■そんな貴方に恋をしている
「アス、オーケストラを聴きに行かないか」
リビングにやってきて早々に、酷く楽しそうに曲識が声を上げた。片手に藍色のチケットだと思われる紙を持っており、今まで軋識と人識が見たこともないような満面の笑みだった。
曲識は、リビングのソファの上でテレビゲームに勤しむ人識を見つけて、「ああ、人識もいたのか」と笑みをなくして呟いた。なんだその変化。別に曲識の笑顔が見たかったわけではないが、人識は心の中で溜息を洩らす。
「オーケストラ?」
「明後日、近くの会場で行なわれるそうだよ。知人が、つい先日用ができて行けなくなったから、チケットを譲ってもらったんだ」
飛び回るまではいかないが、普段よりやけに楽しそうな曲識は実際のところ恐ろしい。ソファに座る軋識の後ろに回って、背凭れにに逆側からのしかかる。体を反ってチケットを見ながら、軋識は「明後日?」と微妙な顔をする。
「明後日は、」
「残念ながら先客でぇす」
ゲームをしたまま、人識が間延びした声を上げた。何?と曲識が顔を歪め、どこにだい?と軋識に問いかける。
「どこ、って決まってる訳じゃねぇっちゃけど・・・適当にドライブでもしながら服とか本とか、見に行かないかって」
「ほら、隣の市に馬鹿でかいショッピングモールできたとか言ってたじゃん。あそことかさ」
軋識と人識の説明をひとしきり聞いて、曲識は「ふむ、」と頷く。
「キャンセルしてくれ」
「はぁ!?ざけんな!」
「人識、口悪ぃっちゃよ」
反射的に口を荒げた人識を叱り、軋識が軽く人識の頭をぺしりと叩く。しかしそれでも人識は口を尖らせて、納得できないとでもいうように顔を顰めた。
軋識も一応人識を咎めながらも、曲識の破天荒な意見に難色を示しているようで、困った顔をしながら、真後ろにいる曲識の顔を逆さに見上げ、悪いが、と言葉を紡ぐ。
「人識との約束は結構前から言ってたっちゃから、そう簡単にはキャンセルはできねぇっちゃ。誘ってくれたのは嬉しいっちゃけど、レンとか、他の暇そうにしてる零崎にでも連絡とって行った方が」
軋識の意見に、「ふむ、あえて他人を押してくるか・・・悪くない」と呟きながら、曲識はそれでも譲れないと頭を振った。
「しかし、この近所にオーケストラが来るなんて、滅多にないことだぞ?それに来る楽団はアスが前に絶賛していたCDの演奏者だからな。是非一緒に行って欲しい」
「俺が前に絶賛・・・・・あ、ああ・・・あれか・・・そうだなぁ、確かに生で聴いてみたいとも思うっちゃけど」
ぴくり、と胡坐をかいた人識の足が反応する。そんな動きに苦笑を洩らして、軋識は人識の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。ゲーム中なので、「ひぎゃあ!」と間抜けな声が上がった。
「家族の約束を突然無碍にはできねぇっちゃ」
「・・・・・・・悪くない」
優しげに細められて、少し微笑んだ軋識にくすりと笑みを零して、曲識は肩を竦めた。ああ、こういう人なのだ。いや、零崎ならば皆こんな反応をするだろう。・・・いや、レンとかなら、妹と弟のお願いだったら妹の願いを聞くだろうが、この男はいつだってどこだって、家族に対して平等だ。平等に愛して平等に厳しくする。父親のような男なのだ。
曲識は心地よい気分になりながら、テレビ画面に視線を移した軋識の顎を、背後からそっと手を伸ばして触れた。「ん?」と振り向きそうになるのを、くい、と上に向けさせて、上から降り注ぐようにキスをする。ちゅ、とわざと音を立てて唇をあわせれば、テレビからおどろおどろしい音楽が聞こえてきた。少し視線をテレビ画面に移せば、画面は真っ赤に変色していて、でかでかと「GAME OVER」の字が出ている。いい気味だ。曲識は笑って顔を離した。
「何やってんだあんたは!?」
裏返った声で叫ぶ人識に、「キスだ」と堂々と曲識が答えれば、「見れば分かるわ!」と真っ当な答えが返ってきた。
「じゃあ何が聞きたいんだ?」
「なんで大将にキスしてんだよ!ここでキスはねえだろ!別にラブラブな雰囲気でもねぇっつーのになんでこの流れでキス!?隣に俺もいるだろ!?あああくそ、キスキス言い過ぎてキスがなんだか良く分からなくなってきたわ!アホか!」
コントローラを投げ出して叫ぶ人識に、悪くないと言葉を紡いで、曲識は自分の顎を摩った。
「じゃあ、今度は人識がいないときを見計らってやろう」
「そういう問題でもねぇよ!!」
再び絶叫で返し、人識が曲識に掴みかかろうとする。それを一歩下がるだけで避けて、曲識はやれやれと呟く。
「アスと一緒に行きたかったんだけどな」
軋識は口元を押さえて顰め面をしていたのだが、曲識のその台詞に苦虫を噛み潰したような顔をして、「悪いな、今度埋め合わせしとくっちゃ」と呟いた。こくりと頷いて、曲識はリビングを後にする。
ソファの背凭れを飛び越えて曲識に体当たりをかまそうとしている人識に、「アスに振られたのは僕なんだから、これぐらい許してくれてもいいだろう」と言ってやれば、「振られたなら振られたらしく泣き寝入りでもしてろ!」と叫ばれ、曲識はひらひらと手を振ってリビングを後にした。あの頑固で素直、そして思い込みの激しい男は、きっと納得して本当に泣き寝入りでもしてみるのだろう、と思えば、なんとなく自分がいじめたような気分になって、軋識は感触の残る唇を指で触れながら、チューナーでも買ってきてやろうか、と思った。
「ああ、くそ、なんか負けた気がしてならねぇええ!」
人識の子供のような叫びにきひひと笑って、軋識は人識の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。「なにすんだよ大将、」とへなへなした声で怒られて、軋識は曲識の真似をして、「人識の髪を撫ぜてる」と答えた。
「ちげぇよ!」
「悪い悪い、そうだな、なんでだろうっちゃね?」
やけに満足げな軋識の顔を、自分の髪を手櫛で直しながら伺って、人識は思った。ああ、くそ、反則だ、そんな優しい顔!
2008/5・4