■「ぼくとデートをしてくれないか」
真心は以前親友に選んでもらったオーバーオールに麦藁帽子を被り、新調したサンダルを履いていた。というのも今朝方、親代わりである人類最強の居たホテルから出る時は裸足だったのだが、お前それは日本の現代人の姿じゃねぇよ。絶望先生の生徒かと止められて、近くの靴屋で安いものを選んでその場で履かせてもらったのだった。待ち合わせの神社の鳥居の前にぼんやり立ちながら、落ち着かない足元をたまに見下ろす。辺りを歩く人は居ないが車の通りは多い。しかしこんな道端に立つ小さな子供の格好をまじまじと見る人がいるだろうか? と考え、時刻が来るまでなら、ここで裸足になっても大丈夫ではないかと思った。丁度いいことに鞄の中には携帯電話がある。これを利用して《空間製作》を行い、人に見られないようにすれば裸足になっても構わないのではないか? いやいや、それ以上に麦藁帽子だって取ってもいいのでは……、とそこまで考えた時、真心くん、と真心はそう珍しい敬称を付けられて呼ばれた。
首を横に向けると、神社へ昇る坂に、一台の白い外車が止まっていた。運転席から時刻が微笑んでいる。その車が西東天の車でも医者の車でもないことを確認してから、真心は車に向かい、その助手席に乗り込む。
「早かったな」
「でも待たせちゃったみたいだね。来てくれて嬉しいよ、本当に」
「サンダル脱いでいいか?」
「勿論」
時刻はにこやかにそう言って、真心の携帯と財布の入った鞄を後部座席に置いた。真心がサンダルを脱いでからシートベルトをつけるのを確認してから、アクセルを踏み出す。車はゆっくりと一度坂を登り、反転して再び公道へ出た。
「デートって言ってたけど、どこに行くんだ?」
「一応ちゃんと考えたよ。行ったら楽しいんじゃないかっていう所は探しておいたけど、でもとりあえず君の意見を聞きたいね」
「俺様は別に、どこでもいいぞ」
「だと思った」
時刻の格好は真心の記憶とほぼ変わらない服装だった。清潔そうな白いシャツが眩しい。車の中も整理整頓されており、CDプレーヤーからは真心の知らない外国の女性歌手の歌声が零れていた。
「車で行けるところならどこにでも連れていけるよ。この街には郊外に水族館もあるし、ちょっと遠出すれば美術館や大きい博物館もある。高速に入ればちょっと有名な遊園地だって行ける。海もあるしね」
「うみ」
「そういえば、行ったことはあるかい? 海は」
真心がアメリカから日本に来る間、真心は眠っていたので初めて本物の海を見たのはつい一ヶ月前のことになる。といっても砂浜で遊んだというわけではなく、大型船に乗って小唄の仕事を手伝っただけだ。漁港はあったが浜辺は見たことがない。
「海水浴場としても使われてる浜辺だから、それなりに広いところだよ。今はまだ寒いから、泳ぐのはちょっと無理かもしれないけど」
「海に行きたい」
「わかった」
真心の言葉にすぐに頷いて、時刻は少しだけ目を細めた。真心は窓から見える景色を眺めていて、時刻が微かに嬉しそうに笑ったのは見逃してしまった。
「お昼はどうする? 食べたいものはあるかい」
「候補はねぇのか」
「僕が美味しいと思った店なら何件かここにはあるけれど、でも君が食べて美味しいと思うかどうか、不安だな」
「別に、舌が肥えてるわけじゃねぇと思うけど」
「天才が集まる島に行ったんだろう? 天才料理人の食事を数日食べると味覚が狂うって聞くけれど」
「俺様はジャンクフードも嫌いじゃねぇぞ」
「……君を満足させられる食事は諦めるよ。どこかでおにぎりかサンドイッチかを買って、海で食べよう」
真心はうん、と頷いて、また外を眺め始めた。いい曲だな、と真心は言って、流れる音に合わせて小さく歌いだす。一番の歌を聴いてメロディを完全に覚え、歌詞さえもサビの部分は一言も間違えずに言葉を紡ぐ真心に、時刻は酔いしれるようにうっとりと口を緩めた。かち、と曲が終わると同時に停止ボタンを押して、時刻はCDを止める。車内が静かになって、真心がどうした、と聞いた。
「五月蝿かったか?」
「いいや、君の歌声をちゃんと聞きたくて。良ければ歌ってくれないかい」
真心はぱちりと目を見開いて、少し止まってから、うん、と頷いた。
「声は真似しなくていいよ。君の声が聞きたい」
「わかった」
真心はゆるりと歌いだした。一度聴いただけの異国の歌を、まるでプロの歌手が歌うような柔らかさで。なんでもできる彼女を眩しそうに盗み見ながら、時刻はアクセルを踏んだ。
◆◆◆
夏と言ってもまだ水着姿でその上海に入るには寒い。浜辺には片手で数えられる程度の人が点在していた。時刻は浜辺の近くにある有料駐車場に車を止め、堤防につけられている石段から浜辺に降りた。
「青いな」
「そうだね」
真心はきょろきょろと見回して、遠くにいた貝殻を探している親子を見つけた。時刻にはその親子はぼんやりとしか見えなかったが、彼女にはしっかりとその姿が捉えられているようで、眉間に皺を寄せながら、「裸足になっていいか?」と時刻に聞いた。真心は一応車から降りるときにサンダルを履いている。時刻は裸足でいいよ、と言ったのだが、真心がそれを辞退した。一応の礼節は弁えるよう、と小唄に言いつけられていたせいだ。
「いいんじゃないかな。浜辺って裸足になるものだと思うけど」
勝手な思い込み、というよりはイメージで時刻は言った。真心はサンダルを脱いで、俺様もそう思ったけど、とぼそぼそと呟く。
「皆靴履いてるし」
「そうなんだ」
真心はサンダルを持って砂浜を歩いていく。時刻は足元の砂に触れた。微かに湿る砂浜は冷たい。それに歩くには少し痛い、と思う。しかし真心は平然と海へ歩み寄り、波打ち際で足を止めた。海水が彼女の踝まで触れてくる。
「冷たくないかい」
「おう。冷たいぞ。でも気持ちいい」
ぱしゃぱしゃと真心は引いては寄せる海を軽く蹴って遊ぶ。時刻はサンダルを預かるよ、と真心に言って、彼女に手を差し出した。真心は俯いたまま、背後も振り返らずに時刻の手にサンダルを乗せる。
サンダルを手に持ったまま堤防の端まで歩いて行ってから、時刻はなんだかまるで今のやりとりは熟年夫婦のようだなぁ、なんてくだらないことを思った。勿論自分と真心の考えが言葉に出さずとも通い合ったわけではなく、全て真心が察知して時刻の手の出した場所を見ずとも理解しただけである。そんなことは百も承知だったが、そう一瞬考えるぐらいは許されてしかるべきだと、時刻は思った。
真心はオーバーオールの裾をたくし上げて、太腿までをむき出しにした。小柄な体格だということは分かっているつもりだったが、露になったその細いふくらはぎは本当に、少女そのものだ。
遠くで遊んでいた親子がのんびりと帰るようだった。時刻の横を通り過ぎながら、真心を見て少し心配そうな声で呟いた。
「寒くないのかな」
時刻は少し笑いそうになった。地獄の業火ですら死なない彼女に氷点下にもなっていない水温など微温湯と変わりない。彼女はそんな貧弱な人間とは違うのだ。真心は膝丈まで海に浸かっていた。冷たい潮風でさえ時刻は背筋が冷えるほどだったが、彼女はそんなこともどこ吹く風とでもいうように海と戯れている。
時刻はしばらくその様子を眺めていたが、彼女の小さな背中を見つめているうちに、いつの間にか真心に歩み寄っていた。時刻の革靴があっという間に海水に浸って、服がすぐに水をすって重くなる。肌を刺すような冷たさが時刻の足を襲ったが、彼はそれよりも先に真心の細腕を掴んだ。
「うん?」
くるりと振り向いた真心は不思議そうに首を傾げた。さっきまで振り向かなかったのは時刻の動向にまったく気にしていなかったせいだろう。突然腕を掴まれた事態でさえも何も感じていないとでもいうように時刻を見上げた。
「時刻、お前、足、ずぶ濡れだぞ……」
時刻は気にせず彼女の手を引いた。真心は逆らうこともなく従順に引かれるままに海から上がる。海水の届かない砂浜まで真心を引っ張って、時刻はその場に跪き、真心の足に触れた。真心はされるがまま、時刻が何も言わずに立ち上がるまでじっとしていた。
冷たい海水に浸っていたとは思えないほど真心の肌は温かかった。発熱しているようにさえ感じる。
「すまない」
「どうかしたのか」
「いや、うん、そうだね……どうかしてたんだ。ごめんよ」
時刻のしどろもどろに答える様子を見て、真心は、自分が冷たい海の中で凍えていないかと心配したのだと察した。十三階段の人間として一ヵ月ほどを共に過ごし、真心の異常性を間近でみていたはずの時刻だったが、真心がたまに不思議に思うほど、真心に対して過保護な様子を見せる。真心は顔を顰めながら、困ったように言う。
「時刻は俺様に優しいな」
「うざったいだろう」
「んー? でも、新鮮で楽しい。それに時刻のことは嫌いじゃねーぞ」
僕はあまり僕が好きじゃないよ、と時刻は心の中で呟いた。きっとまた、余計なまねをしてしまう。いつでも何度でも繰り返し、僕は失敗ばっかりだ。
「時刻」
「なんだい」
「あー、えっと、やっぱり足、つめてーかも」 真心は不機嫌そうに言う。彼女の小さな足が砂浜の上に居心地悪いように立っている。きっと嘘だな、と時刻は思いながらサンダルを渡そうかと考えたけれど、やめた。
「じゃあ、抱っこしてもいいかな」
変な言葉だと思ったけれど止められなかった。時刻はその場に傅いて、真心と視線を合わせる。うん、と真心は頷いて、時刻の首にしがみついた。太腿の下にサンダルを持った腕を回して、もう片方の手で真心の背中を支えた。時刻の腕に座るような体勢だったけれど、酷く軽かったので苦には思わなかった。少女の身体はこんなに軽いものなのだろうか? と不安に思うほど、真心の身体は軽い。ここに居ないようだった。心のように軽い。羽のようにと言っても過言じゃない。
時刻は波打ち際を歩き出した。真心の身体は酷く温かい。時刻は冷たい足も大して気にならなくなっていた。真心は海を眺めて何も言わない。きっと《いーちゃん》のことを考えているんだろう、と思った。
「いーちゃん、結婚したんだぞ」
「ふうん。そうなのか」
ふと零された真心の言葉に、時刻はそうとしか答えられなかった。どうでも良いといってしまえばそれまでだ。時刻はあの戯言遣いに対して憎悪以外の感情は抱いていない。君は悲しいのかな、と時刻は真心に聞きかけてやめた。我ながら酷い台詞だ。
「結婚式に行ったんだ。いーちゃんに招待されたからな。いーちゃんもその相手の子、友ちゃんって言うんだけど、凄く幸せそうで、……綺麗だったなぁ」
「うん」
「海みたいな色をした女の子だったんだ。幸せそうに笑ってて、そんで泣いてた。俺様はどうして泣いてるのか分からなかったけど、でもいいなぁって思ったんだ。いーちゃんが幸せになってくれて、俺様はすげー嬉しかった」
すげー嬉しかったんだ……、と真心は繰り返す。時刻はうん、と頷いた。それ以上何か言うのは憚られた。背中に回された小さな掌が自分のシャツを握り締める。その感触に縋っているのはきっと僕の方だ、と時刻は思った。
2011/3/20
「ぼくとデートを」収録予定変更