■愛された臆病者
 
 
 
 吐く息は酷く熱かった。腹のうちに溜まった熱が、行き場を失くして渦巻いている。頭に一度昇った感情は、じわりと下に落ちてきて、全身を燃え上がらせるように熱を発した。握り締めた拳が、酷く痺れていて、倒れた男がにやにやと目だけで哂っていた。
「ああ―――ははは。また、暴力に訴える」
 身体は頑丈だからね、などと嘯いていたそいつは、確かに身体は頑丈で、舌だけはいつでもよく回るらしい。散乱したハードディスクや資料の紙束、放置されていた札束の入った鞄が滅茶苦茶だ。背中を強かに打ちつけて、俺に殴り飛ばされたそいつは、ふふふ、と気持ち悪く笑うけれど、胸に手を当てて苦しそうに呼吸を繰り返す。骨でも折れただろうか。そのまま死ねばいいのに。そのままもう死線に会えないようにしてしまいたい。そのままもう、俺に近づかないで欲しい。
「そんなに怯えるなよ傷つくなぁ――。まるで俺が悪者のようじゃぁないか。暴力で何事も進めようとするのは君だっていうのに、そうやって俺は、何もしていないのに株が下がっていくんだよまったくもう」
「何もしてない奴が、殴られるわけねぇだろう」
「何を言うんだい、君らは何もしてない人だって殺す癖に」
 ふふふふふ、と兎吊木は、俺の家族に似たような笑みを洩らす。何もかもが、癇に障る男だ。
 何もかもが、苛々する。
 死んでしまえばいいのに。
 死線のような空の蒼の色も、海の青の色も見えない、どこか暗い、どこか深い、誰も知らないところで死んでしまえばいいのに。
「式岸、愛してるよ」
「お前の言う愛って何だ?」
「お前の顔がイケメンだねと、そう言っているんだよ」
「だからなんだ」
「抱かせてくれてもいいんだぜ」
「・・・・・・」
「セックスしようぜ、なぁ、気狂い殺人鬼。ほら、愛してやるから、さぁ」
「う、うう、うううううううううう」
 気持ちが悪いんだよ細菌野郎――。
 俺は、握り締めた拳をまた、振り下ろして、振り下ろして、振り下ろす。男は微笑んでいた。
 愛を嘯くように微笑んでいた。



 ■ ■ ■



「アスー。ご飯食べないと力がでないよー」
「どこのアンパンだよ」
 とんとん、と部屋を叩いて、双識はくるりと振り返る。リビングの椅子の上にしゃがみこむという不思議なポーズで、テーブルに置いてあるウィンナーを抓んでぽりぽりと咀嚼する人識に、何食べちゃってるんだい人識君、外道だなぁ、と苦言を呈した。
「それはアスの朝ごはんなんだよ、人識くん。人畜非道な行いだよ。まったくもう。そんな君には非道君・・・否、外道かつ非道ということで堂々君という名をつけてあげよう。零崎だから堂識君だ」
「常識を誤字ったみてーだな」
 巡り巡って外道なのに常識人みたいになってしまった。
「っていうかアスの奴もう2日は部屋から出てこないよ。これはもう引き篭もりになったと考えるべきなんじゃないのかな? どう思う、トキ」
「アスに限って引き篭もりなんてそんな現代人のようなことをするとは思えないけれど・・・」
 曲識さんの中で大将は古風キャラなのか、と聞こうと思ったが、人識は怖かったのでやめた。ぽろんぽろんとウクレレを弾きながら、しかし悪くない、と曲識はいつものように少し笑う。
「引き篭もれる程アスの心労が家族のせいではないと実証されたようなものだ。アスはすぐに一人で抱え込むからな。いつ鬱になっても仕方が無い程の繊細っぷりだから、普通に引き篭もりになってくれたせいでむしろ安心してしまったぐらいだ」
「いや、鬱になったら引き篭もるんじゃねぇの?」
 などという突っ込みを正面から言えるほど人識は命知らずではない。大将もいい歳なんだしほっといてやろうぜ、とかなんとか言って、人識はのろのろと立ち上がり、冷蔵庫の中から冷えたジンジャーエールの缶を取り、与えられた私室に戻る。渋々戻っていく双識と擦れ違い、一度軋識の部屋の前で足を止めかけたが、それを感づかれないよう自然な足運びでそこを通り過ぎた。気楽な曲識のウクレレの音が、優しく響いていた。



 ■ ■ ■



 私はアスが好きだよ、と双識は言い、曲識も軋識を愛していると言う。それが家族愛と言えるものであるということを、軋識は理解していた。それでも怖かった。軋識は愛というものは酷く曖昧であり、己がその姿を目に映すよりも前に、あっという間にどこかへ身を潜める。だからこそ軋識はその「愛――」というものが酷く素晴らしいものであり、己がそれを求めているということを重々承知しておりながら、それでもそれに触れることができなかった。得体の知れないものに対する恐怖ではなく、それは零崎として長年生き続けた彼にとっての自己防衛に等しい感情で、その「愛――」というものが、零崎は手に入れられないとても柔らかいものだろいうことを、知っていたからかもしれない。
 式岸軋騎が恋した彼女に、己の姿を、殺人鬼としての姿を見られるのを恐れるように、軋識は愛が怖かった。
 しかし、欲しかった。愛して欲しかった。
 一人が嫌だからこそ零崎は家族を作ったのだし、零崎は皆寂しがり屋の集団だ。殺さなくてもいい、家族が欲しい。それでもその繋がりは流血のみであり、彼らが殺人鬼でなくなれば、もはやその繋がりは無いと言っても良い。「愛――」を手に入れればそれではもはや零崎でなくなり、その「愛――」を与えてくれる人は遠くに行ってしまう。軋識はそれを本能的に悟っていた。
 だからこそ世界で一番愛しているなんてそんな言葉に惑わされることなんてなかった。軋識は二番目が良かった。一番愛されるのは裏切られた時悲しくて苦しい。ただ一緒にいてくれればいい。ただ愛してくれなくてもいい。一緒にいて欲しい。
「大将はどこに行くんだ?」
 どこか知らないところで一歩一歩大人へ近づく小さな少年は見下すように軋識を詰る。愛した人を失って、愛したものがどこかへ行ってしまった、悲しみを知っている子供は、悲しみを知らない軋識を叱咤する。
「二番目に好きだっていうのは一番じゃないってだけで、何も変わりゃしねーよ」
 裏切られる時は裏切られるし、愛される時は愛される。
「瑕は絶対、負うもんだよ」
「それでも、俺は裏切りたくは、ない」
「ぐっちゃんはいじらしいね」
 彼女は目を細めて哂うばかりだ。
 群青色の海の中に、軋識は血の匂いを嗅ぎ取ってしまう。
 殺すべき女の、子供の肉の匂いを見てしまう。
「意地汚い、愛を求める、雌の匂いがするよ」
 軋識は凶器を握り締めて振り返る。少女はいつものように柔らかいソファに気だるそうに座っていて、その前に番人のように兎吊木が立っていた。にやにやと、いつものように哂いながら立っていた。
「愛されたいなら渇望しろよ。愛したいなら求めろよ。俺は優しいから、お前の期待をきっと裏切らない」
「お前なんかに、誰が―――」
「ああ、まったく、臭くて仕方が無いな」
 発情している雌犬のようじゃないか、式岸。男はそう言って、軋識の、否、軋騎の首元をざわざわとなぞる。慈しむように指を這わせる。蛇のように。侵食するように。細菌のように。



 ■ ■ ■



 ドアを開けると大将はいなかった。錠開けナイフをポケットに仕舞い、兄貴や曲識さんに気付かれないように中に這入って、ドアを閉める。鍵をかけて、捲られたまま放置されているベッドと、開け放たれたままの窓を見た。ひょいと下を覗き込むけれど、誰か人が落ちた形跡も無い。下でなければ上か、と見上げて、結局寒かったからやめた。冷たくなった室内に、大将の私物は殆ど無い。叩き壊されたパソコンは、めちゃくちゃにぶっ壊れていたし、デスクの引き出しのなかに入ってる携帯電話も、全部が全部、ぶっ散らかされていた。
 冷たいベッドに横になっても、大将の体温は残っていなかったけれど、その匂いが微かにあった。
 とんとん、とノックの音がして、アス、いい加減ご飯食べなよ、と心配する兄貴の声がした。俺は無視して布団を被り、大将のベッドで一眠りすることにした。
 一度眠って、目が覚めた時に大将が当たり前みたいにベッドの横の椅子に座って、人のベッドで何寝てるっちゃ、なんてぼやくのが聞けたら、全て許そう。兄貴だって許すだろうし、曲識さんだって何も言わないだろう。でもやっぱりそれでも帰ってこないのなら、流血の繋がりもこれまでだ。
 家族でないなら殺すだけだし、家族で無いなら愛するだけだ。俺の愛を受け止めて、そうして大将は笑ってくれるだろうか?
 ウクレレの音はいつの間にか止んでいた。








 × × ×

「やぁ、人を殺せない殺人鬼君、顔が真っ青だよ、どうしたんだい。ああ、凍えているんだねかわいそうに。優しい俺が、暖めてあげよう。愛してあげるからさぁ震えてないでこっちへおいで。俺の死線への愛が永遠である限り、お前への愛もけして消えないから、さぁ可哀相なただの人、愛してあげるよ、愛してあげるよ・・・・・・」
2010/12・25


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