■イルネス
その人は俺が病を移した人間を足で蹴飛ばして、つまらん、って一言呟く。
「もっとかっこよくできねぇのか、頼知」
「もっとかっこよくですか」
狐のお面を顔に付けた俺の最愛の人は、ふん、と一度つまらなさそうに鼻をならした。その細い、明らかに運動をしない人間の足についている漆塗りの下駄にさっき蹴飛ばされた人間が、痙攣を起こしながら地面に転がっている。たまにびくりと体を震わせて、鼻水と涎を垂れ流したまま、虚ろな目を俺に向けている。俺はそれから目を離して、狐さんへと視線を戻す。
「つまらん。最高だな」
狐さんは何が面白いのか、少しだけ面の向こう側で笑い声を上げた。低い、男性の声。バスまでいかないだろうけど、限りなくバスに近いテノールの声。がらがらのだみ声っていう訳じゃない、ぱきっとよく通るかっこいい声だった。
「気に入りませんか」
「どうでもいいな」
つまらなくて、楽しくて、どうでもいい。狐さんは薄い肩を震わせた。着流しの白い着物が、するすると二の腕付近で擦れる。死んでる人ってこういう格好してるんだっけ。俺は狐さんを見る。
狐さんって死んでるんだっけ。娘さんも死んでるんだった。親友だって死んでるはずだ。この人にはもうなんもない。
なんもないこの人が好きだ。
なんもないこの人を愛してる。
狐さんは優しくて酷くて惨忍で慈愛で満ちていて、人を見下すことしかできなくて人を尊重することしかできなくて自分がなんだかわからないんだ。かわいそうなかわいいひと。俺は頭が痛くなってきて、両目を両手で覆った。
落ち着かない。昨日からずっとこう。苦しくて辛い。生きているのが嫌になる。狐さんと一緒にいたいだけなのに。愛してるだけなのに。頭が回らない。頭が。考えられない。狐さん以外考えられない。考えたくない。
「頼知」
狐さんはお面の向こうで笑っている。俺のことを嘲笑っている。嘲笑している。馬鹿にしている。どうでもいいと思っている。俺のことを可愛いと思っている。俺のことを考えている。もういやだ。この瞬間に世界が滅べばいいのに。この人と一緒にいるときに世界が終わればいいのに。
「よくやったな」
もっと褒めて頭を撫でて手の甲にキスを許して、俺が好きだと言って、俺を愛して、世界が終わる日も、俺のことを考えていて。
昨日の記憶が無かった。
「・・・・・うっ・・・頭いてぇ・・・」
布団の中で頭を抱えて縮こまると、体の触れていなかった布団の部分が冷たくて目が覚めた。それなのに頭が二日酔いの時みたいに嫌に痛んだ。病気?何の病気だろうか。っていうか俺にきく病気ってまだあったのか。新種だろうか。
昨日、酒を飲んだんだろうか。思い出そうとしても、真っ暗な画面しか頭の中に浮かんでこない。脳の一部が麻痺してるみたいだ。狐さん。そうだ。狐さんに会いに行かなければ。おはようございますって言わなければ。あの人に会わなければ、俺は生きていけないんだ。それぐらい愛してる。
頭痛が酷くなったから布団から這い出た。狐さんの所有する知人から貰い受けたらしい日本家屋の一室。いつもの俺の部屋。薬品臭いらしいけど、鼻が馬鹿になってるから何も感じない。
ぼーっとして布団の上に座り込んでいると、「奇野くん」と柔らかい女のような声が聞こえてきた。しかしこのやけに滑らかな、感情の篭らない声が男のものだということを俺は分かっていた。ずるずる移動して障子を開ければ、予想通り、日本家屋にはどうしても似合わない、白いワイシャツに黒いスラックスの清潔感溢れる呪い名、時宮時刻が立っていた。
「おはよう。もう9時だよ。昨日は狐さんとお楽しみだったのかい?」
「え?いや、さぁ・・・?」
時宮さんはぼんやりしたまま受け応えする俺を訝しげに見て、「具合が悪そうだね」と言った。人の顔色を伺うのに長けているのは、やっぱり時宮だからだろうか。催眠術って結構精神状況とか見たりするらしいし。
「何か悪い病気でも暴走してるのかな」
「さぁ・・・気が付かないうちに体の中で勝手に変なウィルスでも作ってんじゃないですかね。頭が痛くてたまらないんです。昨日の記憶も吹っ飛んでるし」
「君がわからない新種のウイルスねぇ・・・恋の病とか?」
見た目からしてナルシストっぽいと思っていたがこういうこと言う人だったとは。時宮さんはくすっと一度笑って、(これがまた板についている、優男の笑い方だ。俺には一生できないだろう。多分狐さんも無理だ)不思議な色をした目を柔らかく細めて俺を見た。
「流石に酷い冗談だったかな。そもそも恋の病なんてのは君が狐さんに会った時からかかったものだろうしね」
「時宮さん・・・」
「ああ、こんな無駄話してる場合じゃなかった。ま・・・『人類最終』の鎖の調整をするから、朝食を食べたらすぐ来てくれ。狐さんがいるからといってふらふらついて行かないでくれよ」
俺のことをなんだと思っているんだろうか。っていうか時宮さんは『人類最終』が関わると少し性格が変わる。恋の病っていうならあんたの方がよっぽどじゃないか、って思う。でも、どうせあんな化物みたいなのと上手く行くとは思えないけども。女の子っていうにはあまりにもかけ離れてると思う。まぁ、それを言うなら俺は男に恋しちゃってるけど。
「時刻」
バスに近い、テノールの声。
「どうも、狐さん。何かしましたか」
「真心の調子はどうだ。・・・今起きたのか頼知」
俺は廊下の向こうから歩いてきた狐さんを凝視する。おはようございますって言わなければ。おはようございます狐さん、今日も素敵に最高ですね!それでも舌が動かない。狐さん、狐さん!
俺の手前一メートルぐらいで足を止めて、狐さんは狐面の向こうから俺を見た。昨日の無くした記憶の中、俺はそれを見ていた気がする。くぐもった笑い声。俺を嘲笑う狐さんの声。優しく汚く慈愛に満ちた愛しく美しく醜い狐さんの声。声。声。
「狐さん、愛してます!」
俺は叫んだ。脳味噌が反応するよりも先に。時宮さんが変な目で俺を見ている。そんなのどうだってよかった。狐さんは狐面の向こう側で淡々と返す。
「知ってるよ」
それなら安心だ。頭痛が消えた気がして、俺は笑った。
「貴方達は一体何なんですか」
時宮さんは、呆れたような変なものを見たときのような声を上げて俺達を非難する。俺は幸せと恥ずかしさに満たされて笑った。狐さんは「ふん、<何なんですか>」とお決まりの台詞を口にして、「決まってんだろ、愛し合ってんだよ」とニヒルに笑った。そう、俺達は愛し合っているんですよ!俺は胸を張りながら、口がにやにや笑うのを止められなかった。
俺はこの人を愛していて、何も無いこの人はその愛を俺に返すしかない。そうじゃないと狐さんは狐さんじゃいられなくなってしまうのだ。俺の愛を俺に返して、からっぽの狐さんを俺を愛する。なんという愛のサイクル!俺と狐さんだけに通じる愛のやりとり。病気以外に何て言えるんだろう。
頭が痛いのはきっとこのせい。苦しくたって狐さんから愛が貰えるのならこんな痛み我慢できるんだ。この人のために今日も頑張って人殺し。俺を褒めて貰うことだけが俺の一日を構築する。なんて愛で満ち溢れた日々!
「君は早々に病院に行くべきだよ」
呆れた声で時宮さんは言った。狐さんが、頼知が病院に?と一度呟く。
「それは面白そうだな」
「えっ、じゃあ行きますか?狐さんが行けっていうなら行きますよ」
デートだ!俺は喜んで飛びついた。狐さんがにやついて俺を見下す。さぁ言って、俺を許して、俺の病気を貴方で優しく殺めてください!
2009/4・16