■言葉はいらない
「トキ」
家族から慣れ親しまれた徒名で呼ばれ、己の奏でるヴィオラの音に集中していた曲識は突然現実に意識を引き戻された。弦が名残惜しげにきぃ、と冷たい音を立て、室内に鳴り響いていたその音が一気に静寂へと叩き落される。
一瞬にて温度を無くしたかと錯覚するような空気に包まれて、緩やかに曲識は声のした方向へと顔を向けた。
案の定、扉を開けてこちらを伺っていた双識は、似合わない眼鏡の奥で柔らかく微笑み、「君にあげたいものがあるんだ!」とはしゃぐ子供のように笑った。
「演奏の邪魔をしてごめんよ。すぐに知らせたかったものだからね」
「いや、気にするな。2時になったら休もうと思っていた所だったからな・・・悪くない」
双識はそう言われて、導かれるように部屋に設置された時計へと視線を移した。後10分といった所で2時丁度になるところだ。10分を長いか短いかと言われれば首を傾げる所だが、曲識は双識が動きを止めている間に素早く楽器をケースへと仕舞っていく。
「それで、何の用だ?」
「ああ、そうそう。早く来てくれ。アスや人識も待ってる」
何故待つ必要があるのだろうか?遠くへ出かけている家族からの土産ものが来ていたりするのだろうか?などと首を傾げる曲識をにこやかに見つめ、双識はさぁさぁと扉を開けて曲識を急かした。
リビングに置かれていたその巨大な物体は確実に曲識という音使いから、完璧に音を無くすことに成功する。
縦二m弱、横幅一m強、水平型の奇妙に歪んだその黒い、いわばグランドピアノと言われるそれは、零崎が所有するマンションのリビングに当たる室内にて異様な雰囲気を醸し出させていた。椅子と共におそらく大型メーカーのものとされるその楽器は、重々たる質量をもって曲識の前に存在している。
「・・・・っ、これは・・・・・・・」
「トキ、誕生日おめでとう」
にこやかに背後で囁いてくる双識は心の底から家族の誕生日を祝っているようで、恐らく室内で待機していた軋識と人識が止めなければカラフルな帽子を被ってクラッカーでも鳴らしそうな勢いに楽しそうだ。その軋識と人識はやはりやってきたグランドピアノを興味深く見つめていて、そしてやってきた曲識に気がつくとそれぞれ祝福の言葉を投げかけた。
「誕生日おめでとうっちゃ」
「誕生日おめでとう、曲識さん」
あまりそういう機会がないせいか、二人の言葉はどこかぎこちない。しかしそんな二人の様子にも気がつかず、曲識は口をぽかんと開けて、やっと搾り出すかのような声で「・・・あ、ありがとう?」と零した。
「で、これが誕生日プレゼントだよ。零崎の皆に連絡をとってね、皆でお金を出し合って買ったんだ。凄いよねぇ」
「すげぇ高かったから俺今一文無しになっちまったしな。かはは」
「だから放浪癖のある人識が珍しくここに来てるっちゃ。・・・飯をたかりにっちゃ」
「うっせ。大将みてぇにブルジョワじゃねぇんだよ」
いつものように会話する軋識と人識の言葉を聞いているのかいないのか、曲識はふらふらとそのグランドピアノへと近づいた。
光を反射してつやつやと光るピアノには一切傷は無く、艶やかな漆黒が輝いている。つ、と触れてみれば、ひやりと冷たく、夢心地の曲識の脳を覚醒させるには十分だった。
「っ・・・・・・!」
何を言えばいいのか口をぱくぱくする曲識の動きが滑稽だったのか、にやにやと軋識と人識が笑う。双識もどこか満足そうに笑って、曲識の言葉を待った。
「っ、・・・・・っ!なっ、何を、言えばいいか・・・・・・・・・・」
いつも冷静な曲識が取り乱すのが珍しく、くつくつと軋識が肩を震わした。それを見て顔を赤くして、曲識は微かに震えながらゆっくりと口を閉ざす。
「ありがとう・・・ありがとう、みんな・・・・・・・・・」
途端、ぼろりと曲識の両目から透明な水滴が溢れた。ぱたぱたとフローリングを濡らすそれに思わず曲識以外の全員が絶句した。曲識が泣いたところを一度も見たことがなかったので、それこそどう反応すればいいのかと全員が混乱する。
曲識は突然現れたそのピアノの上に乗ってある鍵に目をとめ、鍵盤を隠している蓋の真上にある鍵穴へと差込み、かちりと開けた。
ゆっくりと蓋を開ければ、一度も触っていないせいで艶やかに光る白鍵と黒鍵がずらりと並んでおり、曲識は徐にその指をそろりと鍵盤へと落とした。
ぽぉん、と伸びやかな音で室内に響く音に幸せそうに笑みを零し、曲識は己を見守る家族達へと心の底から感謝の言葉を述べる。
「ありがとう、本当に、・・・・・なんていえばいいのか、全然、まったく分からないけれど―――――凄く嬉しい」
やっとそう断言した曲識へ、どういたしまして、と同じく笑って返し、そして今度はピアノから零れる音楽が室内を満たした。
今度は途中で横槍を入れる人間はおらず、ただ一人の音楽家が楽しげに弾き続ける音の連なりがゆっくりと伸びやかに室内へと響き続ける。
反響板も上げることを忘れて演奏にふける音楽家を困ったような、しかしそれでいて曲識らしい、と肩を竦めた3人は、とりあえず冷蔵庫の中のケーキを食べるのは夕方かな、と察し、沈黙したままその音楽に聞き惚れることにした。
2008/1・20