■恋の常識

 「それじゃあ、曲識さん、また今度」
 妖艶に笑ってみせる女性は、その大人の雰囲気がたっぷりと篭った笑みと真逆に、可愛らしく手を振り店を後にしていった。一気に静かになった閉店後の店内で、グラスを拭き終えた店員も、それでは、お疲れ様でしたと一言伝えて奥へと引っ込んでいく。
 人気の無くなった店内のカウンターにて、一人残ったまま空のグラスを前にじっとしている男を見て、酔っているのだろうかと溜息を吐きながら、曲識は入り口に施錠をした。鍵穴から鍵を引き抜き、扉が閉まったことを確認しながら、曲識は一向に動こうとしない男に声を掛ける。
 「閉店だよ、アス」
 「それは分かってるっちゃ」
 ぐいっと体を伸ばし、軋識は肩を竦めてみせた。一応スーツを身に着けている軋識は普段の牧歌的な雰囲気とは程遠く、落ち着きがあり、やけに雰囲気がある。改めて見た家族の新しい一面にもやもやとした感情を芽生えさせながら、曲識はピアノをライトアップさせている灯りの電源を落とし、軋識の前に置かれたままのグラスを持ってカウンター内に引っ込んだ。
 軋識の髪は普段の脱色した白髪だが、帽子の中に納められている髪を今は後ろに撫で付けていた。しっかりと着込んだ漆黒のスーツを唯一彩る深い色合いのグリーンのネクタイが硬い格好を柔らかく解しており、近づきがたい雰囲気を爽やかに払拭している。若作りの家族はこう見れば普通の好青年であった。
 「アス、さっき口説かれてただろう」
 ふと、閉店間際にお得意先の情報屋が軋識に声を掛けていたのを思い出し、曲識は手早くグラスを洗いながら問いかけた。う、と顔を顰めた兄貴分は、それがどうかしたか、と無理に平静を装ったままジト目で曲識を見上げてきた。
 「いいや、思い人がいたはずだろう?」
 「・・・・・・・」
 今度こそ何も語らず沈黙で返し、軋識は曲識から顔を背けながら、「別にあれば口説かれてたわけじゃねぇっちゃ・・・」とぼそぼそと聞き取りづらい声で吐き捨てた。
 「じゃあなんて声掛けられてたんだ?」
 「仕事を何やってるか、とか、名前とか聞かれただけだっちゃ」
 「ほうら、立派なナンパじゃないか。いくら恋愛に疎い僕だといえど、それぐらいは分かるぞ」
 自信満々に言い切って見せる曲識に、むしろ逆に食って掛かり、軋識は、ほう?とにやにや口元を歪めながら聞き返す。
 「お前こそ随分な人気っぷりじゃねぇっちゃか?ええ?」
 「僕の場合は僕がこの店のオーナーだからだ。それに僕がたとえ人気だとしても、人気の理由は僕の音楽だ。彼女達が僕に興味を持っているわけじゃない。僕の曲に興味があるんだよ」
 「そういう割りに、『曲識さん、また今度』とか、曲関係ないっちゃろうが」
 自身有り気な態度を一向に崩さぬまま、曲識は落ち着いた表情のまま軋識を見返す。曲識は冗談でも何でもなく心の底から先ほどの女性達の興味が己の弾く曲にしかないのだと思い込んでいる。なんという鈍感野郎だ、と自分のことを差し置いて軋識は心の中で舌打ちする。
 忌々しげに顔を顰める軋識としばらく見つめあい、沈黙の末に小さく首を傾げながら曲識は軋識が予想だにしなかった言葉を口にした。
 「もしかして、嫉妬しているのか?」
 誰にだよ。
 うっかりキャラ作りも無くしぽろりと吐いてしまいそうな台詞も、二重にうっかりして言うことも忘れ、軋識は、はぁ?とでも言いたげな表情のまま固まった。
 おい。おいおいおいおいちょっ、ちょいと待て。
 軋識は驚きのあまりテーブルの無い所に肘を置いてしまいがくりと体制を崩しながら、けして冗談ではなさそうな表情のままこちらを見つめてきていた曲識を見返す。
 「嫉妬ぉ?誰が?誰に?何を?」
 「僕が女性に人気があるのに、アスが、嫉妬」
 あ、ああ、だよな!心の中で人識に恋愛感情でも抱いてるんじゃないかというほど溺愛していた双識の姿や、ショタも可愛いよなとか言い出していた同志の一人を思い出しながら、どっと噴出した汗が急激に冷めるのを感じ取りながら、軋識は胸を撫で下ろした。一瞬でもあいつらと同類にしてごめん。トキ。心の底から謝罪する。
 つまり―――と曲識は言葉を続ける。
 「アスは僕が他の誰かに奪われるのが嫌なんだろう?」
 なんだそれ!!
 心の底からの謝罪を今すぐ撤回したくなった。
 グラスを拭き終え棚に戻す曲識の背中を睨みながら、軋識は答えをどうしようか迷う。やばい。こいつ、前々から不安だったが、マジで大丈夫なんだろうか。
 「アスは僕のこと、大好きだから」
 自信満々に言われたその言葉に、反論しようにも反論できなくなる。これ拒否したら自分で自分に大ダメージを受けることは必須だ。曲識の純粋なこの目に俺はこの時点で既に逃げ帰りたい気持ちでいっぱいだ!双識あの野郎一体どんな教育しやがったんだ畜生・・・!
 心の中で今ここに不在の零崎三天王の一人を詰るが、既に軋識は曲識の術中にいた。
 「アス」
 曲識の手がカウンター越しに軋識の手を拾い上げる。人間を撲殺する禍々しい凶器を手にするとは思えないその軋識の手を優しく握り、曲識は普段の一転の曇りもない目で真っ直ぐに軋識を見つめた。
 「愛してるよ」
 顔が一気に紅潮するのが分かる。今時、しかも男相手に、真正面から、その上脈絡もなく、言うか!?言えないだろ普通!っというか、俺は言えない!
 軋識は実際にはこんな面と向かって愛の言葉を言われたことなんて初めてでもあった。突然の、しかも初めての、聞きなれない言葉を直に言われ、色々と言葉を無くしてしまう。
 「ほら、顔赤い」
 「おっおまっ・・・てめ、ぇ、もしかして、想操曲、」
 「うん?・・・いや、使っていないが」
 咄嗟に相手のせいにしてしまおうと口が動くが、逆に曲識は不思議そうに首を傾げて否定した。なんだ、そんな、まさか。
 軋識が絶句して予想していなかった己の感情に動揺しているのに追い打ちをかけるように、曲識は首を傾げて「もしかして」と呟きながら、かすかに笑った。
 「アスが僕のことが凄く好きなの、自覚してなかったのか」
 そんな自信満々に言い切るな!なんだその楽しげな笑みは!逃げ出そうにも手は曲識に握られており、しかも唯一の知っている脱出口は先ほど曲識が施錠した。
 まさに絶体絶命。しかし曲識は追い打ちをかけるかのように、羞恥や衝撃によって禄に声もだせずに小さく喘ぐだけの軋識をにこにこと笑ったままみやり、そういうアスも愛してるよ、と再び赤面してしまいそうな言葉を、事も無げに囁くのだった。
2008/4・13


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