■紫の意義

 「あれ、なんていうのだっけ」
 ごつり、と白髪に覆われた頭を壁にぶつけながら兎吊木が唐突に言った。いい傾向じゃないな、と俺は判断する。突然話を切り込んでくるこの男が何か話始めるとき、主語がはっきりしていないときは危険信号だ。仕事に飽きているという証拠。つまり中々帰れなくなるということ。
 パソコンの機動音に被さるように、ラジカセから聞いたことの無い歌が流れていた。歌詞はおそらく仏蘭西語。雨の中好きな男の元に向かう女の心情を歌にしたらしい。ゆっくりと、とてもゆっくりと時間が流れていく。音楽に惑わされているんだ。
 俺が無言でいると、兎吊木はついに睨めっこしていたパソコンのモニタから目を離して、「ねぇ」と俺に声を掛けてくる。コーヒーを入れたマグカップにミルクと砂糖を入れて、あくまでも無視して部屋の隅の、床に直接座り込んでいる兎吊木に押し付けた。
 自分の分のコーヒーを持ったまま、もう一度対角線上にあるこの部屋唯一の椅子に戻ろうとすると、兎吊木の白い手が俺の足首を掴んだ。こいつ、俺が熱湯を持っていることに対して少しぐらい遠慮ってものをしないんだろうか?
 「ここにいてよ」
 「この部屋からは出ねぇよ。お前がそれ、終わらせない限りは」
 それ、と顎で兎吊木のパソコンをさせば、「近くに居て欲しいんだよ」と甘えた声を出された。自分がそう言うことで人が優しくなるもんだと思ってるのだろうか?悪いが逆効果でしかない。
 「なんで近くにいなきゃいけないんだよ」
 「人恋しいんだ。君がさっき来る前まで、一週間ほど人と会ってない。全部電話で済ましたから」
 「外に出ろよ」
 「外は死線が人類に優しいから、嫌だ。俺は彼女が他人に優しくしているところが見ていられない、嫉妬深い、奥ゆかしい男なんだ。知ってるだろ」
 「奥ゆかしいっていうのは知らなかった」
 「頼むよ。君に指一本、・・・もう触れないから」
 嘘に決まってるのに。兎吊木は素直に俺の足から手を離して両腕で自分の体を抱きしめるようにして蹲った。これも、悪い傾向。そうとう弱ってる。何があったか知らないが、こうなった場合どうすればいいかというのは俺にだってわからない。死線が近くに居る場合は、パーティ全員でこいつを抱えて死線の部屋に放り込み、死線の元でまとも・・・っていうか普段の状態に戻るまで待つしかないわけだ。
 たまに、兎吊木にはこんなことがあった。精神的にやけに弱弱しくなるのだ。普段から肉体はインドアそのものなのにその自信はどこから出てくるんだってほどに粘着質に攻撃的でふてぶてしい饒舌が、こういうときだけ形を顰める。やっぱり頭がおかしいんじゃないだろうか。本当に。
 俺は渋々、兎吊木から2メートルほど離れた床に腰を下ろして、兎吊木が再び仕事を再開するまで待つことにした。コーヒーを胃に流し込み、椅子が部屋の隅に一つしかない真っ白い部屋を見渡す。精神的に何か病のようなものを患っていないと、こんな部屋作らないだろうと思う。まぁ、うちにも一つや二つあるけれど、あれはどちらかというと、一人だけで考え事をするときだけに最適なわけで、兎吊木の場合はこういう部屋か、または滅茶苦茶物塗れの部屋か、二通りしかない。パーティメンバーの家がどうなってるのかなんて知る由もないが、こういう変な部屋割りをしているのはこいつだけだろう。
 そういえば、死線の部屋に兎吊木を放り込んで、数時間経った後に、どうしてもすぐ死線に伝えなければいけない用事があったとき、兎吊木は死線の私室の中で何をしていたっけ。死線と兎吊木がべたべたしているのを見たくない俺は、メンバーの奴らにどうにかして押し付けようとして、でも結局失敗して、一人であの部屋に入ることにして。
 相変わらず暗い部屋に、コンピュータのモニタと、小さなランプだけが光っていた。中央に安置された白い、彼女のベッドの上に、暴君が座っている。そして兎吊木は、あの時、ベッドの上に寝転がっていた。体を丸めて、暴君が、その小さな手で、兎吊木の頭を撫でていた。それだけだった。兎吊木はむしろ死線から逃げるように、ベッドの隅で丸まっていて、その頭を、まるで怯える動物を安心させるかのような手つきで、そっと頭を撫でている暴君。
 あの動作は、例えば、母親のようだった、気がした。
 そもそも俺が実際に母親に頭を撫でられた記憶は、殆ど無い。あの女は俺の頭を一度でも撫でたことがあっただろうか。いや、そんなことはどうでもいい。どうして暴君の手が、母親のそれに似ていると思ったんだろう。
 「なぁ、式岸、あれって、なんていうんだっけ?」
 「あれって何だよ」
 突然話かけられて、殆ど自分の脳の中に閉じこもっていた俺は強制的に外へと引き摺りだされる。兎吊木は先ほどと変わらず、ただぼんやりとしながら壁にごつり、ごつりと頭をぶつけていた。
 「花だ。雨の日に咲く、蒼や紫の」
 「紫陽花か?」
 「さぁ、分からない。でも、多分それだろうね。紫陽花、か。ああ・・・そういえば、そうだった気もする」
 「それがどうした」
 「いや・・・俺はあの花が、どうして紫なんだろうと思ってた時期が・・・あって・・・」
 兎吊木はぽつぽつと言葉を呟いて、結局止まった。何だろうと思って兎吊木を見れば、丁度サングラスを外しているところだった。薄いグリーンのサングラスを床に置いて、兎吊木は俺が来て初めて、口に笑みを乗せた。にやにやと、人を食うかのような、チェシャ猫のような笑い方をする。
 「なんだよ」
 「あれ、どうして蒼じゃないんだろうな。蒼の方が、絶対に綺麗なのに。ガキの頃の俺は、あの色には何か理由があって、赤のような汚い色が混ざって紫になってしまったと思ったんだ。母親にその事を言ったら、紫陽花って言うぐらいなんだから、赤でも青でもなく、本当が紫なんじゃないかって言われたよ」
 「へぇ、結構論理的な母親だな。お前とは違って」
 すらすらと零れる饒舌を聞きながら、俺は漸く兎吊木が立ち直ったのかと思った。死線に会わせなくとも、放っておけば治るもんだったらしい。これからはわざわざ死線にお手を煩わせる必要がなくなったわけだ。俺はその調子の良さに呆れながら、内心、少しだけほっとしていた。さっきまでの兎吊木は、苦手だ。どうしても見ていられなくなる。昔の自分に似ているとさえ思ったことだってある。あの、怯える仕草が、零崎に似ているんだ。
 兎吊木はにっこりと満面の笑みを浮かべると、式岸、と一度俺を呼んだ。ずい、っと兎吊木は身を乗り出して、2メートルの間隔をあっという間に縮めて、俺に触れる寸前まで寄り添ってくる。唇が笑みを形作っていた。ぼうっとしていた俺は、兎吊木から逃げるのを忘れてその場に座り込んだままだった。何をしているんだろう。離れろと叫んで、殴ってやろうかとさえ思ったけれど、体が動かない。ただ、笑う兎吊木の顔を真正面から見るだけだ。
 「今それを考えるなら、蒼が死線で赤が血の色だとしよう。死線はけして汚れない。血はけして空へ届かないから。じゃあ、混ざって紫になるのは誰だろう?」
 「なんだ、正気に戻ったと思ったら、調子のいい野郎だな」
 もちろん、俺だって言いたいんだろう?俺が吐き捨てれば、兎吊木は笑った。子供のように、無邪気に。俺はまだ、こいつが何を言いたいのか図りきれていない。
 「最近、母親のことを尊重することを覚えてきたんだ。今の年になって、だが。紫が基だったとして、紫が意味するものはなんだ?空は絶対に汚れないんだ。血程度で海は赤くならない。だとしたら、赤が蒼に侵食されてできた色なんじゃないか?」
 「俺が絆されていると?」
 「可愛そうな紫」
 兎吊木は、いつの間にか俺に口付けていた。きっとその瞬間、俺はそれに気づいていたはずだ。こんな男にまんまと唇を奪われるわけがない。じゃあ、どうして避けなかった?どうして抵抗しなかったんだ?歯と歯がぶつかりあって、がちがちと音を立てる。指が床を押さえて少し歪んだ。コーヒーの表面が揺れる。呼吸音だけが何もない部屋に響いた。
 「変化は徐々に広がるが、気づくのは一瞬だ」
 兎吊木の言葉が、耳元で囁かれる。パソコンのモニタがデータのバックアップに手間取っていた。ゆっくりとゲージが左から右へ、蒼に染まっていた。ああ、駄目だと思った。いつから逃げられなくなってたんだ。兎吊木に気を許しちゃ駄目だ。分かってるだろう。分かってたはずだ!
 「どうして逃げないんだ?何が怖いんだろう?式岸、ねぇ、答えてくれよ」
 兎吊木の指先が、俺の手に触れた。約束は反故にされた。俺は呼吸も忘れて、初めてサングラス越しではなく、すぐ目の前に迫った兎吊木の眼球を見た。感情の篭らない、見ているだけで気持ちの悪くなるような、人間のものとは思えないその目。
 「俺がこわい?それともいとしい?」
 わかるものか。ああ、どうして兎吊木の頼みを聞いてしまったんだろう。いつからこんな、優しくなったんだろう。いつから、いつからこいつを見てたんだろう。
 「おまえがきらいだ」
 よわい。なんて脆弱な。ひとごろしのくせに!自分が嫌でたまらない。苦しい。いきができない。いとしいのは駄目だ。こわい。
 なかないでくれよ、と兎吊木は笑った。
 あいされるのも、あいすることもおれはできないんだ。こわくてしかたがないんだ。愛するぐらいならころせる。そのはずだ。うつりぎ、お前だってころせる。
 それなのに、兎吊木はただ微笑んでいるだけだ。さっきの怯えた表情は欠片もない。きっと俺にそれがうつったんだ。だめだ、と思った。だめだ。涙が止まらなかった。紫陽花は涙を吸って美しくなる、と兎吊木が言った。無性に、蒼色も赤色もない世界へ行きたくなった。
2009/4・3


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