■そして全てはかたちを変えて
最近お前は言い訳してばかりだね、と兎吊木は言った。最近、というのがいつからなのかは知りたくないが、そう言われてすぐ、数年前、あの暴風雨のごとき赤い人類最強と出会ったときのことを思った。あの時、本当に参っていた。まだ若い、未熟な時だった頃の方がまだ強かったと思えるぐらい、あの時は参っていた。連戦連敗、何かにつけて理由をつけて、何もかもから逃げていた気がする。あの時のことを言われているのだろうか、とぼんやりと思うと、兎吊木はソファに深く座り込んだまま、「俺がお前の家に上がりこんでいるといつもだ」と、そう言った。
「今日だって、今だってどうせ、ここが俺の家だから出て行かない、だとか、俺が出て行かないから、こんな状況になってしまっている、とか考えてるんだろ。ほんとお笑い種だよね。ところでお笑い種のぐさ、って俺長らくの間「草」だと思ってたんだが「種」って書くんだよな。なんでぐさ、って言うんだろう。笑いの種、とも言うし。いや、こっちは「たね」か。ふむ、俺はあまり日本語得意じゃないんだが、全国民はこういう謎について説明できるのかね?」
「・・・・・・・・・・・」
もう当たり前の光景になりかけている兎吊木のにやにや笑う顔を正面から睨んで、俺は黙り込む。突然何を言う出すかと思えば、そんなくだらないことか。そもそも、俺が出て行けと言って出て行かないとなれば力ずくで追い出すしかないのだが、この男はまるでバネのように何度追い出しても戻ってくるのだ。ここはお前の家じゃない。俺の家だ。
言い訳、と心の中で復唱する。そんなに言っていただろうか。
だが、確かにそう言われれば頷くしかない。兎吊木が俺の前でふんぞり返って、その上昼間から俺の酒を飲んでいるのがいい証拠だ。昔はもっと俺はこいつに反抗的だったはずなのだが。不思議だ。だが、反抗して反抗して反抗し続けた結果、こうなってしまったのだからしょうがない。しょうがない? いつの間に諦め癖がついたのだろう。
兎吊木が家に押しかけるから力ずくで追い出した。それでも何度も来るから、俺がここから出て行った。数日経って、いい加減帰ったかと思ったら、私物を持ち込んできていて、その上俺のベッドで寝てた。全部放り出して兎吊木もついでに放り出したがやっぱり返ってきた。もはや病気だ。こいつは頭がおかしい。マンションを売り払おうかと思ったが、そこで今更疲れた。ここは俺の家だ。俺が出て行くのはおかしい。だから、こうなってしまった。言い訳?たしかに、言い訳だ。
「もういいじゃないか。面倒くさい。独り者同士仲良くしよう。傷の舐めあいをしようじゃないか。好きな子に振られて傷心で、家族を失くして瀕死状態だ。俺がそういうお前に付け込んできてるってのは分かるよな? でも、このまま死体みたいにぐだぐだ死に続けるなんて世間に悪いと思わないのか? なぁ式岸」
「うるせぇな」
どうしてこいつの口はこうもべらべらと動くのだろう。舌噛んで死んでしまえばいいのに。なんでこんなに嫌いなのに一緒にいるんだろう。意味が分からない。分かりたくも無い。生きるのが辛い。息が苦しい。
「・・・・・・・」
そう、確実に俺は毒されている。この薄汚いハイエナみたいな壊し屋に。この平穏に浸かり始めている。抵抗する気力がどんどん殺がれている。壊されている。力と記憶と、思いの多くが。こんな男に。
兎吊木はグラスのワインを飲み干して、まったく酔っ払った様子もないまま、また注いだ。こいつ、大して美味そうにも飲まない上に酔う様子もないのに、なんで俺の酒を飲んでるんだろうか。ただの俺への嫌がらせだろうか。
「・・・なんでお前酒飲んでるんだ」
「ふむ。そうだな。ヤケ酒という奴かな」
「・・・遅いヤケ酒だな」
「自棄酒と、妬け酒、どっちだと良いと思う?」
「は?」
兎吊木はまるで水のようにそれを胃に流し込み、「死線を失くして自棄になって酒を飲んでいるのか、お前がいつになっても死線や零崎の奴らを忘れないから妬けて酒を飲んでいるのか・・・」としんみりと呟く。
「どっちだと嬉しい?」
意味が分からない。こいつはほんとに日本語に弱い。というか弱すぎる気がする。本当に破壊行為にしか脳味噌を使えないのか。損な人生を送ってきたのだろう。
もう、死線さえ居なくなってしまえば、もうこいつの使いようがない。
まさに、生きる価値がない。
死に体。
それは―――――――俺もか。
人を殺せない殺人鬼。主人が居なければ動けない技術屋。
価値の無い生き物が、ただ生きているだけのものが、二つ。惰性のように続いているだけ。
「・・・・・・・・・・・・・・・どうでもいいな」
吐き捨てるようにそう言うと、兎吊木はふ、と微笑むように口を歪めた。
「別にいいだろ、もう。君はさ、今までずっと人のために生きてきたから、そうなっちゃったんだよ。どこに行ってもどこへいっても、お前はもう人を想って動くことしかできないんだから。もうやめろよ。意地汚い。犬かお前は」
「・・・お前は一体、俺に何が言いたいんだ? 罵りたいのか? 喧嘩を売りたいのか? 死にたいなら手伝ってやらんこともないぜ。腐っても殺人鬼だからな。今だってお前一人殺すの、飯を食うより楽だ」
「嫌だねぇ血気盛んで。この世の中血気盛んと言われて良いのはティーンエイジャの熱血主人公ぐらいだぜ? お前はどっちでもないし、もう今更遅いだろ。お前が殺せる人間なんて、本当に世界探しても俺ぐらいだ」
「だからお前、死にたいのか?」
「いいや」
珍しく、きっぱりと、兎吊木は短く答えた。ボトルの中にはもうワインは無いらしく、別に美味いわけでもないはずなのに、グラスに最後の一滴まで零して、それを一気に呷った。アルコール中毒でそのまま死ね、と心の中で祈る。しかし神に祈りは通じず、兎吊木はのんべんだらりとグラスをテーブルに置いて、ソファにごろりと寝転がる。くつろぎすぎだ。
「寂しいんだろ? 式岸は」
「・・・・・・・・・・ほお。見解を聞こう」
「だってお前、寂しいから零崎に入ったんだろ? 笑って死ぬために零崎に入ったんだろ? 寂しいから家族を作って、物足りないから彼女に恋したんだろ? 大事なものと、大切なものと、必要不可欠だったものが無くなって、今寂しくないわけがないもんな。だからお前は俺を追い出せないし、だからお前はここから出て行けないんだろ? 独りはもう嫌だから、出て行けないんだろ」
ソファに寝転がったまま、兎吊木は言った。その言葉は澱みなく兎吊木から零れて、そのまま俺に染みていく。言葉を無くしてそれを聞いた。
「俺は寂しいよ」
「・・・・・・」
「お前がいなくなったら生きていけない」
それは流石に嘘だと見切った。死線の、あの日の「ぐっちゃんは私の一番大切な人で、一番役にたつ子だよ」という言葉が、一欠けらも意味を持たない嘘だと分かるぐらい、明白な嘘だった。それでも、まだ俺は立ち上がれない。寝転がる兎吊木を目の前にして、向かいのソファに腰掛けたまま、まだ、立ち上がれない。くだらないと言い放ち、この男の無防備な腹に蹴りでも食らわせて、今すぐこの部屋から出て行くべきなのに。
「俺は式岸が好きだよ。俺のことを全然信じてないくせに、俺のことを殺せない上に、俺の全てを否定することもできない、優しくて馬鹿なお前が大好きだ」
「お、おれは」
思わずたじろぐ。愛されるのは苦手だ。好意を向けられるのも苦手だ。かつて家族に指摘された言葉が、そのとおり俺の頭を抉る。愛されるのに臆病で、嫌われるのが辛い。
「おれは、おまえが、きらいだ」
「知ってるよ。別にお前に愛されたい訳じゃなくて、俺がお前を愛したいだけだ。勿論お前に愛されるのはやぶさかじゃないけど、そこまで贅沢は言わない。ただこれだけは宣言させてくれ。お前にこれからどんなことがあろうと、お前のことを微塵も残さず徹底的に壊しつくして良いのは、俺だと」
兎吊木はそう飄々と嘯いて、本格的に眠る気なのかサングラスを取った。
「俺だけだと」
くだらない。くだらない言葉、くだらない応酬、くだらない嘘。舌先三寸口八丁、かの戯言遣いだって真っ青の、まるで信じられない嘘の羅列。本当は、俺はすぐにこいつを殴り倒して家から放り出すべきだった。いや、最も正しいのは、かつての如くこいつを簡単に殺して、秘密裏にこの世から消すべきだ。
だが、それができない。俺はソファに座り込んだまま、黙って眠る兎吊木を見た。静かな呼吸を耳で感じながら、こいつが起きてからのことを考えた。こいつが起きたら、まずここから出て行くことを促して、それでも出て行かないこいつの我侭を聞いて飯を作り、そして今までのようにくだらない一日を過ごす。全て想像通りに進んでしまう。この会話もまた、あっという間に記憶の波に攫われていく。美しく優しい、かつての愛した家族達と過ごした日々、あの美しい少女に恋をしたあの日のことも、気が付けば無くしてしまう。それでも今はそれが怖くなかった。寂しくなかった。それは何故か、なんて、知りたくもないし、考えたくも無かった。
2010/2・14