■美しき哉この箱庭
 ふと目を覚ませば、視界に映ったのは蛍光灯と白い天井、そしてベッドを区切るカーテンだった。体に纏わり付く布団がぬくぬくとしていて心地よく、再びうとうととまどろむ。ここはどこだっただろう。薬品の匂い。保健室?
 「姉ちゃん」
 瞼を閉じようとした瞬間、愛しい弟の声が割り込んできた。真横から覗き込んできた七花の長い黒髪が私の肩口を滑る。
 真っ黒な二つの目玉が私を見下ろしてきた。見開かれた双眸に私の寝ぼけ顔が映っている。
 「・・・しちか」
 「またサボったのか?」
 寝起きのせいか喉が掠れる。私の声を聞いて、苦笑交じりに七花が小首を傾げた。失礼ね。ちょっと眠っただけじゃない。
 反論しようと顔を顰めれば、びー、と間抜けなブザー音が響いた。瞬きをする私の前で、困ったように七花が言う。「もう放課後だよ」
 ・・・確か、私が寝始めたのが3時間目過ぎ・・・ということは大体5時間ぐらい寝たのかしら。
 「・・・・そう」
 「そう、じゃないだろ姉ちゃん」
 「困ったわね」
 「困ったわね、でも無い・・・あーまぁいいか。面倒くさい」
 七花はそう言って肩を竦めて、教室にある筈の私の鞄をベッドに乗せた。わざわざ持ってくるなんて。首を少し動かして窓から外を見れば、薄い水色が橙色に侵食されているところだった。薄い雲が霧のように夕日の光を孕んで、薄い桃色に色づいている。
 「鞄、三年の教室に行って持ってきたの?」
 「ん?いや、姉ちゃんと同じクラスにさ、真庭蟷螂?って居るじゃん。そいつが持ってきた」
 ・・・普段私のことを怖がって近寄って来もしないあの三人組の一人のはずだけれど。どういう風の吹き回しかしら。私が首を傾げれば、ベッドに上半身を突っ伏して、七花が言う。
 「あの人、姉ちゃんの彼氏?」
 「馬鹿言うんじゃないわ。私がもしも彼氏を作るとしたら、私よりも強くて七花より可愛くなくちゃ」
 「・・・多分一生いないと思うけどな」
 呆れたように、はは、と乾いた笑みを浮かべて七花は視線をうろつかせた。自分より可愛い人間がいないなんて、いつの間にこんなに自己主張の激しい子になったのかしら。・・・まぁいいわ。少しぐらいキャラが立たないと困るもの。
 姉ちゃんより強い人なんてきっと地球を真っ二つにできるような人だろうな・・・とかごにょごにょ呟いているように聞こえるけど、きっと空耳だわ。それに私が地球を真っ二つにできるかできないか分かってもいないくせに。・・・まぁ私も分からないけれど。
 「帰ろうぜ姉ちゃん」
 「・・・そうね」
 お腹も空いたし、もう学校が終わったのなら帰るしかないし。
 椅子から立ち上がり私が起き上がるのを待つ七花は、ぼんやりとグランドの方を見つめていた。サッカー部や野球部や、大人数がわらわらと虫のように蠢いている。そういえば七花は部活、入ったのかしら。
 守らなければならない存在、というものが人間には必ず一人はいる、という迷信まがいのことを、私は少しだけ信じていた。ならば七花を守るのは私だ。だから今までずっと守ってきたし、これからだって守るつもりでいた。
 すくすくと成長した七花は、幼い頃の面影はその曇りの無い真っ黒い黒真珠のような目にしか残っておらず、逞しい大人の人間へと育った。精神的にはまだ幼い部分が残ったが、それもしょうがないと思う。私がずっと籠に入れて、大切に育てたのだから。
 半袖のワイシャツから突き出た均整のよく取れた腕を眺め、その綺麗な手を見つめる。父と幼い頃から稽古に励んだその手は、私の手と百八十度違って、あちこちタコができていた。手の甲にとつとつと浮かび上がる骨の突起が愛しく、この手に愛される女は一体どんな人間なのだろう、と思った。
 胸に湧き上がる嫉妬と欲情にじくじくと痛みを感じながら、私はその手を掴み、そっと身を起こして口付けをした。突然のことに驚いた七花の息を飲む声が頭上で聞こえる。いい様だわ。そうやって、余裕ぶって、何も知らない子供みたいに、私を知らない間に弄ぶから。
 「七花、私のこと、好き?」
 七花の手を裏返し、生命線の長いその掌に唇を押し付けながら囁けば、七花は少ししゃがみ込んで「ああ」と一言、さらりと答えた。
 少女漫画でもよくあるベタな応答だ。くだらなくて反吐が出る。そんな幼稚な、好意の確認なんてしたくもない。
 同じ血肉を分けた存在として、単純な男女として、ただ同じ月日を何年も過ごしてきた関係として。
 「私を抱いてくれる?」
 そんな微温湯につかったままの、赤子のような関係など!この肌を分ける全ての事象が憎らしく、私と七花を分けて産んだ、あの忌々しい女が憎くて憎くて仕方が無い。
 「いいよ」
 七花はちょっと笑って、素直に答えた。私が息を飲む間に、私はすっぽりと七花の腕の中に納められた。
 違う、違う。こんなのじゃない。こういうのじゃないのよ。父さんがあの女にするように、―――――。
 七花のやけに高い体温が私の体に染み渡っていく。抱きしめられた体が悲鳴を上げて、私は知らず知らずのうちに七花の背中に爪を立てて抱きしめた。「痛い痛い、」と七花の嘆く声が耳元で言われた。だからどうした。私の言うことが聞けない、駄目な弟の貴方が悪いのよ。
 「こういうのじゃないのよ」
 「分かってるよ」
 「じゃあ、」
 「でも、母さんは父さんによくこうされてた」
 反射的に鞄の中からカッターナイフを取り出して七花の背中につきたてようかと思った。その後直に私が死ねば一緒の所にはいけそうじゃない?我ながら物騒なことを考えてる中にも、七花はそっと言った。
 「母さんは、凄く幸せそうだったよ」
 「・・・・・・・私が望んでるのとはちょっと違うわ」
 「姉ちゃんは、これ、嫌か?」
 不思議そうな声がする。どうしてそんな素直にそんな恥ずかしいことが言えるの。薄いシャツを隔てて、七花の掌が優しく私の背中を撫でた。そんなにあやす様にしないで。私が貴方の背中に爪を立てたのが馬鹿みたいじゃない。
 空が赤く色づいている。血の色より優しく、七花が風邪で熱を出していた時の頬の色より冷たい。
 「明日、体育あったかしら」
 「姉ちゃんの時間割は分かんないけど・・・」
 「七花のクラスよ」
 ぎしっ、と扇情的にベッドのスプリングが軋んだ。夕暮れの保健室のベッドの上、男女が二人で抱きしめあっているというのに、その行為は呆れるほど幼稚で、拙い。んー、と間延びした声がして、七花が確かあるかな、と答えた。
 私は最後に猫のように七花の背中に盛大に爪を立てた。「いだああっ!?」と間抜けな七花の悲鳴が上がり、ついに私たちは抱きしめあうのをやめた。ベッドの上に崩れ落ち、七花がうあああ、と嗚咽を上げる。
 「せっ、背中っ・・・!背中がぁあああ」
 「見てあげるわ」
 私がやっておきながらべろりとシャツを捲り上げる。真っ赤な筋が筋肉の綺麗についた背中を無数にのた打ち回っていた。クラスの女子が外国の俳優の背中がすっごくエロイ、とかなんとか言っていたのを思い出し、なるほど背中ってこんなにエロを感じるものなのね、と一つ私は学習した。
 「なっ・・・何を・・・」
 「明日着替えをする時が楽しみだわ」
 生意気にも私の言いたい事を汲んでおきながら、それでも抱きしめるだけで終わらせた弟への小さな復讐として、私がつけた傷痕は夕暮れを映してやけに艶かしい。へ?と首を傾げる七花に私は自分でも珍しく笑いかけ、そのぼさぼさ頭を優しく撫でた。
 「その男の勲章とやらは、一体誰につけられたのかしらね、鑢七花くん」
 「・・・・・・・・っっ!!!」
 即座に顔を真っ青にする七花をくすくすと笑い、私はようやくベッドから降りた。七花をここに来させるなんて、蟷螂さんには珍しく気が利いているわ、と心の中で褒めちぎり、私は一足先に廊下へ出る。人気の無い薄暗い校内ですら、酷く楽しそうな場所に映る。ああ、なんて美しいのかしら。死ぬにも悪くない場所だわ。
 のろのろとよろけながらやってきた七花の腕に己の腕を絡め、さぁ帰りましょう、と笑う。「珍しいな、姉ちゃんがそんなに楽しそうなの」と七花も楽しそうに笑ったけれど、明日七花が学校で昨日一緒に腕組んで帰った人誰だよ、なんてクラスメイトに弄られる場面を思い描き、私は再び笑みを深くした。
 「愛してるわ、可愛い子」
2008/3・23