■太陽の帰る場所
 
 
 
 想影真心がマンションにやってきたのは2週間前のことだった。二年前に《いーちゃん》と対峙してから催眠術を使うことに支障が出るようになってから、僕は仕事をやめた。繊細な作業が求められる仕事であるし、元々敵の多い人生だ。時宮に会っても酷い場合は殺されることもあるだろう。普段なら返り討ちにできると言っても、今僕は催眠術が禄に使えない。殺し名と会っても酷い目を見るのは目に見えているし、十三階段の連中に会うのも面倒だ。十三階段に居た頃は不自由無く仕事をしてこられたのは、大きな隠れ蓑があったからに過ぎない。元々貯金は沢山あったし、僕はしばらく色んなものから逃げるようにして田舎のマンションに移り住んでいた。
 想影真心がやってきたのは本当に唐突だった。しばらく哀川潤や石丸小唄と離れて生活することになったから一緒に住ませろ、と滅茶苦茶なことを言って、彼女は僕の部屋に侵入してきていた。運の良いことにマンションは結構奮発して購入した部屋だったから、余分な部屋が1つだけあった。僕はすぐに掃除をして、生活用品を買いそろえ、彼女に部屋を与えた。どうして僕のところに来たんだい、僕を殺しにきたのかい、と聞くと、想影真心は首を振って、何も言わなかった。僕はそれから何も聞いていない。彼女の考えることは、僕程度に分かるわけがないのだ。
 《万能》といわれるだけあって、彼女はまさに何でもできた。テレビで見たことは何でも記憶する上に、失敗というものを知らないほど、何でもそつなくこなす。勿論家事は僕が今まで通りやっていたけれど、想影真心はその中にするりと入り込んで、食事を作ってくれるときもあれば、掃除もしてくれることもあった。
「君に料理を作って貰った後は、僕は料理を作るのが嫌になるよ」
「じゃあ俺様がずっと作ってやろうか」
「・・・・・・嬉しいことを言ってくれて凄く今、心臓に悪いのだけれど、きっと他意は無いんだろうね・・・。いや、何でもないよ。君がたまに作ってくれるのだけでも凄く嬉しいよ。レストランで食べるものって言われても遜色のないほど美味しいしね。でもこれを食べ続けていたら、食べれなくなった時悲しいから、遠慮しておくよ。僕の下手な料理でも、たまには我慢してくれ」
「時刻のご飯は別に嫌いじゃねぇけどな。でも、確かにそうか。俺様だって、潤から呼ばれたらすぐ行かなきゃいけねぇし、ずっとここに居るってわけじゃねぇしな」
「・・・・・・そうだね」
 素直な彼女の言葉に、僕は少しだけ悲しい気持ちになった。どうしてこんなに悲しいのか、自分でも分からないけれど、ただ彼女がここを出て行って、そしてもう二度と会えないのではないか、と思うと、どうして彼女はここに来たんだろう、と思う。
 どうして来たのだろう。本当に。何をしに来たのだろう。復讐でなければ、怒りの故にでなければ、ここへ来て、僕に会って、何をしたかったのだろう。何をしに来たのだろう。殺すのならばいつだって殺してくれていいんだよ? と、僕は心の中で彼女に言う。今だって、僕は本当に嬉しくて、悲しくて、とても楽しい。家族がいたら、こういう風に会話をしながらご飯が食べれて、家に帰ったらただいま、と言い、おかえり、と言われて、ただそんな家庭を望んだときの願いさえも叶って―――僕は今本当に、ただひたすらに――楽しい。
 君に殺して貰えるのなら本望なのに。
 君の望みが叶えられることこそが、僕の望みなのに。
「哀川潤や石丸小唄から連絡はまだ来ないのかい」
「まぁな」
 ずっと来なければいいのに、と思いながら、今すぐ来ればいい、と思う気持ちが二つある。今すぐ連絡が来て、彼女がここを去るのなら、その前に僕を殺して欲しいと頼めるのに。
「お茶飲むかい?」
「ん、ありがとな!」
 彼女は満面の笑みを見せる。僕はその顔を見て、何度も何度も、あの日の僕のかけた催眠術は、彼女にとってどういうものだったのだろう、と考える。僕はこの笑顔のために、彼女が自由に生きられるように彼女の楔を引き抜いた。彼女はそのせいで大切なものを殺しかけた。僕を憎んでいるのだろう。きっと。そうであって欲しい。
 憎んでいるのだろう? 僕が―――憎いんだろう?
 我慢しないで殺してくれ。僕は君が我慢する所を見ることが、一番嫌なんだ。




 それからまた2週間が経ってから、彼女は僕のところへ歩いてきて、「今小唄から連絡が来た」と言った。片手には彼女のオレンジ色の携帯電話が握られている。
「帰るのかい? いつ?」
「明日に飛行機に乗ってイギリスに行く。だから今日、俺様がご飯作ってやるよ。何食べたいんだ?」
「これから買い物に?」
「うん」
「一緒に行こう。スーパーを回って、考えるから」
 彼女はそうか、と頷いて、出かける用意をする。僕も椅子から立って、一度自分の部屋に戻った。財布をコートに入れて、マフラーを用意する。どきどきと心臓が耳元で鳴っている。手が異常に冷たい。ついに終わりの日が来てしまった。明日とは随分急だ。ならば今なんだろうか。僕が死ぬ時というのは。
 玄関へ向かうと、コートを着た彼女がポケットに手をつっこんで待っていた。買ってあげたブーツを履いている。待たせたね、と言うと、ううん、と首を振られた。部屋から出て、鍵を閉める。エレベータで一階まで降りて、二人で並んでスーパーへの道を歩いた。息が白い。雪がうっすらと積もっていて、ぎゅっぎゅっ、と踏みしめる音がただ鳴り続ける。
「寒いね・・・・・・」
「そうか?」
「うん、手が凄く冷たい」
「片手なら結べるぞ」
「うん?」
 彼女は手を出して、僕に向けて手を差し出す。僕は導かれるまま彼女の手を握った。彼女を何人もの人が太陽と評するが、その名前に相応しく、こんな日でも酷く暖かかった。
 手は酷く小さくすべすべしていた。子供の、小さな女の子の掌。この掌が世界を終わらせるなんて考えた僕が馬鹿みたいに思えるほど、温かく、優しく、うつくしかった。
「あったかいなぁ、君の手は」
「手を繋いで歩くのは生まれて初めてだ」
 彼女はそう言って、へへへ、と楽しそうに笑う。時刻の手は冷たいなぁ、と柔らかい太陽の日差しのような声がころころと微笑んだ。
「・・・・・・僕だって初めてだよ」
 そうだった。母だって、父だって、誰も僕の手を握ってはくれなかった。人の手を握ったのはこれが初めてなのだ。
 思わず、本当に気付かないうちにぽろり、と涙が零れた。僕は気付かれないようにさっと目をそらして、ぽろぽろと零れる涙も気にせずただ歩いた。すぐに止まると思ったけれど、握られた手が、僕の冷たい手を握ってくれる手が、温かく柔らかくて、僕の涙は止まらなかった。子供のように両目から涙を零し続けてしまって、僕は歩みを止めてしまった。彼女は手を繋いだまま、僕より一歩進んだ所で足を止めて、振り返る。泣いている僕をあえてそっとしておこうとしてくれていたのか、僕が泣いていることについては何も言わずに、彼女はじっと、橙色の大きな目を、僕へ向けていた。
「どうして僕のところへ、来たんだい」
「・・・・・・嫌だったか?」
「いいや、違うんだ・・・。こんな、君が優しいってことを、ずっと知っていたのに、知らないふりを、して・・・・・・こんなに、君を好きになってしまって、こんな、酷い・・・君は、ずるいよ・・・・・・」
 真心の温かい掌が、僕の顔に伸ばされた、冷たくて、涙で濡れた頬を撫でて、僕をあやすように時刻、と彼女は僕を呼ぶ。
「僕は、君に、酷いことをしてしまった・・・・・・ただ、可哀相な君が、見ていられなくて、ただ、君に、自由に、なって欲しくて・・・・・・君が、優しい女の子だってことを、利用した、僕は・・・・・・僕は、悪い奴なんだよ・・・・・・」
「・・・・・・そうか」
「・・・・・そうだよ。知らなかったのかい。僕は・・・・・・僕はずっと君に殺して、欲しくて・・・君に、殺して欲しかったのに・・・・・・君のこんな小さな手に、また、人を殺させようとする、悪い奴なんだよ・・・」
「お前が悪い奴だってことは、ずっと前から知ってるよ」
 彼女は冷え切った僕のもう片方の手も掬い取って、ぎゅう、と握り締めた。子供の握力のような、その優しい掌で、僕の指を包む。からからと笑って、でも感謝もしてる、と言った。
「お前はいーちゃんが俺様にしたことと同じことをしてくれたな。俺様はそれで凄く傷ついたんだぞ。それで、俺様が凄く汚い奴だってことを、理解しちまった。知りたくなかったのに・・・・・・」
「・・・・・・ごめん」
「でも、俺様を可哀相だって思ってくれたのは、いーちゃんを除いたらお前だけだ。俺様を、なんとかしようとしてくれたのは――いーちゃんと、お前だけだった。だから俺様は、お前のことは、嫌いにはなれない」
 だって嬉しかったし、と彼女は言う。
「俺様が作ったご飯を美味しいって言ってくれたことも、俺様と一緒に買い物してくれたことも、一緒に昼寝したことだって、手を繋いでくれたのだって。楽しかったし嬉しかった。凄く、面白かった」
「嬉しいよ。僕も。君が――楽しそうで」
 げらげら――と彼女は笑って、僕に抱きついてきた。小さく、柔らかい体躯が、僕の背中に手を回す。僕はしゃがんで、彼女目線を合わせるようにして、彼女を抱きしめかえした。細い矮躯はやはり温かくて、思っていたより酷く小さくて、華奢で、儚く、心のように柔らかかった。
「君に、お願いをしても、いいかな。嫌だったら、嫌だって言ってくれ。僕は何よりも、君の我慢が嫌いだ」
「いいぞ。言えよ」
「君に、壊して欲しいものがいっぱいあった。僕も殺して欲しかったんだ。本当に、本当に世界なんか終わって欲しかったけど。でも、もうそんなことは望まない。だから、幸せに生きてくれ」
「わかった」
「もしも嫌なことがあったなら、すぐに言って欲しい。僕に助けを求めて欲しい。僕は君のためならなんだってするよ。君のために、力を奮いたい」
「わかった」
「あと、あと一つ」
「なんだ?」
 僕は言うのを躊躇って、彼女を抱きしめたまま少しだけ黙った。ふと、雪が降り始めているのが見えた。寒いわけだ、と思ったけれど、体中が温かかったので不思議だとも思った。
「君を、好きでいても、いいかな」
「へへへ! なんだ、それだけなのか?」
 からかうような言葉に、僕はびくっと肩を震わせてしまった。どきどきと心臓が早鐘のように鳴る。
「じゃあ、俺様からお願いするぞ」
「・・・・・・なんなりと」
「また泊まりにきていいか?」
 もちろんだよ、と僕は言えなかった。涙が溢れて嗚咽しか出せなかったので、ただ頷いた。僕の頭を小さな手が撫でていた。




 オーブンからグラタンを取り出して、急いで盛り付けをする。グラスをテーブルに置いたら、チャイムが鳴った。エプロンを脱ぎ捨てて急いで玄関へ出る。インターホンを確認するまでもなく扉を開ければ、前より少し髪の伸びた彼女が、僕を見てへへへ、と笑う。
「ただいまだぞ!」
「うん、おかえり―――真心」
2011/1・15
豆腐さまへ


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