■霧散するコーラル・リーフ
しくじった。目の前の医者を不安そうな顔で確認しながら、僕は内心舌打ちをする。催眠状態にかかっていた自分の行動をもっと気をつけておくべきだった。
「そろそろ窓のある部屋にうつりましょうか。時刻さん」
「はぁ・・・」
清潔そうな白衣に身を包んだ医者は、そう言って柔らかく微笑む。反吐が出そうだった。今まで牢屋のような所にぶち込んでいたくせに。善人面しやがって。
僕は看護士に促され、診察室を後にする。何故突然医者と面会する嵌めになったかというと、自我を取り戻してから数日、僕は毎日夕日を拝みに中庭に出ていた。するとどうやら自我を無くしていたときの僕は部屋から中々でない引きこもりだったらしく、看護士が何か異変があったのだろうと僕を医者の前に引っ立てやがった。それでなるだけ正常そうに、でも記憶を取り戻しきれてはいないような解答をのらりくらりと話すと、病室が変わることになったわけだ。僕はそれなりにあの密室が嫌いではなかったので、嬉しい反面、少し寂しかったりもした。どうやら軟禁が癖になっているらしい。
看護士4人に囲まれながら連れて行かれた部屋(まるで囚人のようである)は、同じように清潔な白で包まれた個室だ。ベッドの周りにあるカーテンが、ここが独房ではなく病院だということを知らせる。時計は変わらず一個。だがベッドの横に小さな棚があった。どうせ何も入っていないのだろうが。
前の部屋と違うのは棚と、あと縦一メートル、横2メートルの窓がついていることだろうか。そこから見える風景は丁度中庭だ。しかし中庭を介して向かいの部屋の窓が見える。人影は見えなかったので、空き部屋か、それとも寝たきりの人間がいるか、だろう。
「いい部屋ですね」
僕がいうと、看護士の一人がにっこり笑って、「それでは失礼します」と言って、あっという間に出て行ってしまった。彼女達の素っ気無さというのは相変わらず驚きだ。今ここで癇癪を起こしたら、きっとすっとんできて、ベッドに縄とかベルトで固定されるんだろうなぁ、と思う。もしかしたらまたあの窓も棚もない密室に戻されるかもしれない。それもまた一興。面白そうだと思った。
一人きりで取り残された室内をぐるりと見回して、とりあえず窓に寄ってみた。サッシを一度手でなぞって、鍵を開ける。タブ状になっているもので下に引き降ろすとがちゃん、と思いのほか大きい音が出て驚いた。
窓は結構すんなり開いた。からからから、と回転するような音がしたけれど、何が音を立てているのか分からない。石でも引っかかってるんだろうか。生暖かい風が吹き込んできた。そういや今は何月なのだろう。カレンダーもないからな。日にちだって分かりやしない。庭に生えている花で判別という手もあるのだろうが、生憎花には詳しくない。
中庭というのは結構この病院にしては洒落たつくりをしていて、円の形をしている。丁度中央に小さな池があって、何も生き物はいないけれど澄んでいる。レンガで舗装された道が、その池を円にして取り囲んでいて、僕が見える位地から丁度真横に通路ができている。両端に病院の中に入るための扉があって、天井は無い。中庭から見ると空が切り取られたように狭くて、ただひたすら高く見えるから楽しい。雨が降ったら憂鬱だろうと思うが、今のところ雨は降ったことはなかった。今日だって呆れるほどの晴天だ。大きな雲が端に聳え立っている。
そうだ、ああいう雲を入道雲というのではなかっただろうか。じゃあ、今は夏?それにしては蒸しかえるような暑さというには程遠い気もするのだけれど。
しかし病院というのはどこでもやけに気持ち悪い冷たさに覆われているものだ。特にこういう病院には。皮肉で口が歪む。
さて、そろそろ準備をするべきかもしれない。とにかく手駒を用意しなければ。ベッドの上に座り込み、次に入ってきた看護婦に催眠術をかけよう、と決める。時計は午後3時を過ぎている。夕暮れが近い。僕の夢見た時間が近づく前に、この自分でも嫌になる作業を終わりにしたかった。
「この間、狐さんに会ったよ」
電話の向こうから聞こえてくる言葉に、ふぅん、って俺様は返す。相変わらず代わり映えしないらしい、あの人は。
潤の真っ赤な携帯電話から零れる声は懐かしい親友の声だった。約1年ぶり。潤は俺様に携帯を押し付けて、小唄と買い物に出かけていってしまった。携帯がないと困るんじゃないのかって聞くと、もう一個機種の違う赤い携帯電話を見せ付けた。あいつ、携帯電話いくつ持ってるんだろう。
「皆楽しそうなんだな」
「お前は楽しくないのか?」
「楽しくなんかねーよ。小唄は怖ぇし、潤は俺様が苛められてても笑って見てるだけだし」
「そう」
「うん、でも、退屈はしねーかな」
「・・・そっか。それはよかった」
表情が見えないから、あいつが笑ってるかどうかは分からないけれど、声が少し和らいだ。あの一件以来、あいつはやけに人間っぽくなったと思う。潤にそれを聞いたら、なんか「部品を丁寧に入れなおしてくれる天才ちゃんが一緒にいるからな」と笑って言ってた。よく分からないけれど、それで真人間になれるのなら、俺様は何も言うことはない。
「それで、何か悪いことさせられそうなら俺様が行って助けてやるぞ?何したんだ?」
「いや、そういうのは今のところ無いみたいだけど・・・今回はお前の声が聞きたくて」
「そうか」
あいつはそうさらりと嬉しくなるようなことを言ってくれる。鈍感なのにこういうときがやけに的確で恥ずかしい。胸の辺りが暖かくなるのを感じた。無愛想な声が、あ、そうだ、と呟く。
「なんだ?」
「えーと、お前、時宮って覚えてる?あの、時宮時刻」
「・・・うん、覚えてるぞ」
むしろお前が名前覚えてるのに驚きだ。俺様と正反対で、何もかもすぐに忘れるくせに。
「最近仕事で、時宮の人と会ったんだけど、なんか時宮時刻を探してるみたいなんだ」
「なんで?」
さぁ。でも、物騒な感じだったから、気をつけたほうがいいよ、と電話越しで少し心配そうな声が届く。人類最強と人類最終に気をつけろよ、って。無駄な心配だと思うけれど。俺様は笑って、相変わらず優しいそいつの声にくすぐったさを感じた。
「なんだか、あの一件・・・に関わった人に接触をしてるみたいで、木の実さんが僕に連絡してきて、できれば情報は流さないで欲しいって言ってたんだよね。仲がいいとは思えないんだけど、あの2人・・・」
「まぁ、仲は悪かったと思うぞ。多分、狐さんが何か言ったんだろ。木の実は狐さんの命令だったら何でも従うから。うん、わかったぞ。俺様は俺様で注意するから、あ!」
突然にゅっと出てきた手に、俺様の持っていた携帯電話が取り上げられる。赤いマニキュアの塗られた爪が、携帯電話を抓んで、その本人の耳に押し当てられる。
「お前ら、人の携帯で長電話してんじゃねぇぞ」
「潤のケチ!」
「とりあえず時宮については自分から関わりに行くんじゃねぇぞ、真心」
潤はさらりと言うと、俺様に背を向けて、電話の向こうのあいつと会話を始めた。色々服を買い込んできた小唄が戻ってきて、俺様に数着服を投げる。最近小唄は俺様によく服を着せたがる。面白いことがないからだろうか。見れば、動きやすそうな体のラインの分かりやすい薄着だ。確かに夏も近いから、快適そうだと思うけど、このシンプルさはやっぱり小唄の見立てだろう。
「なぁ小唄、俺さ」
「俺様あ?」
小唄がにこやかに笑いながら俺様のセリフを奪う。俺様は言葉に窮して、少し黙る。それでも小唄の視線が怖くて、小さく、忌々しい一人称を口にする」
「ぼっ・・・ぼくちゃん」
「よくできましたわ、お友達」
小唄は滅茶苦茶怖い。俺様はいい加減お小遣いをもらえるように頼む。俺様は収入というのを、潤とか小唄の手伝いでしか手に入れてなかったから、小唄から貰うしかない。潤の財布は基本的に小唄任せだし。
「まだ早いですわ、真心。せめて一人で出歩けるぐらいにならなければ」
いつになるのやら。俺様は溜息を吐くのを止められなかった。小唄は俺様を外に出すつもりがないに違いない。
そういえば、時宮。時宮といえばかつて俺様の自由を奪った男を思い出す。あいつ、どこかの精神病院にぶち込まれたのだっけ?キッチンに消える小唄と、まだ電話で会話を続ける潤を交互に見て、俺様は一つの計画を構想した。
2009/6・3