■霧散するコーラル・リーフ
海というものは、嫌いではなかった。とても昔、記憶にあるかないか怪しいほど幼い頃、一度だけ親しい人と水族館に行ったことがあった。その親しい人が、親だったか、それとも友人とその親だったか、それとも時宮に属する親しい人だったか、それはどうにも思い出すことはできない。しかし、その誰かに引率されて、僕は一度だけ、水族館に行った。
美しい硝子張りの水槽はどこまでも青い。その中を泳ぐ魚はどこまでも綺麗に、滑らかに泳ぐ。まるで重力に逆らうことのできない僕らを嘲笑うかのように、彼らは水中で翻る。
しかし実質、彼らはけして自由ではない。海というものとは程遠い、狭い水槽の中へ詰められ、その一生を何事もなく平穏と平然と、人間に見られることで過ごす。そして人間の都合で殺される。生きる場所を変えられる。
だから、幼い僕は、水槽の中で泳ぐ魚達の目に、海への強い羨望というものを捕らえた。どこまでも青くどこまでも広く、大らかで冷たい凄惨な海!僕らはそこへ行く。いつか、遠くないいつか!
「まるで夢物語だ」
僕を引率していた人が、僕の隣にいつの間にか立っている。水槽の中を見つめながら、小さく鼻でせせら笑った。
「どこへ行こうと水の中という檻の中からでることはできない。幻想に過ぎないのだな、」
その人は僕の名前を呼んだ。今や亡きものとされる、僕のかつての名を。
「私達の力は全てをその幻想の中へ捕らえる力を持つ。お前は時宮に恥じぬ術者になれ。私達には誇りがあるのだ。幻想の中で生きる人間を自由きままに動かすことのできる、絶対的な力が」
今思えば馬鹿な生き物だと思った。
あの人を初め、僕の家族はどいつもこいつも間抜けなぼんくらばかりだった。馬鹿だった。頭の悪い、卑屈で、人間というものをただの動物の一種類だと思い込んでいる下種どもだった。
僕らは弱い生き物だ。人間という動物の中では異種と言うしかない種類のたった一つの分離した生き物でしかない。人間の頂点に君臨するわけでもない。ただの一般人だ。凡人だ。ぼんくらだ。
時宮こそ、幻想から抜け出せない、思い込みだけに囚われたただの人でしかない。
こんな力、絶対的強者の前では何の役にも立たない。
それを知るべきだ。理解するべきなんだ。
それでも、僕は外に出てからも愕然とし続けた。この人々の間抜けさよ!
中も外も上も下も、表も裏も、どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。なにも分かっていない。何も知らない。無知。浅薄。ただただ生きているばかり。生きているというだけ。反吐が出る。
眼を覚ますと夜中の2時だった。開けっ放しにしていた窓から微かに風が入り込んでいて、中途半端にかけたカーテンが蠢いている。
月の光りに照らされていて、部屋の中は思いの外明るい。目が覚めてからも、ベッドに横になったまま息を潜めてじっとしていると、外から微かに虫の鳴き声が聞こえてきた。それと同時に、かち、かち、かち、と規則的な時計の針の動く音が聞こえてくる。数秒待つと、段々気が緩んできた。ここはまだ敵地なのに。
笑い声が出そうになったので、喉奥で笑みを殺した。今は夜中だ。笑ってられない。どうしようもなかったので、カーテンを全て引いて、端に止めた。室内が一望できるように立ち上がり、ベッドに座り込む。
夜中に起きたのは久しぶりだ。催眠術にかかって意識を無くしていた頃は、無駄な体力を使うことを無くそうとしていたから。
久しぶりというのなら、夢だって見るのも久しぶりだ。しかも、あんな昔の夢。そもそも子供の頃の記憶なんて、まだあったのか。あんな忌々しいもの。
どうにも女々しくていけない。辛くて苦しいことを悔やむなんて今更だ。うざったい。どうして記憶なんてものあるんだろうか。くそ、堂々巡りだ、こんな、いつからこんなに弱くなってしまったんだろう。やっぱりあの、嫌だ。思い出したくない。
しばらくじっと蹲り、息を殺して時間が経つのを待つ。心臓がどくどくと強く鼓動を繰り返していた。足の指先から血の気が引いていく感覚。これは、死に対する恐怖だ。両手で頬に触れると、指先が冷たくなっていて、きりきりと痛んだ。汗だけがじわじわと浮かび上がってくる。
「くそ・・・・っなんだって言うんだ・・・・」
こんなの、こんなの、望んだ未来じゃない。終わりもしない。苦しくて辛い。息苦しい。
かちかちと鳴り響く時計が、初めて煩わしいと思った。頭が痛んでくる。
ふと、いつの間にか閉じていた瞼を開けると、月の光りが遮られて室内に影が差していた。どうやら月が雲に遮られたらしい。だが、自分の座り込む右斜め奥には月の光りがぼんやりと床を照らしている。何か、窓の所に物体があるらしい。カーテンではない。それはぼこぼこと、短い曲線を描いて、連なったボールのように歪んだ、注連縄のような形を、して、い・・・・・?!
僕は―――――顔を上げた。
そしてそれと同時に、涙が。
涙が溢れる。ぼろぼろと、零れ落ちるように。剥がれ落ちるように。
夜空をバックに月を背負い―――――太陽が。
橙なる種。面影真心。夜空を照らすような、全ての神でも嘲笑うほど堂々と、窓の上に立って、僕を見ている。
「お――――――――」
おもかげ、まごころ。
声が出ない。喉が引き攣る。
想影真心の三つ編みが、部屋に入り込んだ風で揺れた。大きく見開かれた二つの眼球の色が、艶やかに煌く。
「おもかげ―――まごころ」
「時宮時刻?」
彼女は――――僕の名前を呼んだ。訝しげに、不思議そうに。僕はその場に崩れ落ち、冷たいリノリウムの床に這い蹲る。
なんてことだ。宿願ついに叶えたり。
僕を―――僕を殺しに来てくれた!
「お前が――――時宮時刻」
世界の終わり。
ジェイルオルタナティヴ。
バックノズル。
死にぞこないの僕の、終わり。
ここが終点。
「そうだよ。橙なる種」
人類最終、想影真心。
「僕を―――――殺しにきたんだろ」
僕がそう言うと、彼女は一度眼を見張り、そして眉間に皺を寄せた。
「違う」
――――――――はぁ?
僕は俯いていた顔を、上げる。彼女はひらりと飛び降り、床へと着地した。靴を履いていない。裸足だった。
「見に来ただけだ。なんだ、記憶、戻ってんじゃないか」
「―――――っ、なら、殺してくれよ!一里塚にでも伝えて、あいつの手下なんかに殺されるのは嫌だ、君に殺されたいんだ!」
思わず縋りついてしまう。泣き叫びながら彼女の足元へ跪くと、真心は顔を顰めた。
「俺様は誰も殺さない」
「――――――な、なんだよそれ――――」
また、あいつか?あの男か?また唆されて、前みたいに自分を縛り付けて、嫌いなものを好きだって偽って?なんだそれ。僕があの時やった操想術は、
「お前の術なんて、殆ど意味はなかった」
「なに、」
「時宮時刻、少し話をしよう」
そう言うやいなや――――真心は崩れ落ちる僕の腰部分をがしりと掴み、ひょいっと軽く、持ち上げた。視界が上がる。肩に担がれている。
「―――――な、あっ?」
気が付くと、宙に浮いている。轟々と風が吹いていた。すぐ近くで翻る三つ編み、成長した真心の長い足が一度病院の天井を蹴った。
「まっ」
まってくれ――――!彼女の顔を伺おうと、無理やり頭を上げれば、彼女はにこやかに笑っていた。その笑顔に、一瞬見惚れる。
「お前なんか、待ってやらない」
悪戯っぽく囁くと、彼女は歯を見せて快活に笑った。太陽。向日葵。止まったと思った涙が、また溢れた。
あの日と変わらぬ王者のような鬣が夜空を踊る。息を止めてそれを見た。ここが世界の終わりなら、いますぐ僕をころしてくれ!
2009/6・12