■ただ、それだけの
数年ぶりに煙草を吸ってみた。ブルースクウェアに入っていた頃、数回だけ吸ったことがあるそれは、久しぶりに吸うとかなり苦しい。何度やっても中々慣れないものだったのだけれど、今回は普通に一箱買ってしまったから、せめて一本ぐらいはちゃんと吸っておこう、と我慢した。肺が害される気分がありありと分かる。はぁ、と煙を吐き出して、残りの煙草をどうするか迷った。
もちろん、ブルースクウェアに未練があって、たまにはその気分を味わいたくなった、とかそんなものではない。ただなんとなく、本当になんとなく、財布に小銭が余っていたから買ってみた、としか言いようがない。むしろ、煙草を吸ったことのない子供が、煙草ってどんなものなんだろう、と好奇心で買ったのと同じレベルだ。それもこれも、いつも車に乗せている連中が、それぞれ今日は用事がある、それも中々終わらないもの、と言って、渡草に数時間の暇が出されたのが元の原因だ。
勿論渡草にだってあの3人以外にも仲のいい人はいるし、暇を潰す内容は色々ある。しかし車を出すのはやめにして、久しぶりに散歩でもしようかと思い立ったのだ。たまには一人でぶらぶらするのもいいだろう。
兄と住むアパートから出て、適当に、本当に右か左か適当に選んでのろのろと歩いた。どこに行くというわけでもなく、あえて言うなら裏路地散策、といったものかもしれない。車では通れないような近道とか見つけるような気分で歩き続ける。人々の喧騒も車の硝子越しに聞くのとは色々と違って聞こえた。まるで自分が引きこもりであったかのようである。
そうやって適当に歩き続けて、インドア派の渡草がそろそろだるさを感じてきた頃、ちょうど道路の向かいにコンビニを見つけた。どうもコンビニを見ると、その前に置いてあるゴミ箱に目がいってしまう。この池袋に住まうあの有名なバーテンダを思い出すのだ。
何か飲み物でも買うか、とふらりと中に入って、緑茶を買おうとした時、丁度財布にやたらと小銭が溜まっているの見た。通りで重かったわけだ。会計をする店員に向かって、その時ふと、「煙草下さい」と言ってしまった。
「銘柄はどれにしますか?」
銘柄。口の中でその言葉を反駁して、咄嗟に「マルボロ」と言ってしまう。あの赤いデザインをやたらと憶えていた。渡草が最初にブルースクウェアで薦められた煙草かもしれない。煙草とお茶を引き換えに小銭をぴったり渡すと、大分財布が軽くなった。ビニル袋を提げて、コンビニから出る。携帯電話で時間を確認し、だらだらと帰ることにした。その前に公園に寄って、座って煙草を吸ってから帰ろう。家で吸えば確実に兄は臭い、病気になる、部屋に匂いがつく、と怒るだろうし、そもそも家に灰皿があったかどうかが怪しい。兄は持っているかもしれないが、どこにあるかが問題だ。
帰り道にある公園へ向かい、人の少ない場所の端にあるベンチに座る。そこで致命的ミスに気づいた。ライターを買っていない。
「・・・・・アホか・・・」
思わず声にだして自分を詰る。天然でボケてしまった。煙草のフィルターを剥がして箱を開けてから途方に暮れる。仕方が無いので再び袋に仕舞って、緑茶を飲んで一息ついた。
慣れないことはするものではない。やはり一人にも馴れていない。どうにも調子が悪い。一人でこんこんと考えていると、公園の向こうから見覚えのあるバーテンダ服に金髪の男が歩いてくるのが見えた。丁度公園を横断するように、のろのろと歩いてくる。
声を掛けずにそのまま知らない振りをしよう、と渡草は反射的に思い、黙って目を逸らし、そこでふと、再び静雄を見た。
「静雄」
ぽろり、と口から声を出してしまう。しかも呼び捨てだ。さん付けをした方が良かっただろうか。普通に門田と会話しているときに、静雄、静雄、と呼んでいたので癖で出てしまったらしい。しかし当の静雄は渡草を見て、誰だろうか、と考える方に頭が向いてしまったらしい。特に静雄、と呼び捨てにしたのには言及されなかった。
「あ? なんだ、お前」
「・・・あー、その、門田と一緒にいる、車の運転手」
「・・・・・ああ」
そこでようやく合点がいった、と驚いた顔をする。特に怒っている様子も見られず、一先ず一段階はクリアできた、といったところだろうか。もう既に声を掛けるなと殴りかかられたらどうしよう、と心の中では思っていたのだ。
「で、門田の知り合いが何のようだ?」
「いや、頼みがあるんだが、聞いてくれるか? 別にお前をパシリに使いたいとかそういうのじゃねぇから」
「話によるな」
門田の話によると、この静雄という男、沸点が物凄く低いらしい。普通に会話していても、媚びたり、調子に乗ったり、低く見られたりということを感じ取るとすぐに怒るそうだ。門田はどうやってこういう奴とつるんでるんだろう、と心の中で改めて門田を尊敬しながら、渡草は、その、とどうやって言うべきか戸惑う。
「俺さ、今久しぶりに煙草を吸ってみようと思ってコンビニで煙草買ってきたんだが、ライター買い忘れて、火種がねぇんだよ」
「お前、・・・かなり抜けてるんだな」
ふうん、と静雄はじろじろと渡草を見た。おそらくあのワゴンの中で門田の参謀のような役割だと思われていたのだろう。それは間違ってはいない予想だったが、渡草も普段これほど抜けているわけではない。アホを見るような目で見られるのに耐えられず、だから、と言葉を続けようとすると、静雄は懐からそれなりに高そうなジッポーを取り出して、ほら、と渡草に渡した。
「え」
「使えよ。あんたには、前に使わせてもらった車のドアの借りがあるしな」
もしかしてそれのお陰で怒られないんだろうか、と渡草は心のなかで思いつつ、「あ、ありがとよ」と返答した。少し驚いているせいで言葉がどもってしまう。とりあえず一本抜き取って、口に銜え、ジッポーで火をつける。かなり前に吸った記憶だったので少し咽そうになったが、静雄の手前、それだけはなんとかとどめた。何をきっかけで今座っているベンチごと投げられるか分かったものではない。ジッポーの蓋を閉じて、それが本当に高価なものだと思う。誰かからのプレゼントだろうか。考えるよりも早くそれを静雄に返す。
「なんで煙草なんか吸ってんだ?」
「え?」
「いや、あんた煙草、吸わないだろ、いつも」
その言葉を聞いていると、この静雄があのいつもの怖ろしい男には見えず、渡草は少し混乱してしまう。本当に別人なんじゃないだろうか。そう思いながら、口から煙草を抓んで離し、それは、と言葉を選んだ。
「財布に小銭が余りまくってたから何か買おうと思って―――、なんとなく、前吸ってたのを思い出して、吸いたくなっただけだ。どうでも良かったから、ライター忘れちまったが」
「へぇ」
「でもやっぱり駄目だな。なんか余りもんやるみたいで悪いけど、ライターのお礼にこれやるよ。一本吸っちまったけど。・・・いらないならいいが」
渡草はそう言いながら、袋からマルボロの箱を取り出して、静雄に差し出す。他人の手のつけられたもんなんざいるか! とキレられたら一巻の終わりだが、その言葉をうっかり普通に言ってしまった。煙草を一本吸って、やはり自分はあまり好きではない、と思ったからだ。これ以上吸ったらバンで絶対に渡草っち臭い、と苦情が入るだろうし、兄だって良い顔をしないに違いない。
静雄が黙ったまま、別に怒るわけでもなく、静かにその箱を見つめているので、渡草はふと一つの事象に思いいたり、あ、と言葉をこぼす。失念していた。
「・・・と、悪い。そういや煙草って銘柄で重さ違うんだっけか。マルボロは駄目か」
「いや・・・貰う」
静雄はそう言って、いともあっさりと渡草の手から煙草の箱を奪った。猫のようだ、と思う。煙草の箱を懐に仕舞いながら、静雄は渡草を見下ろしたまま、「ありがとな」と気の抜けた顔のまま言った。笑いそうになってしまって、堪えた。普段の仏頂面のまま、いや、処理に困ってただけだ、と返す。それは本心でもあったし、嘘なわけでもない。見破られはしないだろう。
池袋の殺人人形だなんて言われているのに、なんだろうこの気の抜け具合。まるで子供を相手にしているような気分だ。煙草を銜えていなかったら口元がにやけてしまっていたかもしれない。
「悪いな」
「ん」
「あんたからは色々貰ってばかりな気がする」
車のドアか。渡草はフィルター近くまで燃えてしまった煙草を、すぐ近くにある公衆灰皿に押し付けて、ふ、と最後の煙を吐きながら苦笑する。
「俺以外からもっと色々貰ってるんだから、俺のことは別に気にするなよ」
「・・・・・・」
渡草の言葉に静雄はなんとも言えない、微妙な顔をして、そうか、と一言、納得したのかしていないのか良く分からない返事をする。渡草はそんな静雄を不思議そうに見やり、じゃあ、と立ち上がる。緑茶だけ入ったビニル袋を持って、帰宅することにした。
「じゃあな。静雄、気をつけろよ。最近物騒だし・・・まぁ、お前に言うことじゃないか」
「・・・・・・そうだな」
何を言っているのだろう、と自分を笑い、渡草は歩き去っていく。普段こうやって池袋にいる自分たちとは違う存在と、こうもあっさりと、馬鹿みたいな内容で会話できるというのがおかしい。ここで初めて、あの一年前に知り合った高校生の気持ちが分かった。刺激が欲しいわけでも、どきどきしたいなんて子供みたいなこともないけれど、ただこうして新鮮な気分を味わうというのもいいものだ。あの男とこんなに話して、結局キレられなかったというのも自分にしては大収穫だ。それでも家に帰って車に乗って、いつもの奴らに会うまでには、煙草の匂いを消しておかなければならない、という重大な仕事があるのだけれど。
最後まで珍妙な顔をした静雄は懐から先ほど貰ったばかりの煙草を一本取り出して、幽から貰ったジッポーで火をつける。最近、やたらと自分に構う人間も多いので、煙草を銜えたままうろうろするのは自重する。ひょんなことで弟から貰った服を焦がすのは避けたい。トムとの待ち合わせにはもう少し時間がある。煙草一本ぐらい余裕だろう。
煙草の銘柄に特にこだわりというこだわりは持っていなかったから、何だって構わないのだけれど、なんとなくうまい気がして、次はマルボロを買おう、と思った。ただ、それだけの話。
2010/2・24