■なんどもなんども
「いい人がいますよ」
優雅にコーヒーを飲みながら、木の実さんは言った。東京の、渋谷にあるスターバックスで待ち合わせをすると、彼女は時間通りにやってきた。昔見たときとはちょっと違うけれど、清楚系な服装に、知的な眼鏡をかけている。数年経っても見た目が変わらないから、本当に彼女の年齢が分からない。
「木の実さんが言うなら、本当に信用できる人なんでしょうね」
「ええ。貴方も会ったことのある人です」
彼女はそう言って微笑んだ。僕に「会った人」と言われても、僕の記憶力は昔と大して変わらず酷いものだから、名前を出されても分かる自信がない・・・。不安で胸をいっぱいにしつつ、とりあえず目の前のコーヒーで頭を冷やす。苦いというか酸っぱい味で、とりあえず覚悟はできた。
「呪い名でも、構わないんでしょう?」
「ええ、はい。短時間で催眠の使える、信用のできるプロであれば」
「時宮時刻がいます」
「・・・・・・・・・」
「どうしました?やはり、あの時のことが水に流せませんか。まぁ、仕方がないといえば仕方がないですが」
「あ、いえ、そういうわけではないです」
時宮、時刻。実を言うと、うろ覚えだ。なにせ会って話をしたのが、20分程度、しかも一回きりだったし、しかもしれが数年前だ。僕でなくとも、忘れているだろう。あの時のことは結構憶えているつもりだったのだけれど、時宮時刻については、かなり、印象が薄い。ノイズくん並、いや、奇野頼知並じゃないだろうか。
目を見ただけで操想術を使えるというのは、勿論プロというか、むしろ最高技術、とも言えるぐらいだけれど・・・。
「手伝ってもらえるんでしょうか? 僕、そこらへんの人達とは、仲が悪い、と思うんですけど」
「仲が悪い?」
小首を傾げて、木の実さんは言う。
「憎まれてる、の間違いでしょう?」
「・・・・・ずばりと言いますね・・・」
まぁ、その通り、なのだけれど。
木の実さんはコーヒーを飲み終えると、小銭を置いて、席を立つ。
「それでは、とりあえず、私の方からアプローチをかけて差し上げましょう。彼は暇すぎて生きる希望だとか、そういうものを片っ端から無くしてしまったようですからね。たまにはお仕事もした方がいいでしょう」
品のいい仕草で鞄を肩から提げて、彼女はそれでは、と去っていこうとする。その細い背中に、あの、と僕は最後に声をかけた。
「時宮時刻って、今、どこで何をしているんですか?」
「精神病院で引きこもってますよ」
「すみません・・・。断られました」
それから3日後。同じスターバックスの端の席で、彼女はそう言った。それを責める言葉も無ければ気もない僕は、一言、はあ、と間抜けな声を出してしまう。
「貴方の仕事なんかやりたくないと」
「まぁ・・・でしょうね」
僕もようやく時宮時刻との一件を思い出して、これで了承するなら凄い男だな、と想っていたのだ。彼が弱っていたとはいえ、僕は彼を徹底的に殺した。彼の術を打ち壊した。僕はあの時、確実に憎しみを持って彼を倒した。真心を殺した、いや、真心を解放した気になっている、馬鹿な自分自身に向けるような意気込みで。
その結果でこうも仕事が滞ると、ちょっとだけ後悔したり、しなかったり。・・・いや、やっぱり、後悔はしていない。僕はあの時本当に、心の底から世界を救おうと決めたのだ。世界のためならば、あのようなふざけた思考をした男の術など、砕かなくてなんとする。しかし、これで振り出しに戻ってしまった。他にも術者がいるとはいえ、呪い名で、いや、呪い名でなくとも、その道のプロは大抵どこかぶっ飛んだ人達だ。木の実さんのお墨付きの貰える術者なんて、そうそういない。
「さて、どうしましょうかね・・・」
僕が一先ず考えるポーズをとると、木の実さんはちらちらと僕を見て、差し出がましいかもしれませんが、と口を開いた。
「わたくしが推薦できる人は本当に少ないのですが、その分信頼はできます。腕も、思考も。勿論、時宮時刻はかつては世界を終わらしたい、なんて願望を持っていましたが、それ以外はまったく通常と変わらない男です」
「まぁ、そうですね」
「だから、私は時宮時刻以上に貴方に推奨できる人がいません。そこで、私が交渉して駄目だったのです。貴方が直々に交渉してはどうでしょう?」
それは。
僕は言葉を詰まらしてしまう。戯言遣いの僕が。想像していなかった選択肢に、戸惑う。
「憎まれている―――んですよね」
「憎まれている、というより、怖がられている、というべきですか。貴方の名前を出したら、まさに戦々恐々といった風でしたよ。しかし、貴方は戯言遣い―――武力に言葉で対抗するのでしょう? 呪い名の一人や二人、陥落してみせず、請負人と名乗れるのですか?」
おっと、これは挑発的なお誘いだ。僕は思わず口が緩んでしまいそうになる。だから彼女は好きだ。こういう、僕相手にでもこんなふうに啖呵を切れるところが。あの、赤色のようで。
「じゃあ、いいでしょう。ご期待に沿えて、やってみせますよ。―――ええと、時刻さんの病院というのは」
「いえ、行くのはやめた方がいいでしょう。携帯電話があります」
彼女はそう言って、白い清楚な携帯電話を僕に向かって差し出してきた。シールもステッカーもついていない、しかし、可愛らしいキーホルダーの一つついたそれ。・・・それを黙って受け取って、自分の携帯電話と少しだけ操作方法の異なるそれを、なんとか操作して、まるでタウンページ丸ごと入ってるんじゃないかと思ってしまうぐらい多くのアドレスの入っているアドレス帳を開く。そして、ようやくその名前を見つけた。時宮時刻。僕が天敵の男。
電話を通しての会話術は、顔を合わせての会話術とは少し、方向性が違う。表情が見れないのは、色々難しい。本当に、ただの言葉と言葉の戦いになる。それが僕の戦場、それが僕のフィールドになる。
時宮時刻と会話を交わした時は、確か僕だけが相手の顔を見れていた。今回は、それではなくただのイーヴンになる。実際赴いて顔を突き合わせての会話でも良かったかもしれないけれど、それはやめた方が、やっぱりよかった。僕は、時宮時刻が僕に抱く恐怖が、それほど深くないものだと、勝手に思い込んでいたからだ。
「なんだ」
電話越しに聞いた声は、以前会話したときより少し感情が欠けて聞こえた。この声は、木の実さんに対してかける声なのだ。僕はその、なんだ、という言葉以上言葉を発しない時刻さんの呼吸だけを聞きながら、少し待って、電話の相手にいる人間が木の実さんではない、ということを思わせるぐらいの時間をかける。そして、一言。
「どうも。お久しぶりです」
「・・・・・・・・・・っ!!!っぅうううううう!」
一瞬、沈黙したあと、彼は息を飲み、呻き声を上げた。少しして、がしゃん、と荒々しい音が聞こえてきて、携帯電話が投げられるような音がした。
・・・・・・・・・・びっくりした。僕が目を丸くしている向かいで、優雅にコーヒーを飲む木の実さんが、僕を見て不思議そうに首を傾げた。
「・・・あれから数年経ったのに、まだこんななんですか」
「・・・マシになった方だと思うんですが」
僕は背筋の凍る思いをしながら、電話を耳に当てたまま、時刻さん? と声をかける。電話の向こうからは、音が聞こえてこない。携帯電話を捨てたんだろうか、とも思う。その割に、通話は繋がったままだ。木の実さんを見ると、どうぞ、好きなように、と頷いてくる。僕はしばらく待った。ようやく、僕がもう切ってしまおうかと思ったころ、衣擦れの音がして、人の呼吸する音が耳に届いた。
「なんの・・・ようだ」
「・・・木の実さんから聞いたんじゃないですか? 仕事の話です。簡単な仕事です。貴方にとっては。それを、手伝ってもらいたいんです」
「お断りだ」
受話器の向こうからは、きっぱりとした声で返事が返ってくる。怯えているのに、きっぱりとした拒絶の声が聞こえてくる。
「なんで僕が、貴様の手助けなんてしなければならないんだ。ふざけないでくれ。ふざけないでくれ、《戯言遣い》。お断りだ。何度だって行ってやる。100回でも何万回でも、何億回でも言ってやる。ふざけるな。僕は貴様のためになんか、僕の力は使わない」
「・・・プロの言葉とは思えませんね。時刻さん。まるで子供の我侭ですよ」
「子供の我侭だろうが、僕の我侭だろうが、なんだっていい。とにかく君はいやだ。君に会いたくない。君が僕にやったことを、君は忘れたのか? 僕は君が怖い。君が恐いんだよ戯言遣い。そして君が憎い。憎たらしい。だから僕は君が嫌いだ。だから君の手伝いはしない。僕はきみの手助けはしない」
どうしたものか。これじゃ本当に言葉が通じそうに無い。言葉が通じない、ただの子供の我侭だ。僕の言葉は騙して透かして交わして諭す、そんなものなのに。ただ単純に僕が嫌われてしまうとなると、これは、難しい。
流石、あの人の《同士》・・・難しいな。これは。
「別に僕に会わなきゃいけないわけじゃないですよ。むしろ、会うことは無いぐらいなんですよ。時宮時刻、さん。お金だって口座に振り込んでもいいんです。やってほしいことってのは、今回被害にあった人のアフターケアなんですよ。だから僕に会う必要はないんです」
「どっちにしろ、君に有益に働くことはやりたくない」
「相当ですね・・・」
僕、そんなに酷いこと、したっけか。・・・・とか言ったら、電話切られるんだろうな。
「では、取引なんてどうでしょう?」
「僕は君にして欲しいことなんてない」
「真心に会いたくは無いですか」
「・・・・・・・・・・・・・」
「貴方は真心に会いたいはずだ。―――貴方が、信頼のできる人なら。真心に会いたいはずです。時宮時刻さん。僕が、あいつとのパイプを繋いでやってもいいですよ」
「君は―――」
時宮時刻は、電話の向かいで、息を飲んでいる。
「僕に、彼女を会わせてもいいと思うのか? それは―――いかれている」
「僕はそれぐらいは、貴方のことを信頼しているんです」
そう、かつて、時刻は真心に呪いをかけた。彼が解放と言って譲らなかったその行為。真心を枷から外したこと。そのせいで、真心が傷ついて、沢山の人が傷ついた。だが。僕は、今になって思う。あれがあってこそ、真心は生きている実感を得ることに達することができた、と。バックノズル―――起こることは必ず起こる。真心は絶対にいつかは、あんな目に会うことになっていた。何故なら彼女は不安定で、おかしくて、どこまでも、人になりきれなかったのだから。
「僕は、貴方のことは大嫌いですが―――真心を『可哀想』だと思った、貴方の心を、信用しています」
誰にも心配されない橙色。誰にも信頼された橙色。傷つかず、苦しまず、強く、強い橙色。それを、可哀想だと思ってあげた、時宮時刻。
「だから貴方のことを、信用している」
「・・・・・・・・・・」
携帯電話の向こうで、時刻は沈黙を保つ。静かに、僕の言葉を聞いている。と、そこで相手が喋った。
「木の実と代わってくれ」
「・・・・・・」
僕は電話をそのままコーヒーを飲む木の実さんに渡す。突然戻ってきた携帯電話に怪訝な顔をしながら、木の実さんはそれを耳に当てて、はい、代わりました、と答える。
「・・・・・・はい。そうですか。分かりました。内容についてはまた私から連絡しましょう。・・・・はぁ。そうですか。・・・・ええ。それでは、後ほど」
木の実さんは通話を切って、携帯を鞄の中に仕舞った。僕が無言で伺うと、「仕事、やるそうです」と言った。
「よかった。じゃあ、この件は木の実さんと時刻さんに任せますね」
「ええ。任されました。仕事はちゃんとやりますから、安心してください。お金は大切ですから」
くすっ、と笑って木の実さんは立ち上がる。僕も倣って立ち、二人分のコーヒー代を払った。
宿泊するホテルに戻って、真心の携帯に電話をかける。仕事中でもしも今山を登ってたりとかしてたら困るな、なんて思いながら少し待つと、いーちゃんっ!? と驚いた声が耳に届いた。
「よう。元気そうだな」
「ああうん。今ちょっとお休み中だ。明後日からは北海道に行くんだけどな。ちなみに今は熊本だぞ」
「忙しそうだな」
「いいや、でも、いーちゃんの声聞いたら元気出た!へへへっ、いーちゃんも元気そうで何よりだぞ。もう少ししたら遊びに行っていいか?」
「ああ。いつでも来いよ」
声は変わっていないが、哀川さんの話じゃ背がぐんぐん伸びているらしいし、会うのが楽しみだ。他愛の無い会話を交わして、タイミングを見つけて、仕事の話を切り出す。あの時は勝手に真心を使ってしまったのを謝り、嫌なのは分かるけど、一回ぐらい会ってくれないか、とさり気なく頼もうと考えてみる。真心は僕の頼みは9割の確立で承諾するが、やっぱり我慢というものに慣れすぎてしまっているきらいがある。そういうのは、あまりやりたくない。
とりあえず今日起こったことを説明すると、真心は、んー? と不可解そうな声を上げた。
「・・・なんだ?」
「いや、なんか、おかしいなぁーって思って」
「?」
「いーちゃん、実はさ、俺様、・・・・・時刻とはもう会ってんだ」
「・・・・・・・・は?」
驚く僕を放置したまま、んん、あのな、驚かないで聞いてくれよ、と真心は言う。
「俺様、実は時刻の奴と、何回も会ってるんだよ。っていうか、暇な時はあいつに会いに行ってるぐらい、会ってる」
「なん・・・・だって?」
真心曰く、どうやら真心は4年前のあのことが起こってから少しの間、哀川さんに連れられて事件関係者にお礼参りに行ったらしい。哀川さんは真心の我慢癖を直せ、と言って、真心に散々酷い目を合わせてきた人達に会いに言って、片っ端からお詫びさせた、らしい。その時に時刻とは会っていて、和解までいったらしい。今は時宮時刻が僕に植え付けられたトラウマによってのこった後遺症を治すリハビリに付き合ってやっているらしい。時刻は真心に対しては怖ろしいほど従順で、本当に真心に尽くしているそうだ。
「・・・・・・・じゃあ、なんで時刻さんは僕の仕事を受けたんだ?」
不思議なのは、それだ。僕の取引ネタである、真心との再会。それを抜きにして、あの男が僕を助けてくれる理由が、わからない。僕が混乱していると、受話器の向こうでへへへへへ、と真心が意地悪そうに笑った。
「時刻の奴、いーちゃんにときめいちまったんだな」
「・・・・・・あ?」
耳を疑う。何て言った今。げらげらげら、と特徴的な笑い声さえ上げて、きっと電話越しに真心は物凄く楽しそうに笑ってるんだろう。素晴らしい人生を、楽しんでいるんだろう。
「ふふん、いーちゃんはモテモテだなー。俺様は、俺様の友達がモテモテで、嬉しいぞ!」
「あのなぁ、そんなわけないだろ。時刻さんは僕のこと嫌いなんだから」
「そういうことにしておいてやるぞ」
意味ありげに笑って、真心はへへへ、と笑う。
「いーちゃん、好きっ!」
「・・・僕も好きだよ」
釈然としない感じだが、一先ずこれは置いておこう。時刻さんがもしも僕を憎まないようになったとしても、多分、もう会うことはないんだから。僕はまたくだらない会話に戻って、しばらく親友との昔話に花を咲かせた。何故か、やはり、あの時刻さんを疑る思いを抱けないまま。
2010/2・23