■その湖面まであと何マイル
あっ、と驚いたような声を上げて、フェンが立ち止まる。アシュレイが顔を顰めて振り返れば、案の定寄り道をしている銀髪がいた。空気に充満する草木の匂い、乾いた土、そして太陽の匂いに混じって、フェンの匂いが届く。友人達と体術の練習をした後、泥だらけになった後の匂いと、何か分からないが甘い匂いがした。
「何してる」
「これ」
問いかけてみれば、フェンはしゃがみ込んだまま、手袋に覆われた小さな手の指で何かを示した。棒を使うが故に自然と長くなったのだろう、手袋の上からでも分かる細い指が示しているのは小さな紫色の花だった。10cmほど伸びた茎から、小さな花はふわふわと溢れている。花を押さえる『がく』の部分がやけに長く、花というよりは紫色の草だな、とアシュレイは思った。その名称も、ちゃんと覚えていたのだが。
「これ」
フェンが再び言う。これ、ってなんだ。続きを言え。
アシュレイがもっと顔を顰めさせたのに気がついたのだろう、フェンは困った顔をしたまま、その花の花弁を摘まんでぷつりと抜いた。
「甘いんだよ」
彼女の言葉は純粋すぎて良く分からない。碌な説明になっていないのだ。連れのあのグールは無口すぎるし、サチとかいうひょうきんな男の方は嘘をついているように聞こえて仕方が無い。彼らよりはマシなのだろうけれど、アシュレイは顔を顰めることしかできなかった。
「花の蜜が強いんだろう?」
「アシュレイ、知ってたの?」
「当たり前だ」
「すごい」
フェンは素直に目を丸くして感嘆の声を上げた。
「サチも知らなかったのに」
あんな男より薄学だと思われていたなんて!心の中で吐き捨てるが、フェンはどうやらサチに対して物知りという印象抱いているらしい。あの男より劣っていると見られていたという意識が、まるでイリスを侮辱されたかのように感じて、アシュレイは腸が煮えくり返るかのような感覚を脳の片隅で感じた。
「僕が天才だっていうのを本当に分かってないのか」
「天才、」
フェンは眼を丸くして、そうぽつりと呟くと、少し首を傾げた。
「頭がいいんでしょう?」
「そうだよ」
「頭がいいのと、物知りなのは、違うよ」
「・・・・・・」
フェンにしては的確な意見だった。頭がどれほど良かろうと、知らないものの名称など分かるわけも無い。特性などを理解していても、名前が分からなければ仕方が無いのだ。
「ここ一帯の植物は、全て網羅している」
自然とムキになるような口調になってしまうのを感じ取りながら、アシュレイはそれでも言い返さないことができなかった。やけに暖かい空気が、風と共にぶわっとアシュレイとフェンに吹き付ける。フェンの銀糸が後ろから乱れて、アシュレイも自分の前髪が逆立ったのを感じた。思わず片手で押さえつけながら、また鼻を掠めていった匂いに顔を顰めた。
「フェン、お前、何か食べた?」
「え?なにが?」
フェンは一拍遅れて自分の髪を押さえつける。既に風は途切れ、さわさわと草がざわめく音が遠ざかる。見開かれたフェンの目に、青空が移って、その中に苛々したような顔でフェンを見る己の顔があった。苛々する。
どうして。
「なにか・・・・・・甘い、においが、する」
ゆっくりと呟くように言えば、頭がかっと熱を持ったかのように痛んだ。顔が紅潮していくのを感じる。アシュレイは頭に当てた手を自然な動きで頬へと移動させ、沈黙に身をゆだねることにした。
フェンはぱちぱちと瞬きをしながら、ぐしゃぐしゃになってしまった髪の毛も直すのを忘れ、自分の腕に鼻を当てて息を吸い込んだ。
「甘い匂い?・・・分からない。・・・・・・あ、もしかして、臭い?」
フェンは顰められたアシュレイの表情にはっとして、慌てたように立ち上がった。指から離された淡い紫の花が、指から離れて、地面に落ちた。そのまま風においやられて、アシュレイの足元を潜っていく。
「いや、別に」
「そう?ごめん。何も、甘いものとか食べてないと思うけど・・・もしかして、花の匂いかも」
フェンは自分が風上に立っていたせいで自分の匂いがアシュレイに届いたのかと思って、足早にアシュレイの隣へと歩み寄った。
花の匂いじゃない。お菓子のような匂いでもなくて、春の陽だまりのような、カティアさまのような、やさしい・・・。
アシュレイは自分が泣きそうな顔になっているのを感じながら、不思議そうに己を覗き込んでくるフェンの澄んだ蒼色の双眸を見つめ返した。氷のような冷たい美しい色ではなく、空の、いや、むしろ、湖に映った、空の青。
雪解けの、待ち望んだ暖かさと共に、フェンの匂いがする。乱れた銀糸を直す振りをして、アシュレイはその細波のようにゆれる蒼色を見つめて、微かに身を寄せた。
「髪を、直しなよ」
「ありがとう」
素直に吐き出された言葉と共に、手袋越しにフェンの手がアシュレイの手に重ねられる。さらさらと指の間をすり抜けていく銀色に目を閉じながら、アシュレイは次に何を言えばいいのか分からず、ただ言葉を無くした。
春の日差しと共に、鮮やかな幸福が吹き抜けていく。
2008/4・26