■逃走経路

 「君はそうやって、すぐ逃げるから」
 吐き出された言葉の意味が理解できなくて、俺は息をすることを忘れた。
 唐突にその言葉を吐き出した双識は、少しだけ微笑んでいるようにも見えた。無表情にも見えた。ただ、意味を持たない眼鏡の、そのレンズの向こう側で、赤い眼が俺ではなく、遠いどこかを眺めている。唇が少し震えて、そして黙った。
 「怖いのは分かるよ。私だって怖かった。でもいつまでも逃げてられないんじゃないかな。そういうものは、唐突に襲い掛かってくるものなんだ。きっと誰だって逃げられないものなんだよ、アス」
 教え込むように双識は言う。俺はその顔を凝視した。何のことを言ってるんだろうか。俺の脳は理解においついていない。
 「レン、どういう意味」
 「私は君が好きだよ」
 吐き出された言葉は、想像以上に突飛で、それでもまだ分からない。ただ、自分の目が大きく見開かれるのが分かった。どういうことだろうか。
 部屋に置いてある時計がの秒針の音がやけに大きく感じた。かちり、かちり。病的なほど性格に時を刻んでいく。向かいあう双識の声が部屋の中に響いて、あっという間に消えた。電源のついていないテレビの黒い画面をふと見る。何かこの場から逃げる方法が欲しかった。
 「また逃げようとする」
 びくり、と体が震える。双識の台詞はどこまでも静かで穏やかだった。テーブルに置かれたマグカップを両手で包み込み、その中を見つめながら、双識が悲しげな声を上げた。
 「逃げるのが悪いとは言わないさ。君の選択だからね。でも、私の気持ちは?」
 喘ぐように双識は言った。柔らかな微笑を湛えてばかりの顔は沈痛な面持ちに変貌していて、苦しそうに眉間に皺が寄っている。息をすることさえ辛いように、双識の肩が一度震えた。
 私の気持ち?それはつまり、俺を好きだということなのだろうか。俺は、首を振る。
 「そんな思い、錯覚っちゃ。それは、ただの、家族愛だと、思うっちゃが」
 「またそうやって!」
 双識の声はもはや悲鳴だった。また逃げる。双識は嘆いた。
 俺は、自分の前にあるコーヒーの表面を見た。自分の顔が映っている。双識に負けず劣らず、酷い顔だった。死刑宣告でも受けたかのような面持ちをしている。
 だって、お前が俺を好きだなんて、ありえないだろ。そう思うと、喉奥がくっと笑いで引き攣った。そう、ありえないのだ。
 「お前は優しいから、俺を哀れんで手を差し伸べようとしているだけだっちゃ。レン、だから」
 「アス、頼むよ」
 双識の縋るような声につられて頭を上げれば、双識が俺の手へと細長い針金のように細い指先を伸ばしているところだった。自分の手を引っ込めるよりも先に、双識の指先が俺の手の甲に触れる。冷たい、手汗で湿った指だった。
 「私から逃げないでくれ」
 その言葉を聞いたのは、これで二回目だった。初めて会ったとき。人を殺してそれによって人の手によって監禁されていたときのこと。頼る人がいなくて、俺の背中を延々と付いて周る変な奴。私には軋識くんしかいないから軋識くんだけが私の救いだからねぇお願いだからどこにもいかないで私から逃げないで。
 あの時俺の服を握り締め嗚咽を上げる子供の姿は、今はもうない。成人した青年になった双識の、暗くどろりと濃度の高い光りを宿した人殺しの目が俺を穿つ。
 「すきなんだ」
 祈るように双識は言った。唇が震えていて、伏せられた瞼についている睫毛が震える。怖がっているのはどっちだ。怯えた双識が小さく嘆いた。
 すきだ、すきだ、すきだ。
 俺はよく分からなくて、その手から逃げる。そして、どこにも逃げ道がないことに気づいて、空中に上げた手を再びテーブルに落とした。好き。すきって何だ?双識、お前は俺に愛されたいのか?家族よりも俺を取るのか?そんなの俺は許さない。許されることじゃない。お前は長兄なのに、長男なのに。二十番目の地獄なのに。俺は俺の手に逃げられたその先を呆然と見やる双識を見た。
 「軋識」
 今にも涙が零れそうなほど沈痛な顔をして、双識が言う。家族を呼ぶときの愛称ではなく、俺の名前を。ゆっくりと、切り刻むように。
 「きししき」
 「アスって、呼べ、っちゃ」
 そんな、恋人を呼ぶように呼ばないでくれ。今までみたいに、子供がニックネームを付け合うように、お遊びのように名前を呼ぶべきじゃないか。双識は繰り返し俺を呼ぶ。きししき、軋識。逃げられない。その声が、愛しい。
 「軋識、君が、好きなんだ」
 分からない、分かりたくない。こんなのは駄目だ。駄目なんだ。壊れてしまう。俺達はこんな、のうのうと生きれる生き物じゃ、ない、はずなのに。
 「君がすきなんだ」
 もう、抗えなかった。逃げ道は閉ざされたまま、俺の手は再び、双識の手に落ちる。
2009/4・17


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