■眼窩に焼きつくその赤と

 きゅっ、と金属が擦れあう音を立ててコックを捻れば、頭の上から降り注いでいたシャワーから吐き出されたお湯が止まった。一気に静かになったシャワールームの中、タイルに立つ己の脚が急激に冷えていく感覚がする。
 体に張り付いた黒い己の髪が鬱陶しく、一つに纏めて頭部の方から絞れば、びちゃびちゃとまだ暖かい水滴が多量に床に巻き散らかされる。
 臭い。
 排水溝へと流れていく泡を見ながら、出夢はぼんやりと思った。すんすんと鼻から空気を取り込んでも、そこに充満するボディーソープの匂いがどれほど甘ったるくとも、出夢は思う。
 くせぇ。
 肉の、人間の血液の匂いがする。取り付けられた大きな鏡に映し出された己の骨の浮き出た女の、まだ未発達である少女の体を見て、出夢は何度も思った。醜いと。
 ・・・・・疲れた。
 人殺しは、事実、楽しい。楽しくない仕事もあるが、別に嫌いと言うわけではない。嫌いだったら殺し屋なんてしない。殺しは趣味だ。
 でも。だが、しかし。
 疲れた。
 はぁ、と己を嘲笑うように口元を歪めて溜息を吐き、出夢はふと過去に出会った一人の殺人鬼を思い出す。
 「・・・『零崎』は疲れないんだろうなァ・・・ぎゃはは」
 これが、人と鬼の違いか、と。
 殺戮中毒である己は人間なのだ。殺し屋として、それでいて人間である。
 だから人殺しは趣味だ。言われるがままに人を殺す。惨殺する。食い散らかす。
 だが、零崎は。人外である鬼は違う。
 呼吸をするように人を殺すのだ。飽きがくるわけもない。呼吸をするのに飽きる生き物なんてありはしないだろう。
 殺人鬼にとって、人を殺すのは通常なのだ。殺人鬼なのに人を殺さないなんてありえない。人を殺さない殺人鬼は、もはや殺人鬼ではない。だからそれ故に、殺人鬼は正常だ。おかしくはない。
 おかしいのは、人の癖に人を殺す人だろう。
 つまり僕だ。
 出夢は思う。
 冷えてきた体を急かす様にシャワールームを出て、衣服を用意していた場所に同時に準備していたバスタオルで大雑把に体を拭く。そのまま体にバスタオルを巻きつけただけの状態で、ホテルのベッドに放り投げていた携帯電話の開けた。
 電話帳を開くのですら面倒くさく、そのまま直に覚えている電話番号を入力する。即座に呼び出し中と画面が切り替わるのを見つめながら、出夢はその向こうに出てくれるであろう世界の全てを待つ。
 『はいはいっ!名探偵匂宮理澄なんだね!』
 少しも変わりの無い、携帯電話だというのにかけてきた相手すら確認せず、己の名前を堂々と言い放つ妹に苦笑を洩らし、出夢は楽しそうに肩を揺らし、ぎゃはは―――と笑う。出夢の気の抜けた、普段より張りの無い哄笑を聞き、電話の向こうで理澄は驚きの声を上げる。
 『むっ!その笑い声は兄貴なんだねっ!?』
 「ビィーンゴぉ!さっすが理澄だなぁ。兄ちゃんは鼻が高いぜぇ?ぎゃははははっ!今のは理澄の愛の力で分かってくれたのかい?それとも流石名探偵って奴?」
 げらげらと笑い転げながらベッドに体を沈め、嬉しそうな妹の声にほっと息をつく。普段とどこか違うような兄の声にきょとんとしながら、理澄は『なになに、どうかしたのかな?』と心配そうに受話器の向こうへ問いかけた。妹に心配をかけてしまったことを恥ながら、それでも己を思ってくれるという事実に嬉しそうに笑みを零し、出夢はなんでもないよと気楽そうに返答する。
 本当に深い意味があってかけたわけではない。ただ、ふと先ほどのようなことを考えると、愛しい妹の声が聞きたくなるのだ。強さで構成された己には弱さというものは不必要なのだ。ある意味欠損しているといってもいい。それ故に考えすぎるとどこか不安定になる。
 『兄貴、今どこにいるの?あたしはねっ、今京都に着てるんだよっ!お寺いっぱいだね!周ってもいないけど京都にいるってだけでなんか上品になれた気がするんだね!凄いね!』
 「僕は新潟だぜ。ぎゃはは、別に面白いこともなくってひまひまひまひまひますぎて死んじまいそうだぜぇー。僕理澄ちゃんにあーぃたーいなぁーぁああっ!ひゃっほう一世一代の告白っちゃったぜぇぎゃははははは!」
 叶わない願いだが、思わず吐き出してしまった本音を紛らわすために哄笑を上げる。本当は出夢も京都に来ている。ついでに言うならば理澄は出夢が泊まっている同じホテルの中にいた。そしてついでのついでに言うならば、出夢の泊まっている部屋の下階にチェックインしているのだ。
 これほど近いというのに会話は電話だ。その事実が苦しく、面倒くさいと思う。
 『あたしも兄貴に会いたいなっ』
 純粋な理澄の願いに、「じゃあ今すぐそっち行く」なんて言葉を口走りそうになるのをぎりぎりで止め、出夢は少しだけ言葉を無くし、沈黙の末に「いつか会いに行くよ」と答えた。
 『ほんとっ!?いつ?いつ会える?』
 「んー・・・仕事が終わったら、ってーか、ちょっと暇になったら、かな。もし世界の裏側だってすぐに会いに行ってやるよ」
 出夢は心の底から、謳う様に言う。
 「僕はいつでもどこでもいつまでも、理澄のなんだから」
 『じゃあじゃあ、あたしの全部は兄貴のなんだね!』
 そして、そんな馬鹿みたいな言葉に馬鹿正直に心の底からの言葉を元気に言って、理澄の楽しそうな笑い声が受話器越しに出夢の心臓を鷲づかみにする。
 「ああ・・・うん。だよな」
 『だよっ!だから兄貴、いつでもあたしは兄貴が大好きだよっ!』
 また、唐突にそんなことを言う。
 要領の得ない天真爛漫な妹の言葉に苦笑を洩らし、当たり障りの無い会話を続ける。
 こんな風に生まれて、こんな風に生きてしまって。何度立場が逆ならばと思っただろう。だが、理澄が人殺しになるなんて嫌だったし―――、人が殺せない自分も許せないと思う。しかし理澄と自分は別の生き物ではない。己が理澄であり、理澄が己だ。
 だから、立場が逆だったとしても思うことは結局同じだ。出夢は耳に直接届く大切なたった一人の妹の声を聞きながら、鬱陶しいとさえ思っていたこの長い黒髪も、理澄のものならば酷く大切なものに思えてきて、一人、濁った夜の闇を切り裂くような狂ったような哄笑を上げ続けた。
2008/4・12


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