■相乗りお断り
電車のがたがたと騒がしい音が段々と気にならなくなってきた頃、僕はふと思い出して、丁度持ってきていた文庫本を開いた。久しぶりの電車だからということで直さんに借りたものだ。僕がまったく知らないドイツの戯作者が書いたミステリものだったけれど、たまにはこういうのも良いか、と思って、結構じっくり読んでいるものだ。
郊外へ出ている電車に人は少ない。しかも時間帯は丁度昼飯時で、乗ってる人なんて2車両合わせて両手で数えられるぐらいだ。向かい合うタイプの座席に一人座って本を読んでいると、まるで僕一人だけ、どこか居世界にでも連れ出されたような気になった。銀河鉄道にでも乗っている気分、とでもいうべきかもしれない。でもそこまでロマンチックなわけでもないし、その上暴露すると僕は銀河鉄道がどんな話かも知らない。乗ってる人の名前がやけに洒落ていたということぐらいだ。
僕が降りるべき駅は丁度この電車の終点だったので、いっそ寝てしまっても良かったのだけれど、僕は相変わらず人に寝顔を見られるのが嫌いだ。最近、ふとしたことであいつに見られるようになったが、その他の人間が周りにいると、どうにも眠れない。終点まではそれなりに長かったので、もしかしたら本を読み終えてしまうかもしれない、とも思った。一人でエイトクイーンでもしててもいいかな、とも思ったが、いかんせん今はそこまで頭が働かない。徹夜でお仕事だったのだ。あの人類最強の請負人までとはいかないが、それなりに波乱万丈、まさにファンタスティック、そしてセンシティブだった。・・・まぁ、そこまで言うものではなかったけれども。
久しぶりに滅茶苦茶に走ったので足腰も痛い。まさに生きているって感じだ。痛みを感じて自分が生きてるって実感するなんて、こんなこと言ったら相当マゾヒストだと笑われかねないが、おそらく腹きりマゾなんてあだ名が再発することはきっとないだろうから、黙っておこう。どうやら僕がマゾヒストだという事実は周りは百も承知らしいので、それならそう遊んでくれて構わない。みいこさんに詰られるのは結構好きだ。
そうこうしているうちに、次の駅に止まった。速度が段々遅くなり、ついに停車する。扉が開く音がして、数人が出て行き、そしてまた数人が乗ってきた。僕はそっちを確認もせず、黙って文庫を淡々と読みふける。まぁ頭の中はこうやって一人ごとを喋るのに勤しんでいるので、ミステリ小説だろうが推理をする気はまったくない。僕はこういうものの謎解きはすべて探偵に任せることにしていた。
「よオ」
ページを捲り、ただひたすらに細かい活字を目で追っていると、そう、無愛想に僕に掛けられる片言交じりの声があった。僕はそのまま読み続けようとしていたが、狭いその向かい合う席の斜め向かいに誰かが座ったので、思わず顔を上げた。こんなにがらがらな席なのに、わざわざどうしてこんなボックス席に座ってこようとするのかと不思議がりながら。
「久シぶりだな、いーちゃん」
「・・・・・・・うん?」
眼鏡をかけて、大きなヘッドホンをつけた少年、いや、青年と言うべきか、そんな曖昧な年齢に見える男が、僕をじっと見ながら淡々と言って来る。僕はその顔をまじまじと見ながら、一度息を詰めた。
・・・・・・・・・・・・・誰だっけこの人・・・。
名前を知ってるってことは、きっと友人か何か、なのだろうか。僕よりも年下に見えるけれど、ただ童顔だってこともありえるかもしれない。でも、見るからに僕より背は低そうだし、声も不思議と高い。
僕がぼんやりと彼を見ていると、そいつがにやっと一度笑って、「忘れたんだロ、いーちゃん」と喋った。なんだかロボットみたいな奴だな・・・。
「・・・まぁ、はい、そうです」
「何ダ、別に敬語なんて使ウ必要なイだろ、いーちゃん。ボクらはそもそも敵同士だっタじゃないカ」
「・・・敵?」
敵、っていうと・・・・・・・・狐さんの仲間、だろうか。だが、実を言うと、僕はすでにあの十三階段の半分ぐらい、忘れていた。
だってあの人ころころ名称変えてメンバー変えて僕と敵対しようとしてくるんだからさ・・・。
今だ僕が難しい顔をしていると、あっは、とそいつは笑った。
「別に忘れてテもいいヨ。いーちゃん。ボクだって予想外な退場の仕方だったかラね、印象が薄くったってしょうがなイさ。名前だって、ボクにとっちゃあっテないよウなもんだしネ」
「はぁ・・・」
一々会話が疲れる奴だ・・・。どこぞの逆さ喋りの忍者よりはマシだが、これタイピング疲れるぞ・・・?
「じゃあ、なんの用なんだ?」
「用はないヨ。適当に乗った電車にあんタが丁度乗ってたダケだ。適当に降りるヨ」
じゃあ何でここに座ってきたんだ・・・。
僕はそう突っ込みたくなる衝動を抑え、ふぅん、と頷く。よく分からない奴だ。
――――――――――・・・苦手な奴だ。
「おイおイ、そう剣呑な顔しないデくれよ。もう、別に、戦争だって―――してなイんだから、さァ―――」
「じゃあどうして、ここに座ってきたんですか。僕に何か――――恨みでも」
そいつは、ふっと鼻で僕の言ったことを冷笑した。
「なイよ。僕は何モ恨まない。憎まナい。だから僕はなんでモない。だから、死二たい」
「・・・・・・・・」
「これでもまダ思い出さなイのかい。重症だねぇ」
呆れた声を上げて、彼は肩を竦め、溜息を吐く。そんなこと言われたって仕方ない。僕は黙って、彼を見た。
「次で降りルよ。でモ、適当に乗った電車で会ウなんて―――ほんト、運命的だよネ――――」
ああ、もしかしたら。と、彼はそう片言で呟いて、にやりと一度意地悪そうに笑った。
「あの日、あの学園で会えなかったボクらの、あの時の結果ガ――――『今会うべくして会った』なノ、かな――――」
狐さん曰く、ネ―――。
そう言って、彼はゆっくりと立ち上がった。もう次の駅だった。アナウンスが鳴って、電車がゆっくりになる。彼は何も言わずにただ扉へと向かって行って、そして電車が止まり、扉が開き、そして――――何事も無かったかのように出て行った。
そしてまた、入れ違いに誰かが入ってきて、そしてまた誰かが出て行く。アナウンスが鳴り、汽笛が鳴らされ、そして、動き出す。
僕はしばらく扉を見て、そして彼のことを思い出したというのに、未だに彼の名前が分からないことに気がついた。結局諦め、視線を本に戻す。ここまで考えて出てこないのなら――――きっと一生出てこないに違いない。そしてどうせ帰ったら、『何か面白いことあった?』と聞いてくるあいつに、『いや、凄かったぜ。ロマンチックでファンタスティックでメロドラマのような仕事だった』と、いつものように嘘をつくんだろう。
流れる川の浅瀬に、たまたま引っかかった、さっきの彼のようなもの、すぐに忘れてしまって――――。
2009/7・27