■ブログ短文集
■庄鉢
目が痛い、と鉢屋が言った。不破雷蔵の顔の上半分を片手で押さえ、微かに俯いている。薄暗い室内で、その姿はやけに弱弱しかった。
「暗いところで本なんて読むからですよ」
「うん」
白い手の甲が暗闇の中で浮いていた。本の表紙の上に乗せられた掌が、まるで泣いている顔を隠すように、鉢屋の顔を隠した。たまに、鉢屋三郎は、変装相手の不破雷蔵のように、読書に熱中する癖があった。それは完璧に変装しようとする鉢屋が無意識に起こす行動であったが、そこまで真似しなくともと同じ委員会である庄左ヱ門や彦四郎が口を挟めど、鉢屋は何度も暗闇の中で本を読んだ。
「そんなに痛いんですか?保健室行きますか?」
「いや、行かない。平気だ。目が疲れたんだ」
庄左ヱ門は鉢屋の顔を伺うように身を屈め、その掌の隙間から見える唇と鼻を凝視した。ふと、以前草むらで見かけたくの一と上級生の密会を思い出した。この顔の距離は、まるでこれから接吻するようではないか。呼吸が相手の肌で感じ取れるのではないかという感覚で、庄左ヱ門は鉢屋の掌とその隙間から微かに見える雷蔵の顔を見た。一秒、二秒、と時間が過ぎ、結局離れた。
「保健室行かないんですか?」
「行かない」
触れず、小さく息を吐き、そして黙った。何故顔を近づけたのかも分からなかったが、何故唇をあわせなかったのかも分からなかった。
「青春?」
「え?何がですか?」
鉢屋の小さな問いかけに、庄左ヱ門は首をかしげた。本気で意味が分からなかった。鉢屋はようやく手を離し、目を瞬かせながら、「庄左ヱ門、女の子にいい顔をされないよ」と小さく呟いた。
鉢屋先輩はいい顔するんですか?と聞こうと思ったが、薄暗い室内で鉢屋も眉根を寄せていたので、男もいい顔をしないのだな、と意味なく思った。
■庄鉢
がらり、と戸を開けると、壁を背にして鉢屋三郎が眠っていた。
床に座り込み、片足を立て、もう片方の足は放り出されている。着物から滑らかに突き出た白い腕が板間の上に放置され、不破雷蔵である横顔は瞼を閉じ、静かに寝息を立てていた。
庄左ヱ門は一度足を止め、しかし何事も無かったかのように中に入り、戸を閉める。たん、と乾いた音が一度鳴れば、再び室内は静寂に包まれた。窓から差し込む太陽の明かりで室内は十分に明るく、それ故に机の上に置かれた予算書の文字を、庄左ヱ門は見ることができた。
どうやら誰かが会計委員の予算書を写してきたらしい。予算書は一から計算されているらしく、抜け落ちた金額が最後に走り書きされてあった。鉢屋がやったのだろうか。
庄左ヱ門は机の横に腰を下ろし、静かに眠り続ける鉢屋を見た。右腕は鉢屋の立てられた膝に乗せられ、その細い指が自身の顔に添えられていた。庄左ヱ門には鉢屋の顔の半分しか見ることができない。
時間がゆっくりと過ぎていくのを、庄左ヱ門は感じた。己の目が鉢屋から離れない。閉じられた薄い肉の瞼の白さや、上下する胸部、以外と細い肩幅や、床に置かれた手の指先まで、庄左ヱ門はじっと見た。鉢屋との距離は大体4尺ほどである。手を伸ばしても届かない。
その距離を忌々しいと思ったことは無い。それより近くに寄れるのは、きっと鉢屋の友人だけだろう。それをしっかりと見定めて、庄左ヱ門はゆっくりと、口を開いた。
「鉢屋先輩」
静寂を裂いて吐かれた言葉は、一瞬で霧散した。それなのに空気を震わせた声の振動が未だに溜まっているのか、どくどくと庄左ヱ門の心臓が強く脈打ち、庄左ヱ門は瞬く。目が乾いて仕方が無い。
「どうした」
鉢屋は瞼も開けず、眠っていたであろう状態から欠片も動かず返答した。
「起きてらっしゃったのですか」
「戸の開く音に反応できない忍など」
くっと一度肩を震わせ、鉢屋がゆっくりと瞼を開けた。庄左ヱ門を穿つ小さな瞳が、眠っていた鉢屋を見つめていた庄左ヱ門のように、じろじろと庄左ヱ門を不躾に見つめた。相手の動作を深く観察する、鉢屋の癖である。
「何故、眠っている真似など?」
机の上に置かれた帳面が、侵入してきた風に押されて捲れた。委員長委員会のお菓子代である。どうやら会計委員から写し取った予算の中から余ったお金を取るために、計算していたらしい。
鉢屋はおどけるように肩を竦めて、艶やかに笑った。能面の下に隠された感情はけして読み取ることができず、庄左ヱ門は一度、言葉を呑んだ。
「お前からの接吻を待っていたのだ」
吐かれた言葉は庄左ヱ門を飲み込む悪意で満たされている。逃げ惑うように庄左ヱ門の手が、帳面の捲れた紙を押さえるのに躍起になった。ご冗談を。その一言が、喉奥に張り付いて空気に溶けることを厭う。
瞠目した庄左ヱ門を綺麗に笑って、鉢屋はくすくすと笑みを零した。蜃気楼でも見えるような、夏の日のことであった。
■孫兵+五年ろ組
周りの空気が小さく震えている。暗がりで何かが蠢いていて、無数の目玉が己を観察しているのだと思う。数百の意思が虚空のなかで危険を伝え合い、檻さえなければすぐさま喰らいつこうとその牙を研いでいる。鉢屋三郎は、それを羨ましいと思った。彼らは一つの生物ではなく、この中で一体となっているのだ。
美しい、と思う。毒虫は恐いけど。
「鉢屋先輩、閉めますよ」
「うん、悪いね」
入り口から投げかけられた3年生の孫兵の言葉に振り向き、そそくさと飼育小屋から出る。太陽の真下に出れば、向けられた敵意がどこかへ散った。おかしくて笑える。一人肩を竦めた鉢屋を見て、飼育小屋の鍵を入念に点検してから、孫兵はその背中に問いかけた。
「何をしてらっしゃったんですか?」
「ううん、動物と触れ合おうかと」
「動物といっても」
孫兵は微妙な顔をして言葉を濁した。確かに、この小屋の中に息を潜める連中は毒虫ばかりである。鉢屋はにやにや笑って、「なんだい、君がこの中の奴らを偏見の目で見ているとは思わなかったよ」と優しい子供をからかった。孫兵は一度口を開き、静かに「そうですね」と鉢屋の予想を裏切って、やけに静かに口に笑みを乗せた。
「でも、彼らが危険であることを、僕が一番知っていることが、彼らのためであるんですよ」
「ああ、なるほどね。それは正論だ」
「ちゃんと手、洗ってくださいね」
孫兵はそう言うと、首裏からするりと頭を出してきた毒蛇の頭を優しく撫でて、鉢屋に一礼して去っていった。孫兵は鉢屋よりも、断然毒虫達の味方だろう。今のは社交辞令だった。鉢屋はくっ、と肩を震わせて、孫兵の変化にげらげら笑った。1年生のときと比べて、大人しくなったものである。
「飼いならされたのか?」
問いに答える人間はすでに建物の隣に消えている。鉢屋は上機嫌になって、5年長屋へと戻った。脳裏に浮かぶのは先ほどの毒虫のなかから、例えばはぐれた一匹の羽虫のように、今にも踏み潰されそうであった孫兵のかつての姿と、それの味方になってやった同級の友人である。
目当ての部屋の障子を開ければ、ごろごろしていた友人二人がきょとんとした顔で鉢屋を見上げていた。鉢屋と同じ顔をした不破雷蔵と、ぼさぼさの髪を床に散らしている竹谷八左ヱ門である。鉢屋はにへら、と顔を緩めると、床に転がっていた竹谷の上に倒れこんだ。
「うぶっ」
突然やってきた圧迫感に悲鳴を上げれば、鉢屋は構わず竹谷の上に乗ったまま、ぐいっと竹谷の頭に腕を回した。
「三郎、何してんの?」
「飼いならされようとしてる」
「わけわかんねぇよ!重ぇよ!」
ぎゃあぎゃあと喚く竹谷とその上で楽しそうに笑う鉢屋を困ったように見て、雷蔵は迷った末、二人の上にのしかかった。
「うっぐ・・・!」
「おお、竹谷が本気で苦しがってるぞ」
「退く気は無いんだね」
「雷蔵だって退く気ないだろ」
「死にそうなんですけど!」
ばんばんと竹谷が床を叩く。鉢屋はそれを楽しそうに見て、もう少しこのままでいようと思った。
■久々鉢
「よく分からないな」
そんな台詞を隣で掬い取って、床に寝ころがっていた鉢屋は一人口元を歪めた。
「分からない?」
「分からない」
歌うような調子で投げかけられた言葉に、普段どおりの真摯な声音で久々知は返した。同じ言葉で。鉢屋はそんな昔からの男の生真面目さに肩を揺すって、「じゃあ、つまり、お前は理解しようという気持ちはあるわけだ」と問い直した。
「理解しようとする気持ち?ああ、そうだな。少なくとも、理解しようとする姿勢は保ってるはずだ」
「優しいからなぁ、兵助は。なんでも理解しようとするなんて、一歩違えば「なんて傲慢な奴なんだろう」って言われるぞぉ」
その、なんて傲慢な奴なんだろうという言葉だけ誰のものとも知れぬ声に変えて、鉢屋はおちょくるように久々知を笑った。しかしその言葉に悪意はないことを、久々知はそちらを見なくとも理解している。
「しかし、傲慢な奴が優しくないという話があるわけでもないし、ああ、まったく、ほんとお優しいよ兵助」
「優しい俺が嫌いか?」
二人きり閉じ込められた室内には、遠く、廊下で鳴っている風鈴の音が微かにやってくるだけだ。今日は風が冷たい。
室内は生温い空気に満たされている。平和で仕方がない。そんな時間を久々知はもちろん愛したし、鉢屋だってそんな平凡なことは大好きだった。刺激が欲しくなるのは平凡であるからである。
「大好きだよ」
「それは嘘?」
久々知は素早く問い直した。鉢屋は笑うだけで、ごろりと体を反転して、少し黙った。
「なぁ、私にはよく分からないよ」
「知る必要なんてないじゃないか。優しい嘘は素直に受け止めておけよ」
「じゃあ、今のは嘘なんだな?」
「嘘の方がいいのか?」
鉢屋の言葉はいつだって率直に捻じ曲がっている。嘘だと思われたいのか?と問いたかったが、延々と続く問答は、鉢屋が喜ぶものではない、と久々知は判断して、「愛し合っていることにしよう」と一言答えた。
いつだって平穏を好きにならないのが鉢屋である。
「そういう優しいお前が大好きだ!」
鉢屋は酷く子供のように笑い転げていた。
■学級委員長委員会(ちょっと庄鉢
太陽が丁度真上にきている。足元に落ちた己の影は面積を小さくして、逃げ惑うように自分の足元で縮こまっていた。
「いや、まったく、良い天気だ」
冷たい風の吹きすさぶ中、鉢屋が明るい声音で言った。遠くで列を成している木々が橙色に色づいていて、薄い水色の空と相成って美しい。庄左ヱ門は「そうですね」と箒に寄りかかって答えた。
「そろそろ暖をとる季節だな。庄左ヱ門の家は繁盛するだろう」
「そうですね。今が稼ぎ時です。手伝いに帰ったら、きっと学園より忙しいですよ」
「そうかぁ?一年は組は年中大忙しだろう?」
「代わり映えしない毎日より、随分充実しているけどね」
茶々を入れるように彦四郎が笑った。庄左ヱ門はむ、と顔を顰めたが、鉢屋が静かな目で空を仰いでいるのを見て、続けて発しようとした暴言を飲み込む。彦四郎も釣られて黙った。鉢屋の黒々とした目玉は一点を凝視したまま動かない。
「どうかしましたか」
「いいや」
鉢屋は頭を振って、幼い二人に視線を戻した。感情の篭らない能面のような顔である。不破雷蔵のものである丸々とした目が、ゆっくりと二人と視線を交わした。
「寒くなってきたな、と思って」
おどける様に肩を竦めては、冷たい風が三人の間を吹きぬけた。先輩、今年は家に帰るのですか、と聞こうかと思ったが、鉢屋の目玉がどこまでも無感動だったので、やめた。
いつだって踏み込むことを恐れている。彦四郎がくしゃみをしてしまうまで、庄左ヱ門は鉢屋の艶やかな二つの眼球に魅入っていた。
2009/1・3