■たどり着かない寄る辺



 細かく砕かれた硝子の破片が、クレアの足に踏みつけられて砂利のような音を立てた。薄暗い室内には硝子の破片だけが外から入り込んでいる光を反射して微かに光っている。奥の扉も視認できない暗さの部屋を、クレアは全てを見えているかのようにずんずんと歩いて行った。
 呼吸の音と、硝子を踏みつけたせいでぱきりと砕ける音だけが響いた。階段を使って地下へ下っていく足取りに迷いは無く、暗いからといって踏み外すようなこともない。そこでようやく、ぱん、と乾いた銃声がクレアの耳に届いた。そこで一度足を止めたが、再び歩き出す速度には、さっきとまったく変化はない。のんびりとした足取りで、ぱぁん、ぱぁん、と聴こえる銃声にあわせて鼻歌でも歌いそうな和やかさだった。
 到達した先、最下層に当たる地下室には電気がついていた。正確には電気ではない。奥で何かが轟々と音を立てて燃え盛っているのだ。冷たい地下の空気が温まってさえいた。ぱん、と再び銃声が聞こえて、次にごとっ、と何か重いものが墜落する音が聞こえた。そして人の哄笑。げらげらと地下のコンクリートに響き渡る笑い声が、反響して消えた。
「ラッドー」
「・・・お?おおー」
 クレアがやってくると、ついさっき人を殺した殺人鬼がにこにこと楽しそうに笑って、ライフルを肩に担いで立っていた。壁についている複数の換気扇が轟々と黒い煙を外に吐き出している。酷い匂いだ。燃えているのは古ぼけた家具だった。どうやらここは地下倉庫として使われていたようで、年代物のアンティーク家具が一つ残らず燃えていた。奥には血を頭から流して倒れ伏している男が、ついに火達磨になっているところだった。
「怪我は?」
「ねーよ」
 ラッドは上機嫌にクレアへと歩み寄ると、ふへへ、と気の抜けた笑い声を零して、その身体に抱きついた。甘えているのかと思えば、次の瞬間にはバンバンと強くクレアの背中が叩かれる。人類最強、などと友人に称されるクレアであっても、人間には違いない。その領域は人間の域を出ないものだし、無論怪我だってする。ラッドの馬鹿力で背中を叩かれれば、流石のクレアも小さく、う、と呻いた。人を殺した興奮でテンションの上がっているラッドは、今はどうやら手加減の仕方を忘れているらしい。酒に酔っ払っているようなものだ。
「あー、いやー、楽しいねぇ。久しぶりに調子に乗ってる自分が死ぬなんて微塵も考えてないお気楽野郎を徹底的に完膚なきまでにぶっ殺してやったぜ!」
 まるで狩猟に成功した子供ののような反応だ。ひとしきりクレアを抱きしめると、じゃ、帰るかー、とついさっきクレアの下がってきた階段へずんずんと歩いて行ってしまう。確かに、地下の空気は淀んでいて息苦しい。長時間居たら死んでしまうだろう。廊下へ出るだけで正常な空気に体の中が生き返るようだった。
 ラッドはクレアと付き合うようになってから、クレアの要求を飲んで誰彼構わずぶっ殺すことを自重するようになった。殺人鬼という彼の本質に変わりは無いが、ラッドの標的はその殆どが殺人者や殺し屋へと移った。二人で殺し屋殺しを始めたのだ。
 殺し屋の上で胡坐をかいている金持ちも標的に入ることもあるが、その大抵はラッドの大好物である『自分が死ぬなんて考えないのうのうと生きつづける人間』であったりする。ラッドにとっては自由度が下がったこともあるが、クレアと組めるという事実がラッドを押さえ込む要因になっていたりする。彼の誰にも侵されない強さというのはラッドの格好の餌だ。それを常に近くに置くことで、ラッドの欲求を最低限まで落ち着かせている。クレア本人としてはラッドの殺人鬼としての面は好きではなかったが、仲間思いで自分でさえ捕らえきれないラッドの自我というものは面白く、興味の惹かれるものであった。最初はノリと勢いで組んでしまった間柄だが、それなりに満足のいく関係にまで到達していた。
「あ」
「ん?」
 暗い階段をクレアが先行し、安全に歩ける場所を辿っていく。ラッドは標的と共にこの最下層まで辿りついたので、道は分かっているものだと思ったが、どうやら転げ落ちるように滅茶苦茶に走り回って先ほどの最下層まで到達したらしい。さっきからよく躓くのが見ていられなくなって、クレアが先行することにしたのだ。
 その途中、突然クレアは足を止めて、とある階層の奥をじっと見て、その奥へと入っていってしまった。ラッドはどうしたのだろうか、と内心思いながら、先行するクレアが居なければ無様にそこら辺で転倒する嵌めになりそうなので、黙ってその背を追った。部屋の奥、ラッドにしてみればまさに漆黒の闇としか思えないような室内からは、からからと換気扇が惰性だけで回っている音がする。
「おい、クレア」
 暗闇に一人置き去りにされた気分で、既に見えなくなってしまったクレアに向けてラッドは手を伸ばした。その指先は空を切って、すでに近くにクレアがいないことを示していた。思わず大声を出してクレアを呼ぼうとした次の瞬間、がしり、と今度はクレアの方からラッドの手首を掴んだ。
「なんだっ、て・・・あ?」
 次の瞬間、ラッドは引き摺り倒されて、仰向けに何かふかふかしたものの上に乗せられていた。ぼふ、と音が立って、視界の端を白い羽が舞った。枕から引きずり出された羽毛だ。
「っ、あ?なにして、ン・・・・・・・・・・・なぁあ!?」
 ぺち、と一度額を叩かれて、一体なんだと思った次の瞬間、スラックスが引き摺り降ろされていた。無論クレアのやったことである。暗闇の中ラッドが連れられてきていた部屋はこのビルの所有者である人間の倉庫に使われていたものの一室であるらしい。既に使われていないのに久しいベッドは、シーツを一枚取れば埃のない綺麗なものである。その上に突然寝かされたラッドは目を白黒して、言葉の通り一寸先は闇のごとき真っ暗な空間を睨むことしかできない。自分の身体を弄るクレアの手しか、感じることができない。何故かクレアは自分の呼吸でさえ感づかれないように静かなものにしていたし、両の手以外はラッドの身体に触れないように器用にラッドの上に跨っているらしい。
「っ・・・・・!は、ぁ!?」
 今まで数度、欲求を紛らわすために身体を重ねたことのある二人だったが、それは流石に家に、というか二人の拠点にしている住処に帰ってからのことだったし、このように一人が無理やりにやることじゃなかったはずだ。こいつ、溜まってるんだろうか、とラッドは心の中で首を傾げながら、その身体に這わされるクレアの手に取り肌を立てた。
「あー、う、っ・・・・・・・・クレア、ぁ?」
 溜まっているのでなければ、ただクレアが何かに苛ついている、という選択肢も有り得る。ラッドとクレアは元々分かり合えない立場にあるのだ。喰い、喰われ、殺し、殺される間柄だったはずだ。だからラッドはクレアの思考が分からない。分かりたくも無い。だからたまに、こういう差異が溝となって、二人の間に深い闇をおくことになる。
「くれ、あ」
 何だって別に構いやしないのだけれど、やはり状態が分からないことはラッドに対してマイナスにしか働かない。クレアを求めて両腕を上に向けたが、両手は虚空のなかをもがくだけで、仕舞いには何か硬い壁のようなものに、がん、とぶつけてしまう結果しか生まなかった。ラッドの荒い呼吸と、からから回る換気扇、微かな服の擦れあう音だけが、いつの間にか大きな音のように感じてしまうほど、部屋の中は静寂で満たされている。はぁ、はぁ、と呼吸の音がコンクリートの壁に跳ね返って、ラッドの頭に熱を灯した。
「っだ、よ・・・・なにがしてぇんだ、よ、ォ」
 だというのに、ただ何者かも分からないような二つの手だけが、手荒くラッドの衣服を剥いでその下にある肌を蹂躙していく。クレアには全て見えているのかもしれないが、ラッド目は真っ暗な夜しか写してくれない。頸椎、心臓、肺、胃、肝臓、小腸大腸、ラッドが思うのは自分のその臓器や人間としての急所ばかりだ。この暗闇の中、もしかしてこの性質の悪い人殺しは俺を殺そうとしているのだろうか、と夢想した。
「あっ・・・・・ぁ、あ゛、ぐ」
 その瞬間、ぶるりと体が震えた。全身を奔ったその恐怖が、まるで麻薬のようにラッドをずたずたに陵辱していく。ラッドが常に恐れるように諭してきたその死への恐怖。それが今まさに、ラッドに牙を向けていた。
「はっ・・・・・ひ、あ」
 荒げた呼吸はすぐには整えられない。甘美な匂いを滴らせて、それはラッドのすぐ間近にあった。
 その様子をみて、クレアは初めて、ラッドに欲情の念を抱きそうになっていた。ラッドは初め何もかも見えない、この暗闇の中でも堂々と、まるでこの闇など生まれた時から感じているものである、とでも言いたげな風に余裕綽々といったふうに寝転がっていたのだ。が、クレアが段々と衣服を剥ぎ取ると、ラッドの様子は豹変した。突然ぎくりと身体を強張らせると、目を潤ませ熱の篭った視線でクレアを求めた。唇は普段の人殺しをするときのように血に飢えた獣よろしく歪んでいるのに、クレアにはそれがどう見ても怯える人間のそれにしか見えなかった。自分の掌が触れるラッドの肉体が段々と汗ばみ、首や心臓といった場所に触れるとびくりと震えた。その上、先ほどから触れないようにしていた下腹部が明らかに熱を持ち始めているようだった。
 なんだ、この男。面白い。口がラッドのように歪むのが分かる。する、とラッドの熱に指先を這わせれば、一度ラッドが息を吐いた。
「くれあ、くれあ、ぁ」
「ラッド、前から思ってたけどお前、ほんと変態だよな」
 嘲笑するような声を耳元に囁いてやると、先ほどまでの可愛らしい反応はどこへ行ったのか、ああ? とあからさまに不機嫌そうな声を上げてくる。そんな変貌ぶりも面白い。く、と喉奥で笑い声を殺して、だってそうだろう、と猫撫で声を上げる。
「そんなに人殺しだ好きなんて、おかしいぞ」
「あ゛、はっ、あ、ふ、ふふ、っはははは!」
 ラッドは糸が切れたように突然笑い出し、耳元に囁いてくるクレアをほぼ勘だけで抱き寄せた。丁度身体を寄せていたクレアは、難なくその腕に捕まってしまう。なんだろうか、と黙っていると、一頻り笑ったラッドは、それでもくつくつと喉を鳴らして、言った。
「変態は嫌いか、クレアちゃん」
「・・・・んー、あんま好きじゃないが、お前は別だな」
 なんたって愛する俺の相棒だし、とクレアは満足気に行って、啄ばむようにラッドの耳を食む。ちゅ、と安っぽいキスの音を立てたそれを擽ったそうにして逃げて、ラッドはクレアの肩に噛み付いた。甘い睦言なんてあっていないし、そんなのがしたかったわけでもない。それを合図にして、クレアの掌がラッドのトランクスを剥ぎ取った。
 暗闇の中ではラッドはクレアが何をするのか分からない。ジャケットに涎がつく、なんて声を上げて、まるで子供に悪戯されたかのようにクレアはラッドから離れた。普通の人間ならラッドに肩に噛み付かれたら骨が砕けそうなものだが、クレアにそんな様子は見えない。といっても実際に見えるわけでもないので本当は痛がってたりするのかもしれないが、この人外にそんなことはありえないだろう。
「・・・・う、っふ、あ」
 ここで女のような可愛い声でも上げられればクレアは喜ぶのかもしれないが、生憎そんな声を上げるのは25歳の成人男性だ。しかもクレアよりもガタイがいい。獣の唸るような声、擦れた喘ぎ声しか出せない。しかしクレアはそんなことには気にしないらしい。しかも同性の性器なんて口に含めるのだからそんなもの気にしていたらきりが無いだろう。温かいクレアの口内に含まれて、ラッドの体が軋んだ。
「っん、ぅう、っはあ、あ゛、あ!」
 痛みを和らげるため、とも言えるのかもしれないけれどやられている当人にはそんなこと考えられる暇が無い。零れた唾液とラッドの先走りを使って、クレアの指がラッドの内に侵入を果たした。ぎゅうう、と締め付けられた指は少しもすれば内側から濡れた液体によって濡れた。女の、とまでは行かないが、男にだって一応そういうのはあるのだ。といっても、これは異物を押し出そうとする動きを潤滑にするため、肉体を傷つけないために分泌される腸液だが。
「はっ、ぁ、あ゛ぁつ、う、うぐ、あ」
 じゅう、とラッドの熱の滾る肉に吸い付くと、痛みと快楽の入り混じった悲鳴が上がった。人間の身体ってのはよくできてるもんだ、と感心した。少し乱暴に、指を二本に増やす。ぐちゅるる、と嫌な音を立てて菊座が捲れ上げられた。水音が嫌に響いてラッドが息を飲んだ。今の音がどこから聞こえてくるものなのか、一瞬想像してしまったのだろう。
「っは、ぁ、クレア、クレ、あ゛、ァあ、あ!かはっ」
 飲み込むことも忘れてラッドの口から涎が垂れる。餌を前にした鰐、そのまんまじゃないか、とクレアは笑った。指を三本に増やし、肉ひだをなぞるように触れれば、悲鳴が上がった。痛みじゃなくて快楽によるもので。
 クレアはすぐにベルトを外し、自分の熱を取り出した。片手で、しかも音を立てないようにやった作業だったので、ラッドの中に入れたままの指が少し乱暴になってしまったかもしれない。獣の唸り声のような悲鳴が上がって、クレアを探してラッドの手が虚空を掻いた。
「ラッド」
「はーっ、ぁ、あ゛っ、う、うう、ううう」
 微かに香る血の匂いに酔う様に、ラッドは喘いでにへら、と気の抜けたように笑った。ここでようやく一瞬、逢瀬のように唇を交わした。意味が無いからやる必要の見出せない、平和なカップルのするような行為。ラッドが嫌がっていたこと。キスをするなら噛み付いて、睦言を交わすのなら身体を重ねた方が有意義だとラッドは笑っていた。
「あ、あ゛ぅ、う、あ、ひ、ああアぁぁぁああ!、あ!」
「・・・・・あー、あったかい、きもちいい」
 風呂か何かに入ってるのかとも言いたくなってしまうほど気の抜けた台詞だった。悲鳴と嗚咽の入り混じった声を上げるラッドがいるというのに、何だろうか、この差。
「ラッドの内臓の中、気持ちいい」
「ひっ、ぎっ、い、ぁあ、ああ、い!」
 ぐちゅ、と音を立てて入れられたクレアの肉棒が微かに引き抜かれた。快楽を求めてラッドの体が自然に揺れた。どいつもこいつも馬鹿ばかりだ、とクレアは思わず笑った。その方が生きやすいのだろう。きっと、だから、俺もそうなる。
 ラッドはクレアの表情さえ見えないというのに、荒い息を吐きながら、ひひ、と意地の悪そうな笑い声を上げてクレアを呼んだ。擦れた小さな声だったので、クレアはそっとラッドに顔を近づける。と、ラッドが頭突きでもするような動きで頭を上げて、ちゅ、と小さくクレアに口付けた。
「・・・・・・・・・あれ、嫌いなんじゃないっけ」
「覚えてねーよ、ばぁ、か」
 そういうままごとみたいな行為。キスされた場所は暗くて見えないせいもあったのか、まるでおかしいことにクレアの鼻だったのだけれど、ラッドはそんなことも気にしないかのように快活に笑って見せた。ほら、動け、と自ら腰を振る。
「ふ、お前ほんと馬鹿だよな」
「んだよ、おま、だっ、あ、ひ、ん―――――、ァひ、ぃ!あ、あああぅ、あ゛っ、あ!」
 肉と肉のぶつけ合うような音がして、ラッドの耳から無機質な換気扇のからから回る音が聴こえなくなった頃、ようやく達した。
 この後帰らなければならないので、クレアはなんとか持っていかれそうになるのを堪え、ラッドの赤く色づいた腹の上に出して、しばらく二人で余韻をぼうっとして過ごした。焦げ臭い匂いは酷くなる一方で、先に動いたのはラッドの方だった。この人外はここが火の海になっても死にはしないだろうが、ラッドは一応人間に則した肉体を持っているのだ。一酸化炭素中毒なんて御免だ。
 持ち主には悪いがベッドのシーツを使って精液を拭い取り、ラッドはベッドに腰掛けて何もしないクレアを放っておいてさっさと衣服を着なおした。何度か躓きそうになりながら一応外に出ても問題ないほどに直してから、クレア、と暗闇に呼びかける。
「帰ろうぜ」
「お前さ、俺がなんで突然こんなことしたか、とか聞かないのか?」
 ラッドはきょとん、として、
「聞いてもわかんねぇもん。てめぇの考えてることなんざ」
 と飄々と言ってのけた。クレアは少し思案して、それもそうかと頷く。と、ラッドが暗闇に向けて手を伸ばしているのを見て、何してんだ?と聞いた。
「出口がどっちかわかんねぇから、引っ張ってけ」
「・・・・・・了解、相棒」
 クレアは内心、ラッドの考えてることも良く分からん、と思いながら、その無骨な手を掴んだ。からからから、と換気扇だけがいつもどおりに周り続けている。
2010/2・12


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