■6センチメートル分の幸せ



 哀れみだとか、そういうものではなかったのは確かだった。何故なら俺は人に褒められるほど静雄の面倒を見ていたわけでもないし、そもそも静雄は俺を頼らなくともまったく問題ない人間だ。病気なわけでもないし、何か障害があるわけじゃない。ただキレやすいだけだ。それがなければなんてことはない、どこにでも居そうなぼんやりした少年だったし、静雄みたいなのは俺のクラスにだってちらほらいたぐらいだ。よく、クラスの連中によくあんなのとつるんでられるな、と言われたものだったが、静雄とつるめないのなら誰とだってつるめないだろう。静雄は俺にとってはただの後輩だ。ただの喧嘩の強い後輩だった。
 後輩の役にたって、それで後輩が自分のことを尊敬してくれたら、それだけで普通に嬉しいものだろう、と思う。そういうものではないのだろうか。見返りが欲しいなんてことはなかったけれど、人が誰かに優しくするのは、その人に喜んでもらいたいとか、そういう単純な理由ぐらいなんじゃないんだろうか。俺は面倒くさいことは嫌いだ。だから他人の心情なんて深く考えるのも面倒だからやらない。静雄とつるんだのは、静雄が頼るべき人が見つけられなくて困っていたから助けただけで、苦しんでいたからヒントを与えただけだ。それだけだ。俺がしてきたのは。俺にできたことは。後輩にできる先輩からの手助け程度だ。ただの普通のこと。普通のことしかできない俺の、ただの日常。
「……あれ」
 ポケットの中に手を突っ込んで、静雄は眉間に皺を寄せた。サングラスをかけているので目はよく見えないが、いらついているというよりは訝しげな様子でごそごそと両側のポケットを漁り、一旦中から携帯電話と煙草、おそらく自宅の鍵を引っ張り出して、それをテーブルの上に置いた。
 事務所の中には元々硝子製のテーブルがあったが、静雄の二次災害で数ヶ月前にご臨終なさった。今は木製の黒塗りのテーブルになっている。その上に静雄はポケットの物を全て出してから、一度立ち上がり、自分の尻やらベストの小さな飾りのようなポケットをぱんぱんと叩く。そしてその場で一度くるりと回り、すとん、と再びソファに座った。一連の行動を見るになにやら無くしたようだが、それが何かわからなかったのでとりあえずキレないことを確認してから、そっと聞いてみた。
「…どした?」
「…あー…その、ジッポーをどうやら家に置いてきちまった…みたいです。落としてはいないはずなんで」
 ジッポー、っていうとあれか。俺は静雄が煙草を吸うときにいつも使っている高価そうな銀色のジッポーを思い出す。確か弟からプレゼントとして貰った、とか言っていただろうか。確かに、静雄のことだ。弟から貰ったものをそう落とさないだろう。それに午前中は2件アパートを回ったが、大して暴れることもなく金を徴収できた。落とす要因はないだろう。
 静雄は一度携帯を開き、時間でも確認したのか、すぐに閉じて、おもむろに煙草の箱から一本抜いて、口に銜えた。火も無いのに銜えてどうするんだろうか。
「……何してんだ?」
「……あ、そうだ、ジッポーが無かったんだった。すみません、ボケてました」
「あー、いやいや」
 そもそも謝られる必要はないし、面白い行動も見れたのでこっちとしては感謝したいぐらいだった。にやけてしまうとキレられるかもしれないので、とりあえず煙草をすぐ箱に戻そうとする静雄を手で止めて、ちょっと待ってろ、と立ち上がる。
 俺は事務所の壁に並んでいる棚の引き出しから判子やらが入っているところを適当に漁り、以前友人から貰ったマッチを発掘した。スナックのもののようだが、それがどこにあるかはわからない。
 ぽかん、とこっちを見てくる静雄に、ほらよ、とマッチの箱を投げて渡せば、静雄は素直にありがとうございます、と言いながらマッチをまじまじと観察した。
「マッチすんのなんて小学校以来ですよ」
「ああ、確かになぁ」
 静雄は箱から一本抜き出して、じゃあ、使わせてもらいます、と言って箱の横にマッチを擦り付けた。と、何故かまったく想像していなかったけれど、いとも簡単にマッチは折れた。丁度真ん中程度から、べきっ、と音を立てて。
「……す、みません」
「いや、気にすんなって! たかがマッチじゃねぇか。何本でも使えよ」
 硬直する静雄にははは、と笑いかければ、静雄はおっかなびっくり、と言った風にもう一度マッチを擦ろうとして、そしてまったく同じようにべきっ、と折った。
「……」
「……」
「しょ、小学生んときは擦れましたよ」
「ああ…そうか」
 何の弁明なのか、むしろ今の自分は小学生以下だとでも言いたいのかと思うことを口走る静雄を落ち着かせつつ、口に銜えられた煙草を抜き取ってみた。静雄はきょとんとした顔で俺を見上げてきたが、とりあえず貸せ、と言ってマッチ箱も受け取る。これで俺も折ったらかっこつかねぇな、と思いながらやってみれば、結構拍子抜けするほどあっさりと火はついた。それをすぐに煙草の先につけて、ゆっくり息を吐く。先端に燃え移り、特有の煙を立ち上らせはじめたのを確認してから、マッチの火を消し、灰皿に投げ捨てる。
「ほれ」
 銜えていた煙草を抓んで静雄の口に押し当てれば、ぱくりと飴玉でも貰った子供のように煙草に食いつく。犬のようだ。
「ありがとうございます」
「マッチ擦って火ぃつけただけだべ」
「俺できないんで」
 キレてるわけじゃねぇから、これはただ不器用ってだけか。静雄はぼんやりとした面持ちでぷかぷかと煙草から煙を立ち上らせていて、俺は黙ってそれを観察していた。回る換気扇がごうごうと嫌な音を立てていた。付けっぱなしのテレビから洗剤のCMが流れている。ふとこいつも家事というものをするのだろうか、と思い、それならば弟が来たときは、あの弟が家事。どうでもいいことをとりとめもなく考えて、この兄弟がちまちまと家事をしている様子を思い描いて思わず笑いそうになった。可愛いものである。
 ふと正面を見ると、静雄は煙草を口から離していた。片手で煙草を抓んで、もう片方の手で自分の顔を覆っている。見れば顔が真っ赤だった。何ををしているのかと思うと、煙草の先から灰がぽとりと落ちてテーブルを焦がした。
「静雄、おい、煙草」
 あっ、と静雄が裏返った悲鳴を上げて、テーブルを見て、今度はげっ、と引き攣った声を上げた。慌てたのか静雄は素手でその灰を灰皿に抓んで捨てた。黒い塊ごと指で抓んで、何事も無かったかのようにせっせと灰を指に付けて片付ける。熱くねーのか。どこのマフィアの俳優だ。
 静雄は灰が落ちたところを注意深く見て、それが目立たないことを祈ってか、灰が落ちたところを指の腹でぐりぐりと押した。黒いテーブルだったのが幸いしてか、注意深く見ないと気づかない程度の焦げだった。
「なにぼけっとしてたんだ?」
「あ、いや、その」
 か、かんせつ、と静雄が呟く。関節? 骨でも痛むのか。成長痛か。俺が訝しげな目で伺えば静雄はその、と言いよどんで、慌てふためいたせいか煙草を灰皿に押し付けてしまった。じゅう、と音を立てて使い物にならなくなった煙草を、あ、と小さい残念そうな声を上げて見送って、静雄はそれっきり黙りこんでしまった。
「もういいのか?」
「もう、いいです」
「時間もあるし、まだ一本ぐらい吸えんべ」
 調子の悪い静雄を落ち着かせるためにはこの方がいいだろうと思ってテーブルの上に置かれっぱなしだったケースから煙草をもう一本ぬきとる。口に銜えてマッチを擦ろうとしたら、あの、と静雄がまた声を上げた。
「ん?」
「あ、いや、その、やっぱ、なんでもないです。吸います」
「そうしとけ」
 じゃっ、と音を立てて燃え上がるマッチを擦る俺の指を、何故かじっと見る静雄の視線が気になったが、とりあえず火をつけた煙草を静雄の口に与えれば、今度はおずおずと、それでも同じように静雄はそれをぱくりと銜えた。犬に餌付けする動作を思ってまた笑いそうになってしまったが、ちゃんと堪えた。静雄はまた顔が赤くなっていた。
2010/7・25


TOP