■キリエ
なにがしたいんだ、と喘ぐように男の唇が動いた。ゆっくりと、声に出さなくても伝われとでもいうように。
俺はその唇を食い入るように見つめた。その唇の動きが、一瞬、昼に一度俺を叱咤した死線の唇とリンクする。
さっちゃんは馬鹿な子ね、嘲る言葉ですら、彼女の口から零れ、己へとその意味を伝えようとしている時点で、それは世界に二つとないほど甘美な美酒のように感じる。なにがしたいんだ。男の口からようやく零れた声は、まるで泣いているようだった。
事実、男は両手で己の目玉を覆い、俺の視界の内で男がまるで嘆き伏しているように見えた。その両手を外せば、男の睫毛は涙でしとどに濡れているのではないかと。
唇は、一度声を洩らすと、すぐにきゅっと閉ざされ、再び音を出すことを拒んでいた。薄い唇を噛み締め、男は無様に女のような動作をした。俺が男が泣いているのかどうか確認しようと、男の目を覆っている両手をどかすために、男の手首を掴めば、俺の目にも留まらぬ速さで、男の手の甲が俺のこめかみを横殴りにした。ごりっ、と骨同士が擦れあう音と共に、目の前が真っ暗に染まる。
俺は堪えきれず床に蹲った。こめかみを成人男性の渾身の力で殴られたら、こうなるのが普通だ。むしろ死ぬかと思った。
脳味噌を片手で掴まえられて、そのままぐしゃぐしゃとかき混ぜられたよな激痛と嫌悪感、痛すぎて込み上げてくる吐き気。もしかしたら脳味噌が半分くずれたかもしれない、なんても思った。
ぐるぐるする視界を無理に上に上げれば、男は顔から掌をどけて、普段の怜悧な緑色の目玉をこっちに静かに向けていた。その目には一切の寂しさもなく、同時に切なさもなかった。ただ淡々と冷たい目が、俺を侮蔑するように見下している。
このクソ野郎。男が言った。まるで女を取られたしょうもない男の台詞だ。頭がおかしくなったのか、俺は突然笑い出したくなった。気がつかないうちに肩が振るえ、くふっ、と内臓の方から漏れ出すような笑い声が零れた。
「ふ、はは、あはは、あははははははは」
「笑うな。下種が」
「あははははははははは」
一度笑ってしまうと、箍が外れたように笑えてきた。腹が引き攣って、ひゅうひゅうと喉が鳴る。いつの間にか俺の上に馬乗りになった男が俺の胸倉を掴んで、黙れ、と叫んだ。その瞳が歪んでいるのを見て、どうやら怯えているらしい、と悟る。
「あはは、はは、はははははは」
「兎吊木!」
「お前、何してんだ?」
俺はたまらず言った。ついに拳を振り上げた男が無様で、また笑えてくる。
先ほど俺が唇を押し付けた男の唇に手を伸ばすと、ぎくりと男が固まった。その眼球が、恐ろしいほど怯んでいて、なんで、どうして、俺はどうにも寂しくなる。
もっと憎むような目つきで睨んでくるものだと思っていたのに、もっと憎悪を吐き捨てて、すかした顔を一転させて殴りつけてくるものだと思ったのに。
「俺が好きなの?」
「なにを」
「キスをしよう、式岸」
男はもう、俺の胸倉を掴むのをやめていた。俺と視線を絡めるそのグリーンの眼球が、こっちが哀れみを抱いてしまうほど困惑に揺れている。かさついた唇が切れて、血がぷつりと溢れていた。勢いよく俺にのしかかったせいで、後ろに撫で付けた前髪が一条垂れている。顔より少し色の薄い首が、一度動いた。
気丈な男は既に剥がれていた。その表面にあるただひとつの守りたいものだとか、それを立たせるための己の嘘だとか。ぼろぼろに崩れていて、俺がそっと触れるだけで、明らかにそれは死滅するものだった。
生娘のように怯えた男のネクタイを引っ張って、俺が逆に身を寄せれば、男は眉根を寄せて怯んだ。どうすればいいのか分からずに、言葉を見失っている。
「キスをしたくないのなら俺を殺すといい。死んだ俺とキスしたいのなら、それでもいいけれど」
「お前を殺したら、しせんの、きげんが」
「俺への憎しみを死線でカヴァーできるのなら、俺のことがそんなに嫌いでもないんだな、お前は」
崇拝によって得られるのはその本人の主張だけなのだと、俺は思っている。それは恋だろうか愛だろうか、哀れみだろうか慈しみだろうか。そんなことは、どうでもよかった。俺はあっという間に崩れ去る、むしろその壊れる瞬間から目の離すことのできない哀れで仕方の無い小さな生き物で頭が一杯だった。引き寄せた男の唇に己の唇を押し付けると、耳のすぐ近くで男が壊れる音が、聞こえるような気がした。
(主よ憐れみたまえ!)2009/2・2