■幸福に恋をする
一人、深夜を回った時刻にリビングでぼんやりとしていると、冷たい夜風が入り込んできた。壁に吊るしたカレンダーが一枚捲れる。薄暗い室内の中、月光を頼りに周りを見回せば、閉めたはずの硝子窓が外側から容易く開けられていた。超能力でも使えるのだろうか、人類最終は。などとアホなことを考えながら、時刻は笑った。
「遅かったね」
時刻がからかうように呟けば、ベランダから侵入してきた橙色の少女は「しょうがないだろ、」と顔を顰めた。
「できるだけ急いだんだ」
「今日はどこから来たんだい」
「ん・・・北海道」
淡々と答えながら、真心はやれやれと肩を竦めながら時刻の座る椅子の正面に腰を下ろした。ちなみにこの時刻の所有する一軒家は九州にある。時刻はそんな答えに、「一体いつ北海道を出てきたのか?」や「何を使って来たんだ?」という問いを飲み込んだ。真心の橙色の髪は何が理由かぼさぼさになっており、足に引っかかっている靴も擦り切れている上にぼろぼろだ。
数時間で走って北海道から九州まで来ても僕は驚かない。けして驚かないぞ・・・!と心の中で自分に教え込みながら、とりあえずココアを用意する。幼い掌でマグカップを受け取り、真心はほっと一息ついた。
「相変わらず泥棒の片棒担いでるのかい」
「しょうがないだろ。・・・小唄、怖いんだから」
顔を強張らせながら真心は反論する。この最終に恐れさせるなんてただの泥棒じゃないな、などと思いながら、時刻は真心のほつれた三つ編みを直そうと私室に一旦戻ってブラシを持ってくる。一度その場を離れても、人類最終は椅子に座ってじっとしたままココアを飲んでいた。過去3人がかりで取り押さえていたことがまるで嘘のようだ。時刻が真心の背後に回っても、真心は少しも動かず、むしろ三つ編みを自分から解いて背後を全て時刻に任せた。
その行為に心が満たされ、幸福で顔が自然とにやけるのを感じながら、時刻はそのたっぷりとした橙色の髪にブラシを通す。
「いつまでこんなことすんだ?」
「君が嫌がるまでは。いいだろう?」
断らないことを見越しながら、時刻は優しく笑った。
「君に贖罪がしたいんだよ」
「贖罪な・・・」
時刻の言葉に、真心は納得いかない、と顔を顰めた。確かに、過去、己の意思と無関係に体の自由を奪われ、操られ、数え切れないほどの人間を殺した。実際真心にそんな記憶なんて無いといっても過言ではないし、実際あんな行為は嫌だった。逃げ出したかった。
人を殺した罪に関しては、確かに時刻に罪があるだろう。時刻があんなことをしなければ、真心は人を殺さなかっただろうし、そもそも狐面の男の下にもいなかっただろう。だが、時刻が贖罪したい、というのは死んだ人間に対してではない。
操られていた、真心に対してだ。
時刻は真心を崇拝に近いほど敬愛している。世界を終わらせるのは真心だと思っていた。そんな強大な力を押さえ込むことこそが罪ではないか。また、そんな力を持っているのに他人に雁字搦めにされている真心を可哀想だと思い、彼はかつては真心に殺されることを望んだ。
しかし結局時刻は真心に殺されはしなかったし、真心は自分というものを手に入れてから人間を殺そうなんて思わないようになったのだが。
「あんたは、わた、・・・・・俺様に何を望んでるんだ?俺様を誑かして世界でもまた終わらせるつもりなのか?」
「いいね、世界の終わり。やってくれるのなら、是非頼みたい願いだ。君が僕に誑かされるとは思えないけれど」
時刻は終始笑顔を浮かべたまま、丁寧に真心の髪を梳いていく。肩を零れ落ちる橙を眺めながら、時刻が真心の髪を再び三つ編みにしようとゴムに手をかける。指先がゴムに触れる寸前に、真心は手首を掴むことによってそれを止めた。
「なんだい」
「結ばなくていい」
「・・・まぁ、降ろしてても可愛いからね」
楽しげに笑う時刻を背中で感じながら、真心は言葉を付け足した。
「切って欲しいんだ」
その言葉に目を見開き、確認するように時刻は背後から少女の顔を伺い見る。
「髪をかい?」
「それ以外に何があるんだよ?」
「僕との縁とか」
冗談めかして時刻は笑った。笑えない、と真心は嘯く。
「じゃあ、髪を切ってあげる代わりに、君の髪をくれないか」
「いいぞ、別に」
時刻は目元だけをそっと歪め、真心の肩を覆う橙色を一房掬い、唇を押し付けるように口付けを落とした。
「髪の毛だけ持っててどうするんだ?呪い名らしく呪いにでも使うのか?」
「いや、大事に取っておくよ。・・・・・欲しいというか、捨てたくないだけだ」
苦笑しながら、時刻は言う。
「君の一部を、欠片も逃したくは無い」
耳元で囁かれる言葉をぼんやりと聞きながら、真心は閉め忘れた窓へ目を向けた。外の冷たい空気を入れ込むその隙間から入り込んだ風が、そよそよと真心の頬を撫でる。
気持ちいい。
ふと瞼を閉じながら、真心はそこで理解する。
鋏を取りに一度部屋を出て行った時刻の背を見送りながら、己の掌を頬に押し当てる。
―――――――熱い。
いつからこんなに、顔が熱くなっていたのだろう。ぎゅっと口をへの字にして、真心は再び窓へ目を向ける。硝子に反射した、暗闇に透けて映る真心の顔は泣きそうなほどくしゃくしゃに歪んでいた。
「時刻」
すぐに戻ってきた時刻を窓に映る姿で確認しながら、真心は言った。
「お前には悪いけど、俺様はやっぱり、世界を終わらせたくなんてない」
「そうかい・・・残念だ。君のことだから、嬉しいことがあったんだろうね。できれば教えてくれないかい?」
「嫌だ。お前はそれを壊そうとするだろう?世界を終わらせるためになら、俺様に嫌われることだってするからな。お前は」
おや、そんなに僕を理解しているのか。
少し喜びで微笑みながら、「確かにそうだね」と返し、時刻は真心の髪を無造作に一つに束ね、じゃきじゃきと橙色を真心から奪った。肩より少し長いぐらいで一列にそろえるような形にしてから、時刻は重大なことに遅く気づいた。
「あ、ごめん。どれぐらい切るか聞いてなかったね」
「もっと短くていい。できれば、邪魔にならないぐらい」
ゴムで一つに結ったことによって一つに纏められた髪の毛の束を、時刻は丁寧に纏めて紙袋に入れた。
「ところで、なんで切るんだい?」
「失恋したら、髪を切るんだろ?」
平然と返されたその言葉にぴたりと手を止め、時刻は言う。
「失恋したの?」
「うん」
「じゃあ、僕とつきあってよ」
「・・・・・・・そうだな」
少女のような見た目に似あわず、まるで人を食ったかのような笑みを浮かべ、微かに笑って真心は言う。
「付き合おう」
「〈いーちゃん〉よりいい男になるように頑張るよ」
くつくつと時刻は笑いながら、丁寧に丁寧に、真心の髪に鋏を滑らせる。真心は心底おかしそうにげらげらと笑うと、「きっと一生かかっても、時刻には無理だ」と満面の笑みを浮かべた。
「俺様はもう二度と、あんな優しい人間に惚れたりしないから」
「じゃあ、僕の方が脈有り?ふふ、嬉しいことを言うね」
それでも笑い続ける時刻の声を聞きながら、真心は途端に軽くなった頭に知らずに笑みを洩らした。もう少し、ここにいよう。小唄のところに戻るのは、もしかしたら遅れてしまって、罰を受けるかもしれないけれど。
しゃきしゃきと軽快な音を立てて肩にこぼれていく髪の毛を感じながら、真心は瞼を閉じる。
「いいことを教えてやるぞ、時刻」
「なんだい?」
「ER3にいたとき、俺様は後ろに刃物を持たせて人を立たせるのが嫌だったから、ずっといーちゃんに切って貰ってたんだ」
「妬けるね」
「だから」
このことを聞いたら、時刻はどうするだろう。
「ER3からいーちゃんがいなくなって以来、ずっと切ってない。俺様の髪を切ったのは、いーちゃん以外はお前だけなんだぞ」
「・・・・・・・・」
ぴたり、と鋏が止まる。時刻は何も言わない。数秒経ってから再び鋏が髪を切り始めるが、今度鋏が髪を切るのは、酷くゆっくりだった。満喫するようにしゃきり、しゃきり、と少しずつ、少しずつ切られていく。
―――――いつ終わるかな。
時間がかかるというのに酷く嫌な気分はせず、真心は頭に添えられる男の綺麗な指先を思い描き、ちょっと笑って、少しだけ眠った。
しゃきり、しゃきりと、髪を切っていく音がする。子供のような恋心といっしょに、寂しさも切り取られている気がして、少しだけ切なく、とても楽しい。
「時刻」
憎い人間だと思った。殺してやりたいとも思った。もう殺さない。もう殺せない。
「じこく」
裏切り者の名前。追放者の名前。本当の名前を知らない。罪人の名前。異端者の名前。
「好きだよ」
単純だ。単純だけど、それでいい。
「俺様も、時刻が好きだ」
ああ、これも、いーちゃん以外に初めて言った。
「大好きだぞ」
幸福が憎かった。幸福が妬ましかった。きっと、永遠に届かないだろうから。
しかしどうだろう?幸福はきっとある。ここに。
少し振り返れば、手が届く場所に。
2008/3・22