっぷりと幸せそうに、一言囁いてやった。
「さっきまでちょっと、天使が来てたんだよ」
2007/12・18