■人食い鬼喰い狐
ぎぃ、ぎぃ。風で揺られた牛車のどこかにがたが来ている。兎吊木が静かに思った。薄暗い通り、白い土塀が静かに月光を反射して青白く光っていた。
妖怪の一匹でも出てきそうだ。肩を竦める。縁起でもない。
平安の世、平安とは名ばかりで、都を出れば街道沿いには人間の死体が並び、腐敗した匂いが風に乗って基盤上の都を侵す。疫病が流行り、死人の連続、堂々巡りの不幸続き。
夜な夜な百鬼夜行が通りを歩くなんて噂も広まって、今や夜中は家に引きこもって朝日を待ち続ける限りだ。
兎吊木は己の主に当たる男が「ここで待て」という命令を受けて、牛車と共にこんな薄暗い道に一人取り残されてしまった所だった。
ずりおちそうになる烏帽子を直し、伸びてきたな、と思った黒髪を指先で抓む。
道の隅に止めた牛車の台に腰だけを落とし足をぶらぶらと揺らして、兎吊木は不気味に雲の隙間から頭をぬっと出した月を見上げる。ぐうう、と牛が変な声を上げた。まぁ落ち着けよと意味なく牛車の床を撫でれば、その途端、ふと雲が月を覆ったのか、静かに暗闇が降ってきた。
そこでふと、兎吊木は牛達の隣に一人の人間が立っていることに気がついた。薄暗い夜道、月明かりも消えかけたこの瞬間、人間の表情はうかがえない。
「良い夜でございますね、旦那」
声からして男だと思ったが、その身に身に着ける服は女物であると思った。一番下に来ているものは漆黒色の男物の衣服なのだが、その上に煌びやかな女物の紅色の上着を二重に羽織っている。
「――――そうかい?まるで妖怪でも出そうな夜じゃないか。恐ろしくて溜まらないよ。早く帰りたいね」
「きひひ、やけに気弱ですね。妖怪の一匹や二匹怯えていちゃぁ、そう昇格もままならんでしょう。ねぇ?」
そのとき、ゆっくりと雲が晴れてきた。薄暗い夜道が月明かりで照らされて、薄ぼんやりと土塀が光る。牛の隣に立つ男の姿がしっかりと見えた途端、ぎくりと兎吊木は体を強張らせた。
男の頭部、額の両側に四本、小さな角が生えていた。指先のような細い、小さな角が四つ。少し長めなのが2本、両端のその少し下に、左右対称になるように小さめな角が生えている。月光を反射して静かにきらめく髪は銀糸、にやにやと笑う二つの双眸は、兎吊木を移してぎらぎらと紅く照っていた。
鬼。兎吊木が驚きで反射的に牛車から滑り落ちれば、鬼が笑って一歩歩み寄ってきた。ざりり、地面が擦れる。
月光に照らされて今一度確認すれば、鬼が羽織っていた女物の上着の裾から、何か紅いものが垂れていた。ぼたぼたと滴るそれは少しの粘着性を持って、地面を彩る。血だ。兎吊木は頭がかっと熱を持ったのが分かった。
次の瞬間、鬼が素早く跳躍する。哀れにもふらふらと縺れる足で必死にも逃走する兎吊木を嘲笑うかのように、低く飛び出すように走り出した鬼は、一秒と立たず兎吊木をその鋭い爪の餌食にしようと喰らいかかった。
「――――――――――」
兎吊木の衣服を切り裂いたと思った瞬間、指に掛からない肉の熱さや血液の滑り気が感じられないことに眉を顰め、鬼が立ち止まる。手に絡みつく衣服は、先ほど得物であった愚かな下官が着ていた薄紫の外套である。己の真上に獣臭い気配がするのに気がついて、鬼は即座に振り返った。
「やぁ―――――危ない危ない」
しなやかに背後に降り立った男はにやにやと口を歪めて笑った。濡れたような漆黒の髪が総白髪になっている。白く光る歯は犬歯がやけに発達していて、獣のようでもあった。金色に輝く目玉が鬼を映した。
その姿は、どの人間が見ても妖怪だと思うだろう。微かに香る化け狐の匂いに漸く気づいて、鬼が舌打ちした。
「ちっ、人間に紛れてる獣野郎だったか―――――興味ねぇ。失せろ」
夕飯にでもありつこうと思って、一人無防備に座る人間を襲ってみれば、とんだ狐だった。鬼は顔を顰めて、手に絡められた衣服を破いて切り払う。びぃ、と嫌な音を立ててボロ布と化した服を見て、兎吊木は肩を竦める。
「大事な一張羅だったのに」
「葉っぱで服でも作れよ貧乏狐」
くぐもった悲鳴を上げる牛の背中を優しく撫でて、兎吊木は冗談交じりに囁く。「悪いけど、葉っぱで作ると乳首が擦れていけない」
「馬鹿じゃねぇのか?妖狐ってのは頭がいいもんだと思ってたが、なんだ、落ち零れか?」
「落ち零れだったらまだ良かったんだけどねぇ。一族から追い出されただけの犯罪者だよ」
犯罪者、という単語に鬼は首を傾げた。何をやらかしたのだ。
食人鬼の不審気な視線に肩を竦めて、狐は静かにかつての己の郷に思いを馳せる。
「可愛い女の子に変化して、一日中他の少女達と遊んでいただけだってのに、まったく何がいけなかったんだろうねぇ」
「・・・なんだ、変態野郎か・・・」
溜息混じりに本気で悔しがる化け狐に心の底からあきれ返って、鬼はその場を後にしようと踵を返した。人間が食えないのならばこんな所で無駄な時間を費やしている暇は無い。時間がかかれば心配性の家族が迎えに来る事だってありえる。
ゆっくりと足元を暗く照らす月光と雲の陰に紛れて、狐はゆるりと柔らかな動きで鬼の正面へ周りこんだ。獣さながらの素早い動きに、変態でも狐は狐かと心の中で賞賛を贈れば、狐はにやにやと笑いながら化けていたときより伸びた爪の乗る、青白い指を鬼の首に這わした。
「なんだ」
「殺人鬼さまが腹が減っておりますのも分かってますけど、それを言うなら俺も腹が減ってるんでございましょうよ」
まるで他人事のようにわけの分からない台詞を並べて、兎吊木は鬼の体にしなだれかかった。首にかかる息に顔を顰め、獣臭い、と鬼がそれを払う。
それを跳躍して避けた兎吊木は、一回転して土塀の上に降り立った。今度こそ狐である獣の姿に変化すれば、人を食ったような不可解な笑みを浮かべて、「まぁ、君にはちゃんとお詫びをするから、見逃してくれよ」と変に情けない声を上げた。腐れ狐が。鬼が吐き捨てる。
人間であった時とは比べ物にならない速さで通りを逃げていく狐の その後姿をしばらく睨みつけ、体に残る狐の匂いに苛々していると、背後で引き攣った悲鳴が上がった。くるりと反転してみてみれば、人間に変化していた時の兎吊木の上司であろう人間が腰を抜かしていた。無意識のうちに形作った笑みをくっと押し込めて、空気に混ざって広がり始めた殺人鬼の殺気に、牛達が数度戦慄く。
一度月光が雲で遮られ、僅かな暗闇が街を閉ざせば、再び辺りが明るくなった時、既に人間も鬼も消え、そこには一つの牛車だけが残っていたという。
2008/5・25