■いいこわるいこ
「帰ってこないね」
部屋の壁にかけられている時計を仰いで、フェンが呟く。情報収集に行くと言って出かけて行ったテオがまだ帰ってこないのだ。機械技術の発達しているこの国には、時計という、流れる時間を目で測れる機会がある。数字で2と書かれている所を示していた短い針は、既に丁度真下へ向いていた。窓から見える外は暗い。
「じゃあ、飯食いに行こうか?」
サチはごろりと寝転がった状態から半身を起こし、ベッドの上に座り込んだ。テオが外出する前に、遠出する予定だから帰りが遅かったら2人で夕食を済ませろ、と言っていたのだ。
フェンはテオを放置してどこかに行くのが億劫で、返答に困った。もしも街に出かけた後に、テオが一人で戻ってきたら。なんだか裏切り行為に手を染めたような気がしてならないのだ。
「行きたくないか」
「うん・・・すれ違ったら、なんだか、いやだ」
どうやらサチも同じ気持ちだったらしく、「だよなぁ」と肩を竦めながら言った。寄せ集めの、なんとなくで揃ってしまった三人組だが、何故か離れるということに関していい気持ちになれない。友人だから、という理由もあるだろうが、なんとなく、誰かが居なければ落ち着かない親しさまで及んでいた。
「ルームサービスとか、無いのかね?」
サチは億劫そうに立ち上がり、今泊まっている宿屋のフロントへ向かった。部屋から出ていくサチの背を途中まで見送り、その行き先を知って慌てて立ち上がる。「いいよ、すぐ戻ってくるから」サチはひらひらと手を振って扉の向こうへ姿を消した。ぱたん、と軽い扉の閉まる音がして、立ち上がったばかりの格好でフェンはしばらく動かなかった。そのまま、すとん、と再び椅子の上に腰を下ろし、フェンは窓の外へと視線を這わす。木々の隙間から覗く空は、月光を反射して淡い藍色に揺らめく雲しか見えない。明日は雨だろうか。
窓の隙間から入り込んだ冷たい空気に唇を震わせ、ランプの炎が揺らめいたのに気づいて、フェンは窓に歩み寄った。かたかたと震える窓のサッシが、戸とかみ合わずに音を立てている。入り込んだ風がひゅうひゅうと下手な口笛のように鳴っていた。
フェンはしっかりと閉じることのできない上の窓に体重をかけて、無理やり引き降ろした。ばちん、と大きな音を立てて、ようやく閉まる。無音になった室内で、ふう、と一旦溜息を吐いて、カーテンを閉めた。
本格的にやることがなくなってしまった。フェンは階下に下りてサチの手伝いをしようかと思ったが、二人でルームサービスを頼むなんて、もしもそんなのを取り扱っていない宿にとってはまるで脅迫だろう。フェンはその事実にたどり着くと、再び椅子へと腰を降ろした。冷たい木の椅子の上に乗っているクッションがやけに分厚く、フェンは自分の体が浮くのを感じた。
「フェンー、開けてくれー」
突然、扉の向こうから間延びした声がして、フェンは慌てて扉へと駆け寄り、そのドアノブを掴んで捻り、内側へひっぱった。両手にトレイを持ったサチが、「ありがとう」と笑っていた。
「ほら」
片方のトレイをフェンへと渡しながら、サチは室内に滑り込んでくる。足で扉を閉めて、簡単に鍵を閉める。平べったい皿の上から立ち上る湯気をぼんやりと見ながら、フェンは椅子へと向かった。
「一緒に食おう」
その行き先を察して、サチがフェンをベッドへと誘った。確かに、椅子のあのクッションの上で食事は適さないだろう。皿の上にあるシチューに注意を払いながら、フェンはサチの後ろを着いていく。ベッドの上に2人で上がり、向かい合ってトレイを置く。行儀が悪いな、とは思ったが、あまりやらない行動に少し楽しみを感じていた。サチは典型的な『悪い子』のような笑みを口元に浮かべて、「フェン、お前、飲む?」と主語の抜けた問いかけを零した。
首を傾げるフェンの前で、トレイの上に乗せていた透明なボトルをグラスに開ける。水だろうか、と思ったが、香ってきたのは甘い匂いだった。
「お、さけ?」
「ああ。アルコールは殆ど入ってないんだけどな。果実酒。ここの名物らしい」
良く見れば本当に透明なわけではなく、微かに白い。濁り酒なのか、果実の滓が液体の中を浮遊している。
「お酒は、飲んだこと無い」
「だろうなぁ」
サチはけらけらと笑うと、グラスに注いだその甘い匂いのする液体を喉に流し込んだ。ぺろりと舌を舐めながら、「うん、ジュースみたいなもんだよ」と微笑んだ。フェンはシチューの中、大きいジャガイモを一緒に乗せてあったフォークで割り、細かくしたのを口に入れる。ほくほくとしたジャガイモに舌鼓を打ちながら、フェンは困ったように眉根を寄せる。
「私の年齢じゃ、飲んじゃ駄目って言われてて・・・」
「それ、フェンの故郷の?」
「うん」
肉とジャガイモを同時に口に放り込み、サチは咀嚼しながらううん、と唸った。
「でも、どこかの国だと祝い事の度に、小さい子供にも酒を飲ませるところだってあるし。飲んで死ぬわけでもない」
「でも、別に飲みたいとは思わないけど」
「じゃあ、気にならない?」
口に入れた暖かいスープを飲み込みながら、フェンはそっとサチの顔を盗み見る。サチはじっとフェンを見ており、優しく笑っていた。気にならないわけがない。
「ちょっと飲む?」
サチが笑った。こういうのを悪い子というのだ。かつて村の警備をしていた青年が、悪戯好きな少年達を追い回しているのを思い出す。甘い匂い。
「・・・ちょっとだけ?」
「ああ。いや、飲みたいならどれぐらい飲んでもいいよ」
サチの笑顔に促され、フェンはゆっくりと差し出された冷たいグラスを受け取った。ゆらりと揺らめく酒の表面を睨みつけ、そっとグラスの縁に口付ける。グラスを傾ければ、そのまま口の中に流れ込んできた液体が、失敗したことに結構多く、無理やり胃に流し込んだ。「おお、」とサチの感嘆する声。
げほげほと咽ながら、グラスを押し返す。元あった半分ぐらいをうっかり飲み込んでしまい、フェンは口を押さえながら「ああ、」と情けない声を上げた。かっと熱くなってくる頬。熱を持った胃。噎せ返る果物の甘い匂い。はふ、と溜息を吐きながら、フェンは紅潮した顔のまま、正面でにやにやと笑うサチを睨みつけた。
「これ、本当に、アルコール、すくないの?」
「いや、ごめん、嘘」
酷い。
サチはけらけらと笑いながらグラスの残りの酒を飲み干し、「あんなに突然飲むフェンも悪いよ」とからかう様に囁いた。なんて人だ。
くらくらする頭でぼふりとベッドに倒れこみ、フェンは「サチの馬鹿・・・」とぶつぶつ呟いた。
「おいおい、ここ、俺のベッドなんだけど?」
その言葉にがばりと体を起こし、フェンはよろける足で隣のベッドへと移動した。「そこ、テオのだぜ」知らない。サチが悪いのだ。人がいないせいか冷たいシーツに安堵し、今は居ない自分の持ち主の残り香に力を抜く。
「怒られるんじゃないのか?」
「サチが悪い。知らない」
ああ、口を開くのすら億劫だ。くすくすとサチの笑う声がして、果実の匂いが一層強くなる。
「じゃあ、俺のこと嫌い?」
「好き。大好き・・・」
「・・・・」
フェンはそう呟いた後、じっとして動かなくなった。もしかして寝たのかもしれない。サチは、はぁ、と溜息を吐くと、「そういう告白はもうちょっと雰囲気を作ってからにしような、」と小さく笑った。
「・・・ておも、すき」
ぼそぼそと呟かれた次の台詞にすぐさま肩を落とすが、まぁ、今はそれでも良いかと、サチは一人、テオへの言い訳を考えることにした。
2008/4・27