■彼らの視界は狭い。
私はぐっちゃんが怖いの。そう言って彼女は俺を近づかせなかった。ドレスのように部屋に裾を広げる真っ白いシーツは処女の象徴のように眩しい。暗い部屋の隅っこで彼女からの許しを請う俺は全てを許すはずの彼女から唯一排除された、惨めな人殺しでしかなかった。地面に蹲るように涙を流し、どうすればいいのですか、と俺は嘆いた。人殺しでありながら、殺人鬼でありながら彼女にのうのうと侍ろうとする図太い神経が自分にあるというだけで笑い出してしまいそうなほど滑稽に思えるというのに、声は悲しみで押しつぶされている。今まで彼女と家族を天秤にかけてゆらゆらしていたとは思えないほど、彼女に対して実直に、俺は縋りついた。恥も外聞も無く頭を下げて、ただ服従の意を表すように、泣いて請い、願った。
「もう、もう貴方の傍には、いられないのでしょうか・・・」
「可哀想なぐっちゃん。寂しいの」
哀れむような声と同時に小さく細い指がシーツの上で踊る。数センチ分彼女の指先が俺の方へ寄って、また離れる。
「じゃあ、私のお願い聞いてくれたら、いいよ」
頭を上げる許しは出ていなかったため平伏したまま、軋騎はその言葉に従うように床に口付けをした。
死線の蒼が望んだことは軋騎が視力を捨てることだった。その場で眼を切り裂こうとした軋騎を留めて、死線の蒼は玖渚機関の息の掛かっている病院へ軋騎を紹介した。移植手術に使えそうな部分を剥ぎ取ってから、軋騎は盲目になる手術を受けた。チームメンバーは視力程度で許してもらえるなんて良かったねと口を揃えて笑ったが、兎吊木は何故か珍しく一言も発しなかった。杖をついて自宅についてから零崎のメンバーには適当をでっち上げた。適当な集団にやられたと大嘘をついて、次の日には報復に向かう手はずになった。軋騎の嘘で一つの企業の人々が皆殺しにされるなんて、まるで死線のような我侭である。軋騎は視力をなくしてもなんとか分かる自宅の間取りを一人でじりじり動いて、ソファで一夜過ごした。目が見えないのなら一人で生活するのは無理だと家族が数人、軋騎のマンションに残るよう言ったが、それを軋騎は断った。困難だったら助けを呼ぶが、殺人鬼が一箇所に集まり続けるのは得策ではない旨を告げると、彼らはしぶしぶ帰っていった。パンなどの食料を買ってきて貰っただけで、軋騎は一人でしばらく過ごせた。プロのプレイヤーが視界が悪くてもそれなりに動けるということが強みになったようで、家の中だけならば数日で一人で普通に生活できるまで成長した。しかし、もう人を殺すことは不可能だろうと、零崎の人間も軋騎も考えていた。ならば零崎軋識は零崎ではなくなったのだろうか? という怖ろしい問いには、誰も触れられなかった。何故ならば軋識が殺人鬼で無いならば軋識は零崎ではなく、そして家族ではないというのならば、軋識はただの殺人鬼に殺されるべき人間である、からだ。
流血で繋がる家族から、軋識が除外されたのならば、次に零崎の奴らが飯でも持ってきてくれたとき、俺は殺されるんだろうか、と軋騎は考えてみた。死に方が分からなかった人殺しの結末が、身内に殺されるとはお笑い種だ。しかし家族と彼女を長年天秤にかけ続けて、結局彼女をとってしまったようなものだ。殺されても仕方があるまい。
視力が無くなると不思議と周りの音がよく聞こえるものである。しんと静まり返ったと思えるはずの室内には冷蔵庫などの稼動する低い音さえ聞こえる気さえする。ぼたっ、と水滴が墜落してシンクにたたきつけられる音がした。まるで監獄のように感じる。自分で買ったマンションの一室が、死刑を待つ囚人を入れておく檻のようだと思えた。
「誰だ」
だからこそ家に侵入してきた人間の音はよく分かった。音を殺す気さえあるのかないのかわからない程度の衣擦れと呼吸音は、ソファの背凭れを挟んで軋騎の横に立った。
「俺だよ」
オレオレ詐欺という単語が反射的に思い浮かんだのは仕方が無いと言えよう。軋騎は兎吊木か、と暗闇に聞いた。そうだよ、と兎吊木は平然と答えた。姿が見えないとますます女のような声に聞こえる。兎吊木の声はこんな音だっただろうか、と軋騎は思いながら、覚えていないのも仕方が無い、と自分に言い聞かせた。兎吊木の話は長いのだ。まともに聞いていたら陽が暮れるので、まともに話を聞いたことがない。
「お前は、馬鹿だね」
兎吊木の言葉に軋騎は答えない。
「視力が無くなった死線の役に立てないじゃないか。お前はそれこそ外での活動ができることが一番重宝されていたことだっていうのに。馬鹿だね。死線が役に立たない人間を近くに置いておくわけがない。それこそ、『いーちゃん』でなければ。お前は死んだようなものだよ。死線は自分のために視力を失くしたお前を珍しがって今少し見ているだけだ。もう数日もすればすぐに捨てられる。死線のことは忘れて、家族と一緒に人殺しして一生を過ごせば、まだ幸せになれたかもしれないのに」
「そんなの嘘だ」
軋騎呟いた。
「嘘じゃないよ」
「そんなの解らないだろう。いや、死線に捨てられるのは目に見えてる。・・・・・・目が見えないのにおかしいな。まぁ、死線には捨てられるかもしれない。いや、捨てられるだろう。だが、俺は死線に捨てられた方が幸せになれたと、何で言えるんだ? 殺人鬼の気持ちなんか、わからないくせに」
「でもお前はもう鬼じゃない」
ただの人だよ・・・・・・と、兎吊木の声は言った。さり、と布の擦れあう音、ごと、という重いものが床に置かれた音がした。みし、と音を立てて軋騎の頭の両側に何かが置かれた。手だと、軋騎は思った。ならば今の何かが床に置かれたような音は、兎吊木が膝をついた音だろうか。
「俺が今からお前にキスをしても、お前は何もできない。殺せないんだ。お前は人以下だ。可哀想な家畜だ」
「飼われて餌を貰えてるだけで恵まれていることはわかる」
「でも、もう誰も餌はくれない」
かさついた唇が軋騎の瞼に触れた。ぴくりと軋騎は震えたが、手を振り回して抵抗することはしなかった。何もせず、何も言わない。どこを見ているか分からない視線が、兎吊木の首の辺りで止まっていた。
兎吊木は軋騎の唇に自分のを重ねた。動かない口に噛み付いて、舌を入れて歯列をなぞった。唾液を啜り、唇を離そうとした瞬間、動かなかった軋騎の両手が見えないはずの兎吊木の頭部を鷲掴んだ。兎吊木が身を剥がそうとしてももはや遅かった。口を大きく開け、軋騎はとにかく目の前の男の何かに噛み付こうと食らいつく。目が見えないとはいえ元殺人鬼、不利な体制で兎吊木がその手を振り払えるはずもない。しかし無理に頭を引っ張ったせいで上半身を前に押し出す羽目になり、その喉を軋騎に明け渡すことになる。
がっ、と兎吊木の嗚咽が吐き出されて途中できれた。容赦なく齧り付いた軋騎の犬歯が、容易く皮を裂いた。軋騎は口の中に血の味があることを確かめ、舌で兎吊木の喉仏を撫でた。飛び出たそこを前歯で甘く噛み、無理な体勢で固定されたためぴくぴくと震える兎吊木の喉をじゅるじゅると音を立てて食む。血が止まり始めたころ、軋騎はようやく手を離した。兎吊木が後ろにどさっと転んだ。はあっ、はぁっ、と荒い息がリビングに響いた。
「はっ、し、死ぬ・・・・・・」
「餌をくれたのかと思った」
くくっ、と軋騎は笑った。手に負えない猛獣の檻から命からがら逃げ出した面持ちで、この鬼、と兎吊木は詰った。首は唾液でべとべとだった。
「やっぱりもう、殺せない。殺人鬼じゃないみたいだ」
ぼんやりと呟く軋騎は何かから解放されたかのように清清しい顔をしていたけれど、一つ溜息をついてぱたりと目を閉じた。
「もう、寝る」
「・・・・・・もう、どうするんだよ」
「きっと俺が寝てる間に家族が来て、俺を殺すだろう。零崎に快楽殺人者はあまりいない。起きる前に、さくっとやってくれるだろう。だからもう、お前は帰れ。死線を悲しませたらぶっ殺すぞ」
「式岸」
「なんだよ」
「お前の顔好きだからもう一回キスしたい」
「嫌だ。死ね」
「殺してくれよ」
兎吊木が嘆くと嫌だ、と軋騎は言った。ごろりと寝返りをうち、身体を丸くして、「勝手に死ね」と言った。兎吊木は少しだけ、泣いてしまいそうになった。いつも言われていたはずだったのに、不思議だ、とも思った。
2012/3・23