■停滞するその甘ったるい血の匂いも
兎吊木垓輔とは、玖渚友が居住するマンションの廊下で出会った。
第一印象は、お世辞でも良いとはいえないものだった。
何故かというと、式岸軋騎は兎吊木と出会うまでに、同志の何人かから兎吊木垓輔という男の前評判を耳にしていたものだから、いかんせん抵抗があったのだ。
どんな前情報を聞いたかというのはここでは割愛させていただくが、良いものではないという事だけは述べておこう。
そんな訳で、式岸軋騎はふらふらと本能に身を任せて、崇高にして崇拝する玖渚友に会うために城咲のマンションを訪れ、そして初めて、害悪細菌などという嫌悪されるべきである嫌な名を付けられた兎吊木垓輔と出会った。
「・・・・・・・・・やぁ、初めまして。一群の人だね?」
「・・・・・一群というのが同志―――、暴君の言う言葉に当てはめれば仲間と言えるものであるのならば、そうだ」
軋騎の返答に、くすくすと可笑しそうに兎吊木は笑い、「パーティ・・・同志って呼んでいるのか」とにやつきながら言った。
「何とも優しい名前だな。気に入ったよ。同志、同志ね・・・・・・・領域内部なんて小洒落た名前付けろとは言わないが、捻りが欲しいもんだな。まるで死線のように、優しいじゃないか。仲間に、同志ね・・・ちょっと嫉妬したぜ」
思っていたより回りくどい喋り方をするもんだと心の片隅で毒づきながら、軋騎は一歩踏み出す。饒舌に喋っていた兎吊木も、うん?と言葉を止めた。
「退いてくれないか、兎吊木垓輔。・・・俺は暴君に用があるんだ」
廊下は広かったが、兎吊木は軋騎の前にちょうど通りにくい位置に足を伸ばして立っているのだ。初対面の人間の足を踏み越えたり跨いだりして通るほど、軋騎は不躾な人間じゃない。
しかし当の兎吊木は話を聞いていないかのようににやにや笑いながら軋騎をねっとりと見た。
「暴君、ね、言い得て妙だな。当てはまりすぎてるぜ。ふん、この集まりの名称にどうのこうの言うつもりは無いが、短絡過ぎて的を得ている返答しかしないんだなぁ・・・優等生キャラって奴か。さしずめ俺は問題児の上に不思議ちゃんって所だな。俺の名前を知っている所からして、他の奴らには会ってるみたいだね。まだ俺が会って無い奴としたら、吾轟正誤って奴か式岸軋騎の筈なんだが・・・どっちかな?」
「・・・・・・・式岸、軋騎だ」
「ふーん。誠実そうな目をしてるじゃないか。獣臭い癖に」
「・・・・・・・・・・・何?」
「血の匂いがするぜ、って言っているんだよ」
兎吊木はふふふと笑うと、さぁ通りなよと言って道を開けた。無言で通り過ぎる。
視線が背中を追ってきているのには気づいていたが、知らないフリをして死線の居るであろう部屋へ向かった。
それから、一ヵ月後。
一週間ぶりに死線の元を訪れると、ぐっちゃんかと少し肩透かしを食らったかのような反応をされてしまい、軋騎はひくりと顔を引き攣らせた。
慌てて頭を下げる。普通に返答しようとしたら、声が上ずってしまった。
「・・・っも、申し訳ありません」
「あ、ううん。そういう意味じゃないんだよぐっちゃん。ぐっちゃんが来てくれて私は嬉しいよ。実を言うと、さっちゃんが27日と8時間32分25秒ぐらい顔も見せに来ないんだよ。だから、ねぇ」
「・・・・・・・兎吊木の奴が、ですか?」
うん、と死線は珍妙な顔をして答える。
「前なんか毎日のようにやってきたり泊まったりとかしてったんだけど・・・全然来ないの。ぐっちゃんとかみたいにいっつも忙しいようだったら、私も特に何も言うことは無いんだけど・・・少し気になるんだよね。もしかして死んでたら、って思うと、私に無断で死ぬなんて許さないから」
兎吊木は、仲間の連中全てが知っているように、掛け持ちで仕事をしていたりなどしていない。所謂暇人だ。仲間の中で最も死線にべたべたするような奴という認識が出来ているあたり、約一ヶ月もやってこないとは、死んだのではないかという線が濃厚だ。
「・・・・・連絡も無いんですか?」
「んー、実はね、一週間前に連絡とったの。返信も来たんだけど、内容がね・・・」
そう言って、言いよどむ。
「動けないんだって」
「・・・・はい?」
「『今、家から出られないんです。死線の顔を拝見できないことは俺を殺すのに有り余るほど罪悪感を感じておりますが、色々とありまして』とか書いてた」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・暴君」
つまらなさそうにふう、とそっぽを向きながら呟く死線に静かに声を掛けて、軋騎は進言する。
「俺が、様子を見てきましょうか」
巨大なマンションだ。
非常に、でかい。
真っ白い壁の、屋上を見上げると首が痛くなるようなマンションを前にして、軋騎は一人、佇んでいた。
俺は別におかしいことは言っていない。困った死線を前にして、あの台詞を言ったことは間違っていない。正常な判断だ。あの一目見ただけでもいけすかねぇと思ってしまったあの男の生死を確認するだけだ。長々と会話をする必要も無い。
「・・・・・・9階の、・・・・・・」
兎吊木の部屋を呟いて確認し、中へと入る。静かに己を映す監視カメラに顔を顰めて、軋騎はエレベータへと向かった。
壊れて使えなかった。
チャイムを押す。
音が鳴らなかった。その上インターホンがついてるのに入れとも何も言われなかった。扉を開けずに一分待った。
「おいっ、兎吊木!」
待ちきれずにごんごんと素手で扉を叩く。反応は無い。
これは・・・・。
「(死亡説有力?)」
そんな思いを心に巡らせながら、扉の取っ手に手を置いた。掴んで、引っ張る。
がちゃ、と重い音を立てて扉が開いた。
「兎吊木!入るぞ!」
意味は無いかもしれないが扉を微かに開けた状態で声を荒げて呼んでみるが、やはり返答は無かった。
扉を開けて、中に入る。背後でがちゃん、と扉が閉まった。
「居るか!?」
部屋の中は綺麗なものだった。玄関には靴一足も置いていない。1フロアまでとは行かないが、1フロアの3分の2ほどを占領しているような広い雰囲気。長い廊下。
生きているか否か確認するだけするか・・・。
悪いと思いながら靴を脱ぎ、玄関から上がる。
近い部屋から全て見ていくべきだろうか。
軋騎はそう思って、右手側からぐるっと回って全て見て回ろうとする。
「さて、どうするか・・・」
もしも死んでいたら、破壊担当は誰になるんだろう?そんなことを思いながら、のろのろと迂回する。
「式岸」
突然背後から声が掛かって、慌てて振り向く。
「!?うつり」
軋騎の目の前には、黒い携帯電話ほどの四角いものを掴んでこっちに振り下ろしてくる兎吊木が居た。
スタンガン――――・・・!?
振り払うのにも時すでに遅し。条件反射で振り上げた右手の爪先が兎吊木の頬を微かに掠ったのと、スタンガンが軋騎の首に当たり、ばちん、と高い音を立てたのは殆ど同時だった。
「っ、く―――――――あ、あ゛・・・・・・・・?」
ふ、と目を覚ますと、そこはどうやら兎吊木のマンションの中のようだった。どこかの部屋の、どこかのベッドの上に軋騎は寝かされていた。
しかし、両腕は後ろで固定され、両手首にはガムテープがぐるぐると巻かれている上に、右の二の腕から胸を通り左二の腕、そして背中を通るように何重にガムテープが巻かれていた。
スーツとネクタイは取り払われていて、ワイシャツの上からがんじがらめにされている。
「な、な、なんっ・・・・・!?」
「よお式岸。起きたかい?」
混乱する軋騎をよそに、酷くのんびりとした歩みで兎吊木が扉から入ってきた。右手には黒い紐を持っている。
「て、め・・・・何を・・・・・・・」
「今日は、一つ試したいことがあってね。少し何人かに協力してもらったんだ。いらっしゃい、式岸。歓迎するよ」
にっこりと笑って、兎吊木はぺたぺたとベッドの上で身を起こした軋騎に近づいていく。しかし、後三歩でベッドまでつくという所で、軋騎が足だけでバランスをとって立ち上がり、ベッドの上から跳躍して右足で兎吊木の首を狙った回し蹴りを放った。
兎吊木が驚きで目を見開きながら、素早く両腕で軋騎の足を防ぐ。両手が後ろで固定されているせいでバランスがとれないので、威力は普段より格段に下がっているが、兎吊木に止められたショックで着地に思考が追いつかず、軋騎はそのまま背中から床に落ちてしまう。
「ぐっ―――――う、ぅ」
「おっと」
フローリングに受身も取れずにモロに墜落してしまったせいで、軋騎はただ呻くことしかできなかった。すかさず兎吊木が軋騎の上に跨る。マウントポジションといった所だ。
「て、めえっ・・・!」
「なんだ、そんな非難するような目はやめろよ。今のは自業自得だぜ」
ぎりっと奥歯を噛み締め睨んでくる軋騎に向けて、兎吊木は肩を竦めて見せる。そして有利な状態であるのをいいことに、手に持つ黒い紐を軋騎の首を三重に巻きつけ、両端を両手で握る。両側に引いたらすぐにでも絞め殺せる形だ。
「な、んのつもり、だっ!」
息も絶え絶えに、とでもいうように軋騎は兎吊木を睨み続ける。ふん、と兎吊木は満足したように鼻を鳴らして、一言呟いた。
「お前、零崎一賊の一人らしいじゃないか」
「――――――――――、っな」
しかも―――と、兎吊木は二の句が告げない軋騎を無視した形で、詰まらなさそうに呟く。
「零崎軋識、『愚神礼讃』とかって名高い、殺人鬼だってな」
「誰に――――――」
そのことを、聞いた?と。軋騎の唇が音を洩らせずに呟いた。
見開かれた深緑の目に映りながら、兎吊木は笑う。何馬鹿なことを言ってるんだ、と。
「は、知ってる奴に覚えが無いのかい?」
軋騎の頭の中でふとよぎる、愛する彼女と同年代のあの小僧。
「・・・・っあの若造が・・・・・・っ!」
「まぁあの餓鬼をどうするかはお前に任せるさ。死線の機嫌を損ねても宜しいんだったらな。それよりも、気になることがあるんだよ」
にっこりと笑いかけながら、兎吊木はぐっと黒い紐を握る。微かに首を締め付けてくるそれに眉根を寄せて、何のつもりだ、と軋騎が唸った。
「お前、殺人鬼の癖に死線に頭を垂れるなんて、随分犬畜生みたいなことやってたんだな。知らなかったよ。最初会ったときは随分獣臭いなとは思っていたが、ね。思わぬ収穫だ。式岸軋騎」
「思わぬ、収穫・・・・?」
「今から、お前を犯す」
変わらぬ笑顔のままで、兎吊木が呟く。軋騎の顔はみるみる蒼白になり、引き攣った声で、「な、」と呟いた。
「に・・・・?」
「言葉の通りだ。お前を強姦して、陵辱する。拒否は認めない。呪いを吐くなら吐けるだけ吐け。俺を恨んで怨んで憾んで憎め。殺意を抱いて殺してやると呟けば良い」
「ま、待て、理由を聞かせろ!」
意味が分からない、と軋騎が顔を歪ませてもがく。
「どういうつもりで――――」
「どういうつもりで?随分人間みたいなことをほざく。強姦ってったら性行為だよ」
「違う!何で俺がてめぇに犯されるとか―――」
「テストだよ」
てすと、と軋騎が兎吊木の言葉を反駁する。そう、と兎吊木は頷きながら言葉を続けた。
「殺人鬼だなんて危ないものを、そう簡単に死線に会わせれると思っているのか?親愛にて深藍なる蒼色はお前らみたいな獣畜生をとても恐れておられる。怖くて恐くて根絶やしにしたいぐらいに、ね。知っている通り、死線はかの『いーちゃん』を求めた理由に、俺達チームを作った理由に、己に枷という重い重い代償を背負っておられる。あの今にも細くて折れるようなあの腕に、足に、あの年齢に似合わない体に。獣が恐いのは俺達も同じだ。恐くて恐くて仕方が無い。だから、あんなにも何重にも何重にも、壁を作っている。しかし、内側に獣が居たら?壁の意味も無い。だから、お前を置いていてもいいか、否かの、テスト」
「し、しせん、は」
震える声で、軋騎は呟く。顔は蒼くて、緑の目は歪んでいた。
「俺が、零崎だということを、しって、いる――――?」
「―――――――いいや、お知りであらせられない」
ほっ、と。
兎吊木の言葉を聞いて、今にも泣き出しそうだった軋騎の顔が安堵で満ち溢れる。ああ、知らないのか、と。兎吊木に押し倒されて、かつ両腕も拘束されていて、首も絞められているというのに――――今何をされて危ない目にあうのか分からないというのに。
軋騎は安心したかのように、詰めていた吐息を、ほっと吐いた。
そんな反応に、兎吊木は眉根を寄せる。
その言葉が、嘘であるかもしれないのに、軋騎は安心したのだ。
それを見て、殆どの者は軋騎が死線を殺そうとするなんてありえないだろうと、確信するだろう。しかし、兎吊木はくいっと両手に持つ黒い紐を、己側に引いた。引っ張られるままに、軋騎が身を起こす。息苦しさに眉根を寄せて、ぐっと頭を上げた。
「平和ボケした、殺人鬼だな」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「まぁ、いいさ。せいぜい喘げ」
するりと兎吊木の右手から紐が離され、両端を左手で持つ。何も持つことの無くなった右手が軋騎のベルトに手を掛けた。片手で器用にベルトを外し、ファスナーを下ろす。
犯されるのだ、と今更再認識して、軋騎がからからに乾いた喉で「やめろ」と引き攣った声を上げた。
「何故?」
「違う、そんな趣味は、持ってない」
「俺だって男を犯したいとか――――、まぁ・・・思わないさ」
「じゃあ、なんで」
言っただろう?兎吊木は優しい声音で、謳う。
「確かめたいことが、いや、やりたいことがある、かな?」
「なん、で、俺に――――――」
「適任だから?」
くつくつと笑いながら兎吊木は言った。
「てきにん、って」
「俺はね、式岸。一度だけ言うから、良く聞くんだ」
くしゃりと軋騎の頭を撫でながら、兎吊木は艶やかに笑った。
「殺人鬼が欲しかったんだよ」
「な、ん」
「安心するんだ。なにもお前の家族に手を出そうって訳じゃない・・・俺は死にたくはないんだ」
どういう、意味だ。
軋騎は意味が分からない、と眉根を寄せて、そして呟く。
兎吊木はふっと微笑んで、軋騎の緑の目にキスをした。ぞっとして、軋騎がもがく。
「俺はね、人を殺せない殺人鬼が欲しかったんだよ」
「・・・・・どう、いう意味・・・だ」
「そのまんまの意味さ」
困惑したままの軋騎にはは、と声を上げて笑って見せた。そして、心の中で呟く。
そして今、手に入れた―――――。
見蕩れるような程艶やかに「いいこにしろよ」と呟いてやって、軋騎の首に巻きついたままの黒くささやかな凶器を手に、兎吊木はその日、軋騎を侵した。
2007/3・10