■絵の具の川で君とさよなら



 パリに留学していた時に、住んでいた下宿先のアパートへ行く道の途中にある、細い小道の風景が好きだった。日曜日の昼過ぎには鈴蘭を売る少女がいて、彼女が暇そうにしていた時、一度だけデッサンを取らせて貰ったことを、覚えている。
 そんな俺の人生を綴ったようなデッサンが描かれているスケッチブックを、かなみは一度俺に無断で見た。
 それを、俺は見た。彼女はぱらぱらとそれを捲り、一定間隔で本当にどうでも良さそうにページを捲り、俺の気に入っていた、一番自信のあったあの、小道に立つ少女の絵を見て、ふ、と少し笑って、そしてスケッチブックを置いていたテーブルの上に投げ捨てた。投げ捨てた、と言っていいほど乱暴に、ばさりと置いた。
 ショックだった――とは、言わない。いや、本当はショックだったのだと思う。かなみはそのまま俺に気付かず、車椅子を動かして部屋から去った。それがキッカケで俺はもう絵を描かないことにした。俺はめきめき上達するかなみと一緒にいる時点で絵をやめよう、やめようと思い続けていたのだ。それでもやっぱり「絵を描くのが好きだから」絵を描くのがやめられなかった。けれどやはり、もう駄目だと思った。これ以上しがみついていたら、俺はかなみを恨んでしまう。そう思った。そうだ、これでお仕舞いだ。部屋にあった俺のこつこつ描きためたスケッチブックは、紐で縛って明日の朝にゴミ処理場で燃えて無くなる。俺は綺麗に片付いてしまった部屋を見ながらぼんやり一夜を過ごした。眠れるわけが無かった。

 ◆◆◆

 朝早くにスケッチブックを纏めたものを持ってマンションを出る。落ち着かなくて早く出すぎたせいか、街には霧が漂っていた。スケッチブックを置いたらすぐに帰ろうと考えていたけれど、ゴミ収集車が来るまで待つことにした。公園のベンチに座って、隣にスケッチブックの山を置く。冷たい空気が頭を冷やしてきた。自分が生きてきた証のような紙の束が、酷く名残惜しく感じてきた。中身を見ても目を覆いたくなるほどのものしか描いていない自負はあった。かなみの傍に居れば昔の俺の絵なんか子供の落書きのようにさえ思えるだろう。しかし今まで生きてきて、それが俺の人生そのものだったのに、と思う気持ちも勿論あった。あんな女と一緒にいたというだけで、こんな終わりでいいんだろうか? 俺は本当に終わりなんだろうか?
「いやぁ、これ、良いね」
 突然、隣でそんな言葉が言われた。驚いて見れば、紐で縛ったスケッチブックの山が開かれている。見知らぬ女が俺の隣で優雅に座って、俺のスケッチブックを眺めていた。
「……? な、んだ? あんた、何を勝手に」
「この絵、君が描いたんだろう? これは、いいね。気に入ったよ」
「……そうじゃないだろ、あんた何、人の私物を」
「いいじゃないか。どうせ捨てるつもりだったんだろう? 捨てられた後のものを漁って見るより、幾分かマシだと思わないかい、なぁ、逆木深夜くん」
 女はそう言って、反省した様子も無く笑った。俺を知っているのか、と問うことよりも、とにかく見るのをやめろ、と言うことよりも、俺はぼんやりとそれを見るしかなかった。いや、それよりも不思議と、俺は怒る気持ちも無かった。いや、あまつさえ、目の前の良く分からない女に対して、御礼の言葉さえ、吐いてしまいそうだった。上手い、下手という言葉ではなく、ただ単純な「これはいいね、気に入ったよ」というその一言に、俺は驚くべきことに、救われてしまった。感動さえ、してしまった。
「おいおい何を泣きそうな顔をしているんだ。男前が台無しだぜ。私は別に君の絵を見るためだけにここへ来たんじゃないんだ。君には少し用事があってね。いや、しかしこの絵が気に入ったというのは嘘じゃない。よければこれ、譲ってくれないかい? 大切にするからさ」
「……好きにしてくれ。俺はもう絵は描かないことにしたんだ。見ていたって苦しいだけだ。で、こんな朝っぱらから俺に何の用だ」
 初めて会った女に対してこんなにもさらさらと会話ができているのが不思議だったが、今更敬語になる気は起きなかった。女は絵はもう描かない? 勿体無い、と言いながら、スケッチブックを小脇に持ち替えた。
「正しくは君に用があるんじゃない。伊吹かなみに用事があるんだが」
「かなみに? アポを取りたいのか」
 今や世界的有名人である伊吹かなみに接触したいがために俺にまず声を掛けてくる奴らは多い。秘書を持ちたがらないかなみのすぐ近くに居た俺が、いつの間にか秘書、介護人扱いになっていたので、どこの企業でも国でも、まず俺を通すことがいつの間にか決まりになっていた。俺は今まで画家志望だったから、そんな扱いをされるのが屈辱だったが、今となってはどうでもいい話だ。ああはいはい、そうかい、と俺はあっという間にやる気が失せるのを感じながら、かなみに会いたいのなら、また後日連絡するから電話番号でも教えてくれ、と投げやりに言った。女はいや、と首を振って、その必要は無いんだと言う。
「伊吹かなみには今すぐ会ってくる予定だからさ」
「……なんだ、あんたかなみの知り合いだったのか」
「いや、そうじゃない。会うのは今日が初めてになるだろう。テレビではよく見たけれどね。私はこれから伊吹かなみを殺してこようと思うんだ」
 俺はすぐに反応できなかった。これから会いに行ってお茶してこようと思うんだ、の聞き間違いかと思ったが、流石に、殺して、をお茶して、に聞き間違えるほど、俺の耳はおかしくはないはずだ。
「…………、な、に……?」
 何を言い出すのかと思えば、何を言い出しているのか。思わず立ち上がり、女に対して一歩下がると、まぁ落ち着きなよ、と抜けぬけと言い放つ。
「君は驚くんだね。君のことだからそうかいそれは良かった、とでも言ってくれると思ったんだが、存外若い若い」 「お前、一体、何者なんだ……? 何が目的なんだ?」
「目的」  女はそこで始めて嘲笑を口にした。
「私の目的は伊吹かなみになることさ」
「……何を言っているのか、分からないぜ」
「その通りの意味なんだ。逆木深夜」
 女は真摯にそう繰り返す。
「私は伊吹かなみを殺して伊吹かなみに成り代わる」
 それが、俺が未だ名前も知らない女との出会いだった。

 ◆◆◆

 彼女は「伊吹かなみ」になった。彼女は伊吹かなみを殺し、誰にも気付かれることなく、「伊吹かなみ」とすりかわる。俺は共犯者としてそれを見ていた。
「告発したいのならすればいいわよ。逆木深夜。でもあんたの命は、保証しないけれどね」
 こんなことを言われたら、言うわけがなかった。いや、むしろ感謝さえしていた。伊吹かなみは、少なくとも俺の憎悪の対象でもあった。伊吹かなみさえいなければ。伊吹かなみとさえ会わなければ、と俺は今まで何度も思って、考えてきた。伊吹かなみの死体がどうなったかは見ていないが、あの彼女は全てを何の問題なくクリアした。誰もが彼女を「伊吹かなみ」だと思っている。絵の上手さも、喋り方も全て、「伊吹かなみ」そのものだ。俺は絵をやめてから、彼女の介護人として働くことになった。彼女は本当は歩けるけれど、歩けないふりは続けなければならない。彼女が一体なんなのか? そんなことはもはやどうでもよかった。俺の憎んだ「伊吹かなみ」はもう居ない。それだけで俺は何かから救われた気分だった。

 ◆◆◆

  「次はこの女になろうと思うんだけど」
 かなみはある日パソコンを弄りながら言った。
「やりたいのなら、手伝うよ」
 俺は彼女の共犯者気取りだった。いや、共犯者どころじゃない。相棒気取りと言ってもいい。まるで救世主扱いだった。手伝えることがあるのなら、かなみの力になりたい。そう思えるようになっていた。
 かなみが見せてくれたパソコンのディスプレイには、公演を行なっている一人の女が映っている。園山赤音、とかなみは言った。世界の頭脳が結集していると言われるER3プログラムの七愚人の一人、とかなみが説明する。
「お前、こんな頭がいい人になれるのか?」
「わたしは何にでもなれるわよ」
「そうだな。お前は何にだってなれるさ」
 さて、園山赤音との接触の仕方だけど、とかなみは再びディスプレイに向き合った。かなみが園山赤音になるのは簡単かもしれないが、かなみに《成り代わる》のは少々問題がある。考え込むかなみの隣に座り、俺は事務所宛に来た手紙を整理することにした。こういうことはかなみに任せた方が早いことは分かっている。ふと、業務用の白い封筒に混ざって高級品の香りを出す肌触りのいい一通の封筒を見つけた。今時珍しく封筒を止めていたのは赤い蝋だった。
「赤神イリア……? かなみの知り合いか?」
「ああ、聞いたことあるわ。実家から離縁されたお嬢様が金に物を言わせて天才を住んでる島に集めて……私にお呼びがあったのかしら? あはっ、丁度いいじゃない」
 ついでに天才さんたちの脳味噌がどうなってるか見るのも、面白いかもね……。俺はにこりと微笑む《彼女》の顔を見ながら、好きにやってくれよ、と笑った。
2011/3/20 
「ぼくとデートを」収録予定変更


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