■霧散するコーラル・リーフ

 朝起きると室内には一定に鳴り続ける時計の音がする。それを自分は数える。1818、1819、1820、1821、・・・4方向全てが真っ白い滑らかな壁で包まれた部屋には、僕の正面に一つだけ時計がかかっている以外何もない。あえて言うなら左側に一つだけ、扉がある。カーテンも無いけれど、僕は病院のベッドの上に座っている。1843、1844、1845、・・・時計の音は普遍的で落ち着いている。僕はその音を聞きながらじっとしている。今、時計は6時56分を示していた。看護士が来るのにはあと3分24秒。1862、1863、1864・・・僕は時計を数える。
 僕は時計を刻む。時間を刻む。僕は、それをずっと前から続けていた。数えるのは朝、起きてから朝食を食べるまでの間。

 記憶を無くした僕が、何故か毎日続ける習慣。

 意味は無い。意味は分からない。だけれど、僕がこの病院のベッドの上で気がついてから、何故か毎日続けている。
 1880、1881、1882・・・。時計の針は一定で滑らか。けして変わることは無い。きっと僕は、死ぬまでこの習慣を続けるんじゃないだろうか。
 1895、1896、1897、1898、1899、1900。
 1900。
 かちり、と脳味噌の片隅で何か音が鳴った気がした。
 おや、と思う。同時に、ようやくか、とも。
 かちり、と一つの歯車が回転して、金属の触れあう音がした。
 途端、かたかたかたかた、とまるで歯車でも噛みあうかのように、脳内に様々なものが浮かび上がり、ドミノ倒しのように全てが倒れ、開かれ、そして何かが起き上がる。かちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかちかち。


 そこで、ようやく「僕」は眼を覚ます。











 「・・・・ふぅ・・・」
 僕は―――――――時宮時刻はようやく覚醒した。
 思いのほか―――――時間がかかったな。
 溜息を吐いて、僕はもう一度何も無い室内をぐるりと見回す。視界は正常。僕の眼に異常はない。一里塚木の実の術が掛かっているわけでもないらしい。
 僕は無意識に湧き上がってくる笑みを堪える。ここまでは計画通り。うまくいったらしい。



 あの日―――時間にして2年前と3ヶ月6日、2時間3分42秒前。
 時宮時刻は澪標姉妹に殺される寸前まで痛めつけられた。いや、あえて言うなら、ショックで『時宮時刻としての記憶が吹っ飛ぶまで』―――――というべきか。
 僕はそれを事前に察知し、記憶を無くしてしまう前に、『自分自身に操想術をかけた』。
 僕の能力の発動となる鍵はこの二つの眼球だが――――眼を見せないと術をかけられないのならば―――そんな程度の能力者、時宮から追放された『時宮時刻』にはなりえない。衰弱していたとはいえ、この僕が、そう簡単に記憶を無くすなどという間抜けなことするわけが無い。僕は自らに『時計の音を数え、それが1900に到達した時、記憶を取り戻す』という操想術をかけた。痛めつけられる途中から記憶を無くし気絶した僕は、その後一里塚木の実の手配によって、この精神病院に入れられた。
 入ってからの僕は名前すら忘れた記憶障害者として丁重に扱われたようだが、この部屋を見るからにはやりまともな病院ではないらしい。精神異常者というのはどんな時代でも排斥されてきたものだが、その最たるものに入れられたらしい。世界を壊そうと単独行動をした末路が、これか――――僕は思わず笑ってしまう。
 着ている服は普段のスラックスにワイシャツではなく、患者服のようだ。真っ白い、染み一つない服。部屋の中もまったく何もない白い空間なので、これで頭が可笑しくなってしまいそうだ、と僕は思う。もしかしてこの白い部屋には頭の可笑しい人間を入れ続けて、ずっと治さず、お金を搾り取るためなのかもしれない、と想う。今更だが、ここの入院費は誰が払っているのだろう?まさかあの狐さんではあるまい。一里塚木の実、とも思えるが、狐さん以外には南極のように冷たい女だ。きっとありえないだろう。
 もしかしたら、僕の口座から引き落とされているかもしれない。あの空間製作者にとっちゃ、人の口座から金を引き落とすなんて簡単だろう。そもそも入院してるのが僕なのだから、仕方が無いか。
 ふと気が付けば、正面にある時計の針が、6時59分56秒を指していた。657、58、59。かちり。丁度同時にノックがして、背の高い錐のような看護士が入ってきた。
 「おはようございます。異変はありませんか?何か思い出したりは?」
 毎日かけられる言葉に、僕はにっこり笑って答えた。
 「すみません。何も」
 看護士は悲しみもせず、そうですかと頷くと、カルテにさらさらと何かを書き込んで、食事の載ったプレートを運び込んできた。






 まったくおかしくて堪らない。今更想うのだけれど、狐さんを初め十三階段の奴らは揃いも揃って間抜けばかりだ。柔らかくなった蕪を咀嚼しながら、僕はとりあえず過去を振り返りつつ、これからの段取りを考えていた。記憶が戻ったと言ってここから出ようとすると、きっと身元引き受け人にでもなっている一里塚木の実やらがすぐにやってくるだろう。また違う野蛮な殺し名でも引き連れて、今度はきっちりしっかり殺すかもしれない。しかし、それもまたいい。
 世界の終わりが見れないのなら、こんな世界に興味は無い。終わらない世界なんて興味ない。
 『いーちゃん』――――あの男は、世界なんて終わらないと言った。だが、僕はそんな一言『終わらない』と言われただけで納得できることではない。
 世界を終わらせるためだけに―――生きてきたようなものなのだから。
 僕を捨てた全ての事象が、捨てられる姿を見てみたかったのだから。
 プレートの中身をすべて食べ終えると、待機していた看護士がそれを持って出て行く。僕はその背を見送りながら、ぼんやりと時計を見た。かちかちかちかち。落ち着く。やはり、心臓の音だからだろうか。
 心臓―――といえば。思い出すのはあの面影真心。
 元気だろうか。外界のことなんてもはや興味なんてないけれど、ただ彼女だけが気になる。
 唯一、僕に世界の終わりを提供してくれる可能性のある子。可哀想な百獣の王。
 ・・・やめよう。僕は頭を振って、考えを振り払う。もう、終わった話だ。きっと会うこともないだろう。
 僕は久しぶりに、気分転換に外に出てみようと思った。何かいい考えでも浮かんでくるかもしれない。そうじゃなくても、そう、例えばこの中から見れる空が、あの子が立つ場所の上に広がっているものだと考えると、それだけで嬉しい。
 一緒にいたいわけではない。彼女が自由な姿を見てみたかっただけだった。そう、もしかしたら、それが初めて、世界の終わりよりも興味のある事象になりえるのかも――――、いや、くだらないな。
 どうせ、もう会うことはない。『時宮時刻』は死んだも同然。今居る僕は記憶を無くした大罪人。
 僕は何になっても、罪を被ってばかりだ。そして何度も何度も追放される。最初は時宮から。今度は世界から。仕方が無いか。
 僕は気づかないうちに笑っていた。
 なんていったって、世界に愛された子供に手を出したのだ。死んでしまって当然だ。それならば、これが罰か?生温い。
 「追い出すだけの世界なんて、もう要りはしないのになぁ」
 備え付けのスリッパを履いて廊下に出れば、遠くからなんともいえない絶叫が聞こえてくる。どこかで精神を病んだ人が泣き叫んでいるのだ。僕はたまらず哄笑した。自分でも楽しくなってしまいそうなほど、楽しそうな笑い声。僕が笑うと、遠くで聞こえた叫び声が止んだ。おかしい。
 「げらげらげらげらげらげらげらげらげらげら!」
 彼女のまねをして笑ってみる。思ったより爽快だ。こんなに笑ったのはいつぶりだろう。彼女は何を思って笑っただろう。僕は何も思わない。久しぶりに笑ったので、喉が馬鹿になったのか、辛くて咽た。
 ああ、まだ生きてるんだ。まったくもってついてない。
 でも、死んでいるのなら彼女に殺されたい。あの美しい橙色は、きっと醜い紅に侵されても、きっと綺麗だ。ふふ、あはは。初めて貴方を褒め称えよう、一里塚木の実。そうだ。しばらくの目標はあの綺麗な橙に殺されることにしよう。僕はぺたぺたと廊下を歩み、中庭へと向かった。今日は夕暮れを見て、その美しさに涙し、そしてぐっすり眠ろう。脱走は明日から考えよう。一人か二人、看護士を手篭めにするのもいいかもしれない。通りがかった病室の中で、看護士数人に取り押さえられてる患者がいた。丁度僕と眼があうと、まるで縋るような眼をされる。僕はにっこり笑って、その場を後にした。あんな奴より兎角夕暮れだ。まだ朝だけれど、夕暮れのためならば一日中外で待っていたって構わない。世界の終わりを待つのなら、数日外で待たされても平気だ。
 「ああ、世界ってこんなに綺麗だったんだなぁ」
 僕は堪らず笑った。
2009/5・27


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