■キスで殺して
 
 
 
 目の前の男にキスをしようと思い立ってから、そこでふと、どうして肌の色は赤ではないのだろう、と思った。この病的な肌の白さの男を見る度、特に思う。骨の浮いた薄い手の甲を覆う皮は、指を動かすたびにぐねぐねと蠢く。肉と骨とそれと血管、それらが集って何故、こうなるのかわからない。ドクターに聞けば分かるのかもしれないけれど、あの女に会話をしにいくのは面倒だった。わからない。そう思っていたら、男の手が突然、死人のもののように見えて、笑えた。本当に血は通っているのだろうか。生きているのか。こいつは。生きているのか、僕は。生きているのなら死ねもできようが、死んでいるのならどうしようもない。死にたがりが無様なものだ。こいつにキスすることも何か意味があるのか、僕はよくわからなくなった。ただの嫌がらせだろうか。こいつを苦しめたいのか。横恋慕をしてみたいのか。わからない。指から顎、唇を辿って頬、ぴたりと己を見つめる眼球にぶつかる。言葉を失くす。息ができているのか、生きているのか死んでいるのか。「なんだよ」男は、爬虫類を想像させるような眼球でじろり、と自分を見てくる。小さな瞳は麻薬中毒者のようにどんよりと濁っていたけれど、その中には男の意思や感情がしっかりと詰め込まれているようだった。「キスでモしようかト、思っテ」「死んじまうぞ」「死にたいんだ」「ばーか」じぃ、じぃ、と虫の不機嫌そうな叫びが聞こえてきた。狐さんの指定してきた山の中の旅館、その縁側に座っていると、庭がよく見える。植えられているしなやかな幹に、蝉が止まっていた。あと何日生きれるのだろう。あの生き物は。叫び声は空を震わしている。死ぬ前の雄叫び。彼らは今生きている。「死にタい」「お前が死ぬと」男は僕から目をそらして、「狐さんが困るだろ」と言う。そいつは初めてちょっと困ったような顔をした。優しい奴だ。素直で真面目、自分と狐さんに対して。羨ましい生き物。名前を持っている人間。こいつはきっと生きている。でも、僕は分からない。死にたがりの死体かもしれなかった。生きているのか、死んでいるのか。狐さんだって幽霊だ。僕が死んでいても不思議じゃない。聖者にキスを求めるのだっておかしくはない。「実ハ」じぃ、じぃ、と騒ぐ虫がゆっくりと声を小さくして、止まった。遠くの山に反響する虫の合唱だけが残っている。死んだ虫一匹を盛大に送り出しているようだと思った。僕は別に、見送りなんていらない。ただ死ぬことができれば、それでいいんだ。ぽっかりと、この庭を含めて僕らの周辺から音が切り離されたかのように音が鈍くなる。蒼い空に入道雲が上っている。燃やされて煙になったら、あそこまで昇っていけるのだろうか。それは僕の夢だった。僕はどこか行き場が欲しかった。名前の持たない僕に、終着点を教えてほしい。「キミのことがスキなんダ」「・・・・・・・・・うっそだぁ」男はそう一笑したけれど、その、死体のような腕で鼻を擦るその顔は、酷く赤かった。気が無いのならばそんな顔、しなければいいのに。期待させたいのだろうか。そう思ったけれど、少し嬉しかった。高鳴る自分の心臓の音を聞いて、ああ、生きている、僕は生きている。そう思った。キスをして殺してほしい「嘘じゃ、無イよ」お前はキスを許してくれるだろうか。狐さんのことを思って、殺してくれないだろうか。ただ一度でいい、お前とキスしたい。そして僕を今すぐ殺して、僕を送り出してほしい。世界の終わりに、僕は行きたい。
2010/6・14


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