■麻酔音
室内に響く大音量のピアノの音とヴァイオリンの奏でる旋律が重なり合って、一つの音楽を作りあげている。ヴァイオリンを奏でる男は己の音楽に酔っているのか心地良さそうに瞼を閉じて弦を引いていた。しなやかな手は純白の手袋に覆われており、それと対照的な漆黒の燕尾服が男が微かに動くたびに衣擦れの音を立てるが、それを室内に反響する音の戦慄が殺した。
対して、ピアノを弾いている男は顔を歪めて酷く苦しそうだった。見ればピアノを弾いている男の両手の指は真っ赤に腫れており、馴れていない人間が長時間ピアノを弾いているかのようだった。確実に何本の指かは攣っているだろう。しかし何故か男はピアノを弾くことをやめない。否、やめることができない。
男はかれこれ5時間という長い間、一曲をただひたすらに引き続けていた。ピアノの上に設置されてある楽譜は捲ることもされず、ただ一番最初のページを開いたまま、その楽譜に存在する手書きの黒い音符を正面に座る男に見せ付けている。音符の数はほぼ連弾ととっていいのか細かく刻まれている。
男の肩は限界に近かった。腕が筋肉痛で痙攣を起こし始めている。意思と反してその指一本一本は自我を持っているのかとでも言いたくなるほど自由自在に蠢きまわり、鍵盤の白と黒にその指をたたきつけている。
もはや拷問に近いその所業とは真逆で、それによって室内に響く音楽は感嘆を零してしまいそうなほど洗練されている。壮大なピアノのメロディに重なるヴァイオリンがそれを優雅に仕上げてあり、事実ヴァイオリンを奏でている男は酷く幸せそうだ。
ばんっ、と最後に複数の音を力強く上げたピアノと同時に、ヴァイオリンの音もぴたりと止まる。ピアノを弾いていた男は脂汗を浮かべながら、勝手に動くことがなくなった己の赤くなった両手を見て、小さく奥歯を噛み締めた。
「素晴らしかったよアス」
にこやかに言ったのはヴァイオリンを奏でていた燕尾服の男だった。五時間という長時間を二重奏で奏でていたとは思えないほど爽やかであり、腕を酷使したことによってヴァイオリンを持つ手ががくがくになっていても仕方が無いと思うが、男は何ら変わりなく、右手にヴァイオリン、左手に弦を持って、手の甲を使って拍手までしていた。
「アスはピアノが上手そうだな、と前々から思っていたから、嬉しいな」
「・・・・・・」
にこにこと満足そうに笑う曲識を睨みつけ、軋識は微かに動かすだけで激痛が走る両腕をそのまま膝上に下ろし、未だ声の出ないことに気がついて開きかけた口を閉ざした。
「でも、あまり弾かないから手が馴れないんだな」
曲識の言葉はどこまでものんびりと優しい。白い手袋に覆われた手が、降ろされたままの軋識の手を掴み上げた。激痛と共に腕が引き攣る感触があるが、軋識の喉は単語一つとして零すことはできない。かすかに口が開いたとしても、喉からはひゅう、と吐息が吐かれるだけだった。
「でもゆっくり馴れればいいさ。時間はたっぷりあるんだからな。・・・今度、アスのために曲を作ってあげよう。悪くない」
曲識は今にも椅子から崩れ落ちそうなほど蒼い顔をした軋識に無邪気に笑いかけた。その額に浮かんだ汗を懐から取り出したハンカチで拭い、にこにこと子供のようにステップを踏む。
「いつかここで2人で演奏会なんてどうだ?家族を招待して、きっとレン達もお前がピアノを上手く弾けたら仰天するぞ。僕がアスは繊細だからな、って言うとあいつら釘バット振り回す人間が繊細なわけないだろって笑うんだ。酷い話だろう」
こつこつとステージに響く靴音ですら曲識の奏でる曲でもあるのか、曲識は想像するその演奏会を笑いながら謳った。
「ピアノが弾けるようになったらクラリネットなんてどうだろう?いや、アスだから金管楽器でもいいね。トランペットやコルネットはレンのイメージがあるけれど、トロンボーンとかホルンなんてどうだろう?バストロンボーンなんて僕も丁度欲しかった所だから買ってしまおうか。チューバなんてまでいくとアスには似合わないかもしれないな・・・二重奏だから流石に駄目か。いや、そうだ」
くるりと反転して、曲識の燕尾服の裾が揺れる。肩口までの柔らかくウェーブした髪が曲識の頬を叩くのは酷く女性のように微笑ましかったが、軋識は曲識の次の言葉に肝を冷やした。
「レンもいれて三重奏でもいいな。今まで一人で演奏するのも少しつまらなかったけれど、三人の方が曲幅が広がっ」
嬉々として夢を語る曲識はそこでようやく言葉を切った。ピアノの椅子に座り込んだままの軋識が体をこちらに自力で向けて、声の出せないままじっと曲識の方を睨みつけているからだ。
「・・・嘘だよ」
曲識は途端に表情を無くして、無言のままこちらを睨みつけてくる軋識の目を見返す。軋識が無言のままふるふると頭を振るのに、少し悲しそうな顔をして、「うん、そうだね」と小さく笑った。
「分かってる、分かってるよ。レンを呼んだら、きっとアスを離せって怒られちゃうしな。演奏会もしない。アスのピアノを聴けるのは僕だけで十分だからな」
曲識はヴァイオリンを丁寧にテーブル上に置いておいたケースに仕舞いこみ、未だピアノの前で前屈みになったまま動くことができない軋識の元へ歩み寄った。そのまま軋識の元へしゃがみ込み、赤く腫れあがった両手をそっと持ち上げた。それすらに顔を顰め唇を引き結ぶ軋識をそっと笑いかけ、曲識はにっこりと笑った。
「痛みを取り除く曲を弾いてあげようか。流石に傷を治すことはできないけれど、再生能力は上がるよ」
優しい呟きに、既に苦しみが取り払われていくのを感じながら、軋識はぐっと息を詰め、目を硬く閉じた。
「痛みが引いたら、もう一度練習しようか。凶器を持つ手より、音楽を奏でられる手の方がいいよ」
曲識の言葉に一切の毒は無い。むしろ軋識を慈しむかのようなそんな言葉を聞きながら、もはや痛みを無くし、ただのぶよぶよとした塊へと変化した気がする手が既に動かないことに気がつき、知らず知らずのうちに口角を上げていた。
もしもこの手が無くなったならば、曲識は俺を捨てるだろうか。楽器も弾けない人間に興味があるものか!馬鹿な男だ。苦しみと殺人ならば後者を選んでいいほど、俺たちが殺人鬼だということを自覚できていないのだろうか?
「アスが、人を殺すだけの手なんていらないって言ったんだからな」
言い訳のように、曲識は繰り返す。煩わしい。だからといってお前にあげるなんても言っていない!
ただ無言のまま自嘲するように皮肉気な笑みを浮かべた軋識を見落ろし、曲識はそのまま唄を謳った。誰のためでもない、ただの永遠になればいいと願う、自己満足のためだけに。
2008/4・6