■円形の廊下を下っていく
無様にも兎吊木に押し倒されると、普段はどん臭い癖にやけに素早く、フローリングに勢い良く体を殴打した俺の体の上に馬乗りになり、透明なオレンジのサングラス越しに、にやにやと馬鹿にするような視線を俺に振り下ろしてきた。
「いってぇんだよボケ!何やってんだ!」
「式岸軋騎を押し倒した」
「そういう意味じゃねぇよ」
頬を引き攣らせた俺の言葉にくつくつと喉奥で笑みを噛み殺し、小刻みに肩を揺らすと、兎吊木は丁寧な動作で己からサングラスを取り外した。細く長い、女のような指がサングラスの縁を抓んで、女顔を全て俺に曝す。うっとりと細められた目玉の奥は、けして感情を見せない。口元は彫刻で掘られた石のように笑みを刻み付けているというのに、俺はこの目玉が何か感情を映したところを見たことが無かった。薄暗い部屋の中では、目玉の奥がどろりと濁っている。温かさも冷たさすら感じないその目玉が、きょろりと薄い瞼の中で微動した。俺と視線を絡める。
「エロいことをしないか」
「遠回りな台詞は気持ちが悪いんだよ。性交したいなら女相手にケツ振ってろ」
「やぁ怖い。それにしても性交とは古い言い回しだな。素直にセックスと言えないものかねぇ。そういうことを言っているから世間の大人イコール時代に乗り遅れていると思われるんだ。いや、それとも今の言い回しはセックスという単語を言うことに対して抵抗を持っているという現われかな?そう考えるとやけに可愛らしいなぁおい。深読みすると新しい新事実がわかるもんだ」
「新しい新事実って、新しいを重複してんじゃねぇか。お前国語の成績悪かっただろ・・・そもそもそんな深い意味を持って言ってたんじゃない。自分の良いように事実を作成することを捏造って言うんだぜ。知ってたか?」
「心配してくれてありがとう。そんな優しい同僚には俺が手厚くお礼をしてやるよ」
言うやいなや、兎吊木の手が俺の首からネクタイを剥ぎ取った。シュル、と蛇の声のような音が耳のすぐ下から聞こえてきて、反射的に兎吊木の手首を掴もうとしたら、あと少しと言うところで掠っただけで逃げられた。
「何をするんだ」
「それはこっちの台詞だ。性欲処理なら女に盛ってろ」
肩を竦めて心外だという顔をして、兎吊木はくすくすと笑った。「やだね。あんな、やってる最中に死線の名前を呼ぶ女。しかし、君は嫌がっていない」どこ見て言ってんだ。その目玉は少女しか見ることができないとかじゃねぇだろうな。
そして最中に死線を呼ぶ女って、誰だろうか。
「逃げないじゃないか」
俺の嫌そうな顔を見て、優しく微笑みながら兎吊木は言った。
「この間てめぇの骨を折って死線に咎められたからな。手荒な真似はぎりぎりまで控えることにした」
「殊勝な心がけだ。惚れちゃうね。しかし、説得で心を変える兎吊木垓輔じゃないんだなぁこれが」
片手に俺から奪ったネクタイを掴んだまま、兎吊木は片手ずつで俺の手首を押さえ、そのまま前傾して俺の口に唇を押し付けてきた。角度を変えて、舌を差し入れる。歯を舐める。歯茎をなぞる。噛みあわせた歯列を割って、兎吊木の肉の先端が俺の口の中の肉片と絡まった。ざらりという感触に、一度、鳥肌が立つ。
そういえば、こんなキスをしたのは、いつぶりだろうか。
女相手でさえも、・・・こんなに、屈したのは。
「ああ・・・」
嫌な考えが頭を過ぎって、頭を振って兎吊木を離させる。口の中の気持ちの悪い感触が消えなかったが、運がいいことに唾液が糸となって兎吊木の口と繋がることは無かった。一部を共有しているということだけで、気持ちが悪い。俺から少しだけ顔を離した場所で、男は笑った。
「惨めなのかい」
「惨め・・・・・・」
あえて言うならば、この男を相手にこうも屈辱的な行為を強制されていることが惨めだ。
「そうだな・・・」
視線を空中に這わせれば、白い天井が目に入る。窓から差し込んでいる太陽の光で、影が格子状にできていた。監獄のようだ。
例えば、この世界が全て、死線の御許にある牢獄だったなら、なんて幸福だろうか。いつだったか、同士の誰かが言っていた。彼女は支配者で、自分たちは奴隷だと。
それのなんとしあわせなことか。
ここが全て死線のものならば、こんな男に味あわされる一欠けらの屈辱など、無に等しいだろう。
「兎吊木」
「うん?」
「・・・・・・・・・」
なんと言えばいいか分からず、口を中途半端に開けて黙った。ぼんやりと窓の外まで視線を外し、一度、唇を歪めてみせる。
上手く笑えているのだろうか。この男を嘲笑えているのだろうか。一度だけ外を拝もうとしたが、眩しい夕焼けが目玉を焼いた。空の蒼は、もう見えない。
彼女の手から離れてしまった。
「馬鹿だなぁ」
うっせぇ、馬鹿。

のろのろと撫で下ろされた掌が、ベルトのバックルを外してパンツの前部をくつろげた。冷たい指先が陰毛を割って、微かに性器に触れる。冷たい。生理反応でぴくりと体が硬直すると、俺の肩に顔を埋めていた兎吊木がくっと息を押し殺して笑った。
「人間てのは、まったく、分かりやすい生き物でいいねぇ」
「そ、かぁ?」
ぞわりと体に伝わっていく感覚に途切れる俺の台詞に、にやにや笑いを増して、兎吊木は耳元で「ああ」と幸せそうに肯定した。普段のカナリアのような甲高い声ではなく、れっきとした男のような、低い、ぞっとするような声音だった。
見ることはできないが、先ほど俺からネクタイを奪ったしなやかな指が、やわやわと俺の性器を包み込む。ふ、と息が引き攣る音が喉から上がったが、喘ぎ声が出るほどではない。声を押し殺した俺と視線を絡め、兎吊木は何か満足げに口を歪めた。言葉を発するたびにちらりと零れる舌先が、蛇のように口内で嘲笑う。
「ストイックなエロさってまさにお前みたいなのかな」
「知るか」
変わらぬ軽口を叩けば、雰囲気だけが穏やかになる。それでも俺の心中と兎吊木の目玉の奥はけして変わらない。隙あらばこの男の首に噛み付いて肉を喰いちぎってやろうかと思う、蒼色の支配から逃れた俺の本性が、ゆっくりと目覚めていた。そう考えれば、目の前で俺に欲情しているいい歳した男も美味しい餌に見えてくるから不思議だ。
「興奮してるのかい」
人間の本能として、生命の危機などに関すると子孫を残そうと知らず知らずのうちに勃起するそうだ。目の前の男を殺害することに関して脳裏で思考を巡らせば、兎吊木が愛撫していた俺の性器が反応を示してきたらしい。
「は・・・・・・・さぁな」
「何を考えてるんだ?・・・・いや、いい。当ててあげよう。俺を殺す所を妄想して悦に浸ってるんだろう?」
侮蔑するような目で俺を見下ろしながらも、兎吊木は手を休めない。こういうところはやけに欲望に忠実なのだ。理論ぶって背を伸ばし、達観するような目をしている俺たちが、一番そういうことを馬鹿にしている。結局の所、どれ程の才能を持ちえたとしても、俺たちが隷属するのは死線だけである。
彼女のために。彼女のためだけに。彼女の望むがままに。
その意識は病気に近い。
しかし、その彼女が零崎に敵対したならば、俺はどうするだろうか。
零崎軋識ならば彼女を殺すだろうし、式岸軋騎ならば彼女を生かすだろう。
そんなことは明白だ。誰が見ても分かる。
それで結局――――――結局、どうなる?どうするんだ?
「っあ!」
「は、なんだ、そう、泣きそうな顔をするもんじゃないよ式岸」
嫌らしい声が粘っこく意識に擦り付けられていく。指先が性器の裏を辿って、その奥、きつくすぼまった排出箇所に触れた。こんな所に自分の一部を突っ込もうなんて考えた人間はきっと頭がおかしかったに違いない。きっと快楽を求めていて、とにかく何でもいいから突っ込みたかったのだろう。そう想像すると、こんな状況でもおかしくて溜まらなかった。口から漏れそうになった声を抑えるために己の右手の甲を口に押し付ける。「ふ、ん」と気の抜けた声が喉奥で漏れたが、叫ぶよりマシだろう。
吐息がつきそうな距離で、兎吊木の目玉がにやにやと笑っている。眼球の奥はけして揺れも乱れもしなかったが、透明な眸に俺の顰め面が映っていた。こんな野郎が苦しんでいる姿を見て喜んでいるのかと思えばやけに滑稽だ。すっと目を細めると、ふふふ、と変な笑い声を上げて、兎吊木は俺の後孔をどれかの指二本でぐりぐりとこねくり回してきた。
「腰上げて」
「・・・」
「ローションを使わなかったら、明日は痔だね」
「死ね」
兎吊木は俺の吐き捨てた雑言に肩を震わせながら、懐からとろりと粘性のありそうな液体の入った容器を取り出した。腰を上げてやれば、手際よく下着ごと衣類を取り払われて、膝の部分で留められた。太腿の下に兎吊木の太腿が差し入れられて、腰を兎吊木に対して押し付けているようにもとれる体制になった。
「ふぅん、悪くないねぇ」
「足痺れるぞ」
「君は本当に可愛げってものを知っているのか?」
非常にがっかりしたような兎吊木をせせら笑い、俺は下半身に塗りつけられたローションの冷たさに唇を噛み締めた。兎吊木が悪くないなんていう台詞を言ったせいで、余裕が崩れてしまった。シーツに爪を立てるだけで堪えていたのを、完璧に握り締めてしまえば、反応に機嫌を良くした兎吊木が嬉しそうに目を細めた。
「まず一本」
「い、うなっ・・・・・あっ」
同時にずるずると入ってきた細い女のような指に、体が硬直する。幾度かやられた体験だが、まったく馴れない。「あー、やばい。凄く締め付けてくる。飲み込んでる。ここに住みたい。気持ちいい」とアホ丸出しな兎吊木の台詞に我に返り、ぎしりと固まって動かすことを忘れていた右足で兎吊木の背中を蹴った。
「締め殺してやる・・・っ!」
「腹上死ならぬ服中死って奴だな?」
「ばっ、あっ、いっ!」
馬鹿かと叫ぼうそした途端、一気に指が増える。おそらく、三本。内でばらばらに動かされてしまえば、もう耐えられない。探られていた前立腺を指の腹で触れられると、それだけで電撃を受けたように体がびくりと撥ねた。頭に直にくる刺激に、「ひぃ、ぁあ!」と引き攣った悲鳴が上がった。
「あっ、あ、・・・・あぁ、はっ!」
「キスでもしようか?睦言でも吐いてやろうか」
滲んだ世界で兎吊木が笑っていた。
「そんな目で見るんじゃないよ」
どんな目だよ。俺の意志を汲み取ったのか、やけに優しそうな表情を見せて、兎吊木はもう一度目を細めた。
「お前は誰か愛せるような器用な奴じゃなかっただろう?」
お前に何が分かるんだ。すぐにそう言い返してやりたかったが、口から出たのは馬鹿みたいに高い悲鳴だ。
式岸軋騎を禄に知らないお前に、零崎軋識が分かるのか?
死線の蒼でしか構成されない世界で生きるお前に、他人の何かが分かるのか?
俺ですら、零崎軋識も式岸軋騎も完璧に分かっていないというのに。
「あっ・・・あっ、ひっ、アあ、・・・ぁあ!」
堪えきれずに精を吐き出せば、続いて俺の腹に生暖かい精液がぼたぼたと垂れてきた。兎吊木の既に張り詰めていた精液だろう。俺の吐き出したそれと混ざって、ぐちゃぐちゃに飛び散る。
「・・・・・・兎吊木」
「どうした?」
どろりと遠のいていく意識の中、視界のすぐ間近に兎吊木の顔があった。オレンジの目玉の奥、赤褐色のどろりと濁った瞳孔は、相変わらず何も感情を映していない。しかし、珍しく笑顔を見せず、むしろ悲しそうな表情を見せた兎吊木をぼんやりと見て、俺は馬鹿にするように言った。
「死んでしまえ」
「そうだな。・・・・・お前は生きるといい」
瞼を閉じる瞬間、兎吊木の目玉の奥で初めて見せた感情は、馬鹿みたいに柔らかく、阿呆みたいに悲しげだった。
2008/・29


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