(10)
手は後ろ手に縛られていた。
足は言わずもがな無いのでどうすることもできない。
「目だけは相も変わらず威勢が良いな」
狐は一人で酒を飲みながら俺と対峙していた。
あの白い着物から肌蹴ている白い肌を赤く染まらせてやりたかった。
殺したい。殺したい。殺したい。家族を殺したこいつが憎い。
「お前の家族には悪いことをしたな。何、一人殺すと沢山湧いて出るもんだから困ったぜ。何回か刃物がすぐ横通り過ぎて行ったしな」
「死ね」
「別に俺が殺したわけじゃない。分かるとおりあの橙色の可愛い子狐だよ。だからなぁおい。何か食べたらどうだ?二日も何も食ってないらしいじゃないか。食わないと俺も殺せないだろ」
「ざけんじゃねぇよ俺に何が残った!?てめぇへの殺意と憎悪と怨恨とこの心臓と両手だけだっつーの!死ね!てめぇは死ね!殺すぞ!零崎は終わってねぇんだよ!!」
「いいや終わってる」
狐は言った。
俺は、息ができなくなった。
「あっ、・・・・・ぁ、なっ」
「悪あがきは止めろよ式岸軋騎。なぁおい」
狐はゆっくりと立ちあがり、俺に歩み寄ってきた。
一歩、二歩、三歩、と、酷く歩みは鈍い。
手にはちゃちなバタフライナイフが収まっていた。
ゆっくりとこっちにナイフが向けられる。
「お前は凶器を持った俺を殺せないぜ」
狐は言った。俺は目の前が真っ暗になった。
ただ死にたくなった。
どうして、許されたいの?
誰かが言った。愛しい声だ。しかし、俺には誰だかわからなかった。
息がつまった。誰かが俺を殺してくれる日を待ちわびるようになった。
嫌な夢を見た。
鈍痛が走る腰に顔を歪めながら隣に眠る奴を見る。
気持ちよさそうに俺を抱きしめていた。顔が近い。
どうして、俺はこいつに言われるままにこのマンションに来てしまったのか。
忘れかけていた。
たしか、俺は、こいつに殺されに来たんだ。
何故忘れていたのだろうか。
零崎が、殺意が、消えかけてきている。「零崎軋識」が死に掛けている。
人を見るたびに殺すことをあまり考えなくなった。
零崎のころの記憶がどんどん薄れてきていた。
手に掛かる重い感触や、血の匂いが、濁り、淀んで霧散していく。
「(軽多重人格者だったのか?俺・・・。)」
どっと疲れがこみ上げてきていた。今のところまともな生活をしていない。
そっと兎吊木の首に手を掛けた。ゆっくりと頚動脈に人差し指と中指を伝わせる。
「なぁ、俺はてめぇとこのまま居たら、どうなっちまうんだろうな」
呟いてみたが、寝たままだった。
溜息を吐いて腕を解かせようと身を捩る。
とりあえず裸に白衣やら着させようとする変態にほだされてきているなんて冗談じゃねぇよ。
(11)
起きたらこの世のものと言えない位に睨まれた。
えっ、俺何かしたっけ?
「機嫌悪い?」
「とりあえず服を変えさせろ」
妙に威圧感があった。何怒ってるのこの子!
「いや、だってお前が好きな服ー――」
「黙れ。ぐだぐだくっちゃべってないでさっさと替えの服用意しろ」
「すみませんでした」
怖いよ!
急かされながらシャツとハーフパンツを用意する。ちゃんとあるなんて用意周到だ。
着替えさせ終わると、式岸は最初に来た時のように蔑んだ目でこっちを見た。
ぞわりと鳥肌が立つ。
あ、キスしたいな。
ゆっくりと体を近づけさせてキスを仕掛けてみた。
すると式岸はすばやく、俺の首を掴んだ。力が込められる。
驚いて彼の顔を凝視する。
それをじっと見ていた。赤い眼が揺れていた。
「何で、そんな怯えた顔してるのかな」
「殺さないのか」
式岸はぽつりと言った。
「このままだと、てめぇを殺す」
「そんな力じゃ人は死なないぜ?分かるだろ?元殺人鬼」
がっ、と頭を拳が直撃した。痛い。
気にでも障ったか、式岸はそのままベッドに俺を押し倒してがんがんと殴り続けた。
痛々しい音が部屋に響く。え、DV?いや、そうじゃない。
「式岸、大丈夫か?」
俺は問うてみた。
彼の力はこんなにも弱弱しかっただろうか?
(12)
近頃、毎日のように夢を見る。
人を、殺す、夢だ。
人が、死ぬ、夢。
夢の中で俺は一人殺しては泣き叫んでいた。
殺したくないと、泣いていた。
目が覚めると大量の汗がシャツを濡らしてていつも気持ちが悪い。
そして今日、ついに抵抗ができなかった。
いつも兎吊木と取っ組み合いになれば、俺が腕を捻り上げたりしてベッドから落とす。
今日あいつは、まるで赤子の手でも捻るかのように俺を捻じ伏せて、
緩やかに蹂躙した。
「どうかしたのかな」
「俺が、聞きたい」
ぐだぐだと惰性のように同じ問答が続く。
窓の外を睨んでいると、切断された足に触れられた。
「―っ、触るな!」
殴りつけようとした手はぱしりと軽い音を立てて、兎吊木の手の内に収まった。
息が、吐けなくなる。
「式岸軋騎」
呪いのように、兎吊木が静かに言った。
俺は――――――、
救いを求める対象は、俺達の支配者は、
もうすでに目すら届かないところに行っていた。
暴君。
呼べない名前は、兎吊木の口の中に吸い込まれる。
(13)
あれから何日たったのだろうか。
日にちが曖昧になってきていた。
ただ、気だるい時間がだらだらと続く。
久しぶりにパソコンを開いてメールをチェックした。
飼育係から一通メールが届いていた。
何か馬鹿にでもしにきたのだろうかと思って開く。
そこには只、滅多に使わない日本語が一言だけ綴ってあった。
俺はすぐさま兎吊木を呼んだ。
久しぶりに出した大声が脳を覚醒させる。
俺はその時、何がしたかったんだろう?
死線の蒼は天才であることをやめた。
(14)
白い廊下に黒い椅子。
彼が。
蒼色の愛した少年が。
じっと身を潜めて座っていた。
その瞬間、湧き上がった感情は憎悪だったのだろうか?
かつて死んだ目をしていると言われていた少年は、予想していたよりも遥かに生気を宿した目で俺を見た。
誰だろうかと眉を顰めるのが見て取れる。
「戯言遣いの、小僧だろう」
少年はゆっくりと立ち上がり、俺を正面から見た。
「友は」
そいつはそう言って切り出した。
ぎっと俺が乗っていた車椅子が軋む音を立てる。
廊下の奥、赤いランプがぼうと照っていた。
彼女は本当に後悔はしないのだろうか。
俺は自分が救われたいがために、ありえない予想に心の隅で縋る。
(15)
戯言遣いとの会話を終え、手術室に入れないので帰ろうと思った。
体を反転させた俺に戯言遣いが切羽詰った声で引き止める。
「式岸さん、ぼくは」
「暴君が決めたことに、俺達代理品程度が口を出して良いもんじゃねぇよ」
首だけで後ろを見ると、憔悴しきった戯言遣いがなんともいえない顔で立っていた。
おそらく暴君が手術室に入ってからここを動いていないのだろう。何も食っていないように見えた。
「少し、寝たほうが良い」
「さっき、式岸さんが来る前に統乃さんがきていたんですけれど」
「何か言われたのか?」
戯言遣いは顔を顰めて見せた。「何か、っていうか」と口篭る。
「女性に胸倉つかまれたのは久しぶりで」
「気にするな。誰も予想してなかったことだったから皆取り乱してるだけだ。お前が決めたことなんだから、お前が慌ててどうする」
「やっぱり」
戯言遣いと目が合う。戯言遣いは嘘を言わない。
「友が、死線の蒼でなくなることは、貴方達にとっちゃやっぱり許しがたいことですよね」
「まぁ、そうだな」
盗み聞きしていたであろう兎吊木が廊下の曲がり角からのろのろとやってきた。
「この世界から、神様が居なくなるようなもんだ」
神を殺した少年を前に、軋識はゆっくりと微笑んでやった。
(16)
牢獄にまた、戻ってきた。
匂いの無い空間には物音一つとして立たない。
車椅子から担がれたと思うと兎吊木は無言で自分のベッドに俺を連れて行って、ベッドに倒させた。
「もう抵抗しないね」
「今更だ」
衣服を脱がされていく。抵抗なんてしてもしなくても同じようなもんなので、ただそれを黙ってみていた。
「多分、今日は酷くするぜ」
動きと声音は酷く優しいものなのに、奴はそう嘯いた。
「勝手にしろよ」
投げやりに言ってやるとにこりと兎吊木は笑った。目尻に涙が溜まっていた。
「気持ち悪い」
「ああ・・・・・畜生。死線が死んじまう」
「そういう事を、口に出すな」
俺は溜息を吐いて、兎吊木の髪を撫ぜてやる。
腕をつかまれて噛み付かれた。
その痛みよりも、心臓の方が痛かった。
「(俺も泣きたい・・・)」
その日、神様が死んだ。
最終話
目が覚めると、隣に兎吊木が死んでいた。
ように眠っていた。
時計を見ると夜中の三時だった。
ただ体が気だるくて、うっとおしいじめじめした空気に吐き気を催す。
不完全なこの体は、不自由になる彼女に似ている気がした。
あの、少年は、きっと生きようとしていたのだ。
俺達が取らなかった選択をもってして。
彼女と共に生きてくれるつもりだったのだろう。
少年は、彼女が好きなのだ。
彼女が、少年を好きだったかのように。
「(ああ・・・本当に、俺らは臆病だったのだなぁと再認識させる)」
結局、彼女に一番最初に救いの手を差し伸べたのは、一番最初に彼女の手を振り払った彼だったのだ。
俺達は彼女が愛しいだけで、彼女を救おうと、あの死線を越えなかったのだ。
俺達は、だって、とても愚かなぐらいに、
「(人間だったのだから)」
そっと隣で深く泥のように眠る兎吊木を見た。
俺を、捕まえて離してくれない、嫌な人間。
「お前が好きだ」
初めての告白は、初めて好きになった人間には届かなかったけれど。
その時二人は幸せになれたのだと、思えた。