■ララバイの聴こえなくなった頃
 
 
 
「素晴らしかったよ」
 挨拶も自己紹介もすっ飛ばしてやってきた賞賛の言葉に大して驚きもせず、曲識は一度振り向いてそこにいた男を見た。そこにいた男は線の細いどう見てもアウトドア派とは言えないタイプの優男、と言ったふうで、女顔なのに無精髭を生やしているなんとも不自然な男だった。薄いグリーンのサングラスの向こうから、曲識を舐め回すような視線が奔る。そんなことに特に興味も持たず、曲識は続いて目の前に差し出された男の手を見た。男の手とは思えない華奢な手だった。といっても指は長く、その手も白い手袋に覆われている。
「ありがとうございます」
 曲識はそう言って、さり気なく手を無視した。曲識は兄から甘えん坊、などと称されるほど他人との繋がりに重きを置く子供だったが、初対面の人にはやたらと警戒心が強かった。それが怪しい男であればなおさらだ。男は上下共に白いスーツを着ていて、それが男の白髪と合わされているようで中途半端な帳合が取れている、気もしないでもない。だが男の胡散臭い雰囲気に拍車をかけているのは確かだった。
 ただの気まぐれで応募した少年少女の演奏会への切符を簡単に手に入れ、曲識は双識には内緒でこの場へ来ていた。軋識に送られてきたので、恐らく既に彼はこの会場の駐車場で煙草でもふかしながらぼんやり曲識を待っているのだろう。弟の演奏会などに来ない人だ。家で聞いた方がいい、という単純思考なのだ。
 第23回少年少女総合音楽会と言われるこの大会は、審査員に有名な音楽学校の教師が見に来るようなしっかりとした大会だ。ここで発表し、良い評価をもらえると、将来名門の音楽学校へ推薦してもられることがある。そのため、この大会の門は狭い。遊び感覚で応募して、あっさり入れてしまった曲識は、心の中では後悔していた。曲識は勿論学校なんて場所には入れない。少女しか殺さないという意思を掲げているが、彼は正真正銘の殺人鬼なのだ。何が起こるか分からないし、何をしてしまうかも分からない。だからこそ彼はこのお遊びを終えたらさっさと帰る予定だった。だからこそ、周りの少女を殺したいという欲求を押さえ込み、話しかけるなオーラを発しながら、さっさと愛用のヴァイオリンをケースに閉まっていたところだった。
 それに特に気にした様子も無く声を掛けてきた男に、内心、曲識はどう接するべきか本当に迷っていた。困った。こういう時こそ、堂々と「しかし、悪くない」と嘯いてこそ一人前なのだが、曲識はそれが言えない。殺人鬼の本能、というか人間センサーが、目の前の男は危険だ、と全力で反応しているのだ。
「君の弾いた曲、俺は聴いた事無いんだが、あれ、もしかして自分で作曲したのかい?」
「はい。僕が自分で作った曲です」
「ますます凄いな。良い曲だった。思わず鳥肌が立ってしまったよ」
「ありがとうございます」
 曲識の曲を聞いて鳥肌が立つのは当たり前だ。流石に意識までを操ることをしないように少し改変しているが、それは全て曲識が交戦のために作った曲だ。本当ならば会場内にいる人間全てを殺すこともできる曲なのだが、今回はその脳髄に微かに震えを起こす程度で押さえ込まれている。体の弱い人間ならば気絶してしまうこともあるのだが、今回、幸いにもそういうことは無かったらしい。そんなことがあったら確実に曲識はこんなにのんびりと帰り支度なんてできないだろう。
 男はにやにやと笑いながら曲識をじろじろと値踏みする。曲識は一応の礼儀として黙ってその場に立っていたが、家族が待っているのでおいとまします、といって退散しようかと思い始めた。と、同時に男はふふふ、と女のような声で笑った。
「何か?」
「いや、本当に凄い曲だったよ。まるで脳髄に直接叩き込まれるかのような感覚だった。ただ今日は可愛い女の子や可愛い男の子を見るために来たんだが、良い見つけ物をした」
 男の言葉には一抹の不安を抱くに十分な意味を持っていたが、曲識は自分に与えられた二つ名を思い出してその動揺を隠し切った。この時代、ペドフィリアは珍しくない。変態なんて腐るほどいるのだ。
「・・・すみません。家族が迎えに来ているので、僕はそろそろ帰ります」
「おっと。そうだね。じゃあ出口まで送ろう」
 何故か、男はそう言って曲識を促した。ぽかん、と見上げて、曲識はようやく歩き出した。初めて出会った人間に対して、人はこんなにも馴れ馴れしいものなのだろうか? 同世代の子供相手ならまだしも、初対面の子供に? 気に入った―――ということだろうか。ペドフィリア、という可能性が高いが、こんなにも人間の多い場所で、こんなにも堂々、子供について回るか? しかもその親である存在に会う可能性まであるというのに? ぐるぐるぐる、と曲識の頭を様々な憶測が飛び交う。男はにやにやと笑いながらのんびりと曲識の後をついてまわる。曲識をじっと見ているかといえばそう言うわけでもなく、周りにいる少年少女を満遍なくじろじろと観察しているふうだった。
 出場者用控え室の並ぶ廊下を出て、エントランスホールへ出る。名門学校の教師に声をかけられて緊張している親と子供が溢れかえっている。その中をすごすごと帰っていく子供と大人。その列に紛れ込んで、曲識も外へ出た。
「あ、君―――」
 その時、一人の男性が曲識に向けて手を伸ばした。曲識はそれに気づいたが、それに知らない振りをして駐車場へ向かう。人ごみに遮られて、その間に男性は曲識を呼び止めるために走ってきた。
「おっと、失礼」
 失敗したことにどうやら声をかけられてしまいそうだ、と曲識が内心げんなりしていると、やってきた男性を曲識の背後をついてまわっていたサングラスの男が止めた。それは本当に短い、数秒にしかならない時間だった。失礼、後方注意だった、とサングラスの男が言い、ぶつかりかけた男性が頭を下げる。すみません、急いでおりまして、と困った声が上げられる。
 曲識はその間にするりと人ごみを抜けて、駐車場の方へ逃走した。邪魔だった男だったが役に立った。そこでようやく、何か歌を歌って操ればよかったのだと、そんな初歩的ことに気づいた。
 人ごみを抜けるとそこからはあっという間で、すぐに人気の無い場所に到達した。左右を確認し、軋識の車を探す。と、いつの間にか背後には先ほどのサングラスの男がぴったりとついて来ていた。
「親御さんは?」
「・・・・・・・・・ふぅ」
 思わず溜息を吐いてしまう。面倒くさい。人気も無いし、歌を歌って気絶させてしまおうか。今度こそ。
 曲識がそう思うと、視界の端に軋識を見つけた。麦藁帽子は被っていない。まるでどこかで土木関係の仕事でもする人のようだ。一応ジャケットを着ているが、それでも肌寒そうだ。
「―――――、ま、・・・・・・・・・・お前」
 軋識は曲識を見つけ、さっさと来いと呼びかけようとした直後、その家族の背後に立った男を見て顔を引き攣らせた。足を止めるかと思うと、ずかずかと近寄ってきて、曲識の手からヴァイオリンのケースを取り、もう片方の手に曲識の手を取り、自らの方に引き寄せる。この人の動作にしては珍しい行為だった。彼は家族思いの癖に人にはあまり近寄らない。曲識が驚いていると、サングラスの男が今までのにやにや笑いがまるで無表情だったとしか思えないぐらい、にんまりと、本当に楽しそうに笑って見せた。
「・・・なんでてめぇがここに居るんだ」
「ふふ、ふふふ、なんで?少女と少年のためなら俺だって外出ぐらいするさ」
 酷い台詞だったがそれが嘘とは思えない説得力があった。軋識はそーかよ、と舌打ちでもしそうなほど顔を顰め、強引に曲識を引き連れて車に戻ろうとする。
「お前の弟かい?それとも子供?」
「くたばれ」
 サングラスの男にそう吐き捨てて、軋識は振り向かないまま歩きさっていってしまう。曲識は軋識さんがこんなに嫌うってことはつまり僕の敵か、などということを考えながら、最後にちょっとだけ振り返った。サングラスの男は軋識の背をにやにや笑いながら見つめているかと思うと、曲識の視線に気づき、またね、と言って片手を振った。曲識は片手こそ空いていたが、手を振る気がまったく起きず、ただぼーっと男を見た。その代わり、軋識の掌をぎゅう、と握り、やっぱりあれはやばい男だ、と脳に刻み付けたのだった。
2010/2・11


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