■愛が無いからとは言わせない
 
 
 
 きみの嘘は甘くて苦い。
 チョコレートのようだ、とそいつは言って、ぱたりと目を閉じる。男にしては気味の悪いほど長い睫毛が、小さく影を作った。
「ああ、チョコレートが、食べたいねぇ」
 気持ちが悪いと、俺が思うと、気持ち悪い、と凶獣が口に出して罵る。
「死ねばいいのに」
 本当だ。死ねばいいのに。俺が心の中で頷くと、ぱちりと開いた兎吊木の片目が、俺をちろりと盗み見た。再び瞼に遮られたさっきの視線の意味が分からず、俺も「そうだな、死ねばいいのにな」と言った。兎吊木はおかしそうにくつくつと笑って、「そういや、バレンタインデーが近いね」と言う。誰もお前にやらねぇよ、と凶獣が言う。屍も永久立体もパソコンから目を離さない。
「チョコレートが食べたいなぁ」
 もう一度言う兎吊木に、今度は誰も言葉を返しはしなかった。そもそも俺達のバレンタインデーの予定は決まってる。それぞれ準備したチョコレートを、死線に貢ぐ日に決まってる。
「俺達は本当に、枯れてるなぁ、おい」
 お前に言われる筋合いは無い、とこのバラバラなメンバーで構成された仲間たちの心の声が重なったような気がした。兎吊木は目を閉じたまま口をにやつかせて、バレンタインデーはいいねぇ、とそう言って、それからどうやら眠ったようだった。静かになった室内で、かちゃかちゃとキーボードを打つ音がしばらく響いた。



「しーきぎし、あーそびーましょ」
「何しに来た」
「チョコレートを貰いたくて、媚びを売りに来たのさ」
 ぬけぬけとそう言った兎吊木はマンションに堂々と侵入してきて、リビングのソファにどっかと座り込んだ。丁度誰も居なかったことに安堵しながら、その向かいに腰を降ろす。
「何もださねぇし、やる気もねぇぞ」
「君は本当にケチだなぁ。いや、ケチというよりそれは頑固というべきなんだろうね。融通が利かないというよりは意地っ張りと言うべきだろう。俺に何か施してやるのを敗北だと捉えてるんだろう? 分かる、分かるよその気持ちは。俺だって貴重な休日に突然30歳の男が乗り込んできたら追い出そうと思うに決まっているからな。でもさっき言っただろう? 俺はお前に媚びに来たんだ。お茶を入れてくれなんて言わないよ」
「・・・・・・」
「俺が自分で淹れてやろう。俺はお前に媚びるから、お前の分も入れてやるよ」
「お前ここが誰の家か分かってんだろうな」
「勿論。お前が買ったマンションの一室だろ? 流石に30歳で痴呆にはなっていないさ」
 人の良さそうな笑顔でにこりと笑って、兎吊木は立ち上がり、キッチンへ向かおうとするが、俺はその腕を掴んでとめて、「やめろ。分かった。俺がやるからじっとしてろ」と引っ張り座らせる。兎吊木はきょとんと目を丸くしたが、すぐにいつもどおりのにやにやした面に戻って、ふふふ、と気味悪く笑った。
「そうかい? いやあありがとう式岸。これだから俺はお前が好きなんだ。何もしていないのに人に餌を与えてしまう、そういう貧乏くじを自ら引く、その自己犠牲精神がね。自虐趣味でもなんでもない、その自ら他人に尽くす姿勢は、一体君の人生がどう影響して産まれたそれなんだろうね。気になるなぁ、面白いなぁ、人ってのは」
 兎吊木が、明らかに示唆しているものはすぐに分かった。好きな男の投影したがる女の器に形を変えた、俺達の崇め奉る死線の蒼を言っているのだ。いや、どうだろう、俺達は、彼女のことを人間扱いしていない。恋をしていても、崇拝していても、俺達にとって彼女は人じゃない。彼女は、俺達とは違う生き物だ。
「お茶と言ったのにコーヒーを出すんだな。そういうところが、頑固だよねぇ」
「・・・・・・飲んだら帰れ。俺はチョコレートなんざ買わない」
 インスタントコーヒーを作って与えれば、兎吊木は水を得た魚のようにぺらぺらと喋る。紙のように薄っぺらい言葉の数々。くだらない音だけが響いては消える。黒く淀んだ液体を見下して、はぁん、と兎吊木は笑った。気持ちが、悪い。
「嘘吐きだなぁ。死線に渡すんだろう? ああ、チョコレートじゃなくてケーキにするのかな? 花束は要らないと捨てられそうだしねぇ。しかしお前、チョコレートは栄養バランスが良いし保存食としてもよく用いられるんだぜ? 登山家もチョコレートは必須だって言うし。それに、頭を使った時は糖分が良い」
「砂糖を入れたいのか」
「流石だ。話が分かる。ふふふ、以心伝心というものかな? ぞっとするね」
 人識が用意しろと言っていたので砂糖はあった。角砂糖が入っている袋を丸ごと持ってくると、入れてくれるかい? と兎吊木が強請る。
「それぐらい、・・・・・・いや、やってやる。お前はそこから、動くな」
「ふふ、爆弾扱いというわけかい。楽しいねぇ」
 マグカップに一つ入れて押しやると、おいおいと兎吊木は顔を顰める。
「甘いものを食べたいと暗に言ってるのを感じ取れよ。鈍感だなぁ。さっき褒めたのを取り消したいよ」
 いつお前が俺を褒めた? と心の中で舌打ちながら、俺は二つ続けて投下する。
「もう一つ」
 言われた通りに更に増やす。じとり、と兎吊木の視線が俺の手を見ていた。
「もう一つ、入れてくれ」
「・・・・・・」
 観察するように、とも言えるぐらい、兎吊木の視線はべっとりと張り付くように俺の手に注がれている。俺が顔を上げて兎吊木の顔を確認しても、目を逸らしもせずに、動物園の動物を見るような目で、じとりと見ている。
 砂糖を更に増やすと、もういいよ、と兎吊木は言う。俺は手元にあるスプーンで中身を掻き回してから、いつの間にかぬるくなってしまったそれを持ち上げる。兎吊木はにこりと笑って俺に向けて手を差し出す。寄越せというその手を見下し、俺はソファが駄目になるのもまったく何も考えず、砂糖で甘くなりすぎたであろうコーヒーを、兎吊木に掛けた。びちゃびちゃと音を立てながら散乱するコーヒーは、やはりそこまで熱いこともなかったようで、兎吊木はきょとんと目を見開いただけで悲鳴は上げなかった。
「うむ、甘いね」
 それでも図太く口を舌でぺろりと嘗め、かかったコーヒーの味を確認する兎吊木を見下して、さっさと帰れ、と俺は言い捨て、部屋に置き去りにすることにした。部屋に鍵を掛けて篭城すれば流石に帰るだろう。ソファは後で買い替えよう。いや、ネットで今から注文すればいいのか。
「こんな格好の俺に帰れって言うのかい。流石にコーヒー臭すぎるだろう」
「いい匂いだろ。お前の匂いより数倍マシだ」
「それ、言外に俺のこと臭いって言ってるんじゃないだろうね」
 それに、と兎吊木は口を歪めて言う。
「コーヒーとチョコは別物だぜ、お馬鹿さん」
「ついに脳味噌に蛆でも湧いたか」
 ドアを閉める寸前、お前の愛は甘くて温かいなぁ、なんて言うそんな気味の悪い男が部屋にいることにぞっとしたが、追い出すことをすっかり忘れてしまったのは、俺が甘くなったからじゃない。きっと、そんなんじゃ、ない。
2011/2・18
乱さまへ


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