■迷子と鬼
「兄貴を壊したいです」
安っぽい告白だと思った。ドラム缶に腰掛けて、俺を馬鹿にするような視線で見つめ、兄貴は「ああ?」と顔を顰めた。当たり前だ。今の台詞だとただの電波だ。
足元に転がった兄貴がさっき殺した人間の死体は、冬だからか腐敗が鈍い。冷たい空気が肺から入って、吐いた息は白かった。
「兄貴を壊したいです」
「何で唐突に」
「兄貴が完璧だからです」
我ながら阿呆だ。兄貴が好きで好きでたまらなかった。これは崇拝だろうか、愛情だろうか、尊敬だろうか。そんなことはあまり関係ないと俺は認識した。兄貴のことが好きなのには変わりないからだ。震える手から伝わったレンチが、がり、と地面で嫌な音を立てた。
純粋な破壊衝動を飽きるほど兄貴に伝えたことのあるせいか、兄貴はふん、と一度俺を鼻で笑った。しょうがないか、と諦めているようで、ちょっと笑っているようにも見えた。
「やってみろよ、クソガキ」
・・・誘われている?
頭がかっと熱を持ったと思った瞬間、俺の体は既に動いていた。自分で自分にびっくりした。えっ、俺いつ走り出した?周りで見ている人間に聞きたかったが、この場所には既に目が抉られている人間の死体しか存在しなかった。
兄貴は素早くドラム缶から降りると、振り上げた俺のレンチを簡単に避けた。ですよね。今のは短絡すぎますよね。
獣のように身を低くして兄貴が元居た場所で足を止め、振り下ろしたレンチを無理に捻って兄貴の方へと見向きもせずに振り上げた。視界の端で兄貴は頭部に当たりそうになったレンチを上半身を後ろに捻って避けていた。やばい。予想以上に楽しい。
ノーモーションで兄貴の足が俺の脇腹に決まりそうになるのを、レンチを地面に突き立てて筋力だけで兄貴の足から逃げる。一瞬当たってもいいかな、と思ってしまった俺はどうやらマゾになってしまったようだ。大丈夫。兄貴の拳は当たったらヤバイが、足は当たり所がよければそれ程痛くないことを俺は知っている。
腰の後ろから投げる用のレンチ(シャフトに以前レンチはまず喧嘩するときに使うものじゃないですよとつっこまれたが、レンチがなければ俺に何で喧嘩しろというんだと思う)を取り出し、後転しながら兄貴へと投げつける。難なく兄貴は二つとも避けた。兄貴が前俺より弱いなんて公言してたけど、あれ嘘なんじゃないだろうか。
そんなことを思いつつ、避けた事によって視線を一度小さいレンチに移した兄貴の隙をぬって、俺は飛び掛るように跳躍した。再びレンチを振りかざし、兄貴の左肩狙って可変幅方式になっている方を振り下ろす。狙いは正確に、まず兄貴の肩を外すことに成功するだろう。兄貴の拳痛いから、とりあえずまず両腕を使えないようにしよう。そうしたら、後は丁寧に普通の奴らを解体するよりも丁寧に丁寧に丁寧に一つの関節にたっぷり時間を掛けて壊そう。嬉しすぎて笑えてきた。
すると、兄貴の肩にレンチが嵌るよりも早く、レンチが止まった。兄貴の左腕が可変幅方式の口へと嵌められていた。えっ、嘘。マジで?
俺が驚いてレンチを外すよりも早く、ごきっと良い音がした。関節が外れる音だ。兄貴の左肘が変な方向へと捻られている。兄貴が業と捻ったのだ。無理に捻ったせいで、レンチが外れない。ちょっ、やばいんじゃないか?
捻れた兄貴の左腕の向こうで兄貴が凶暴に笑ったのが見えた。ワニとか狼とかよく獣に例えられる兄貴の笑みだが、実際はそんな動物畜生なんかよりもっと怖い。驚きと恐怖と一欠けらの嬉しさ(やっぱり俺マゾなのかな・・・)が湧き上がって、腹部がひくりと強張った。兄貴の握られた右拳が面白いぐらいに俺の内臓にたたきつけられる。血が出るかと思ったが、結局出なかった。押しつぶされた空気と唾液が口から零れた。痛いどころじゃない。これは死ぬ。口を開けていたせいで舌を噛んだ。
俺を殴った右腕が、俺がまだ掴み続けていたレンチを固定して、ふっとんだ俺の手からレンチが離れる。手の中の重さが消えて、色々と大切なものを失った気分になる。
ぴくりとも動かない俺の体が宙を舞って、工場の壁に垂直に激突した。べしゃっと重力のまま地面に墜落し、ようやく俺の動きは止まった。
脳震盪でも起こしたのか、(脳震盪ってどういう症状を言うんだ?)がくがくと体が痙攣したまま動けない。かはっ、と呼吸をしようと息を吐くも、目の前がぐらぐらして仕方が無い。呼吸困難だ。兄貴人工呼吸してくんないだろうか。さっきまで喧嘩してた相手に人工呼吸なんてしないよなぁ、と思いながら、どうにかしようと立ち上がろうとするも、疲労感が体を襲って動く気までなくなってきた。かつ、と兄貴の革靴が音を立てて俺の目の前で止まった。兄貴の右手に握られているレンチが俺の目の前にがしゃん、と大きな音を立てて倒された。兄貴の顔を見上げれば、捻れて腫れている腕を無理に治したのか眉の間の皺が増えていた。服で見えないが腕も動かないようだ。ちゃんと嵌めれたんだろうか?
「気は済んだか、馬鹿野郎」
「・・・ごめんなさい」
謝罪すると、兄貴は呆れたように溜息を吐いて、その場に腰を下ろした。スーツが汚れてしまう、と思ったが今更遅いかと口を閉ざした。兄貴は腕が痛むのか舌打ちをして、じろりと俺を睨む。泣きそうな顔で俺が見返すと、「許されると思ってんのか」と俺の頭をべしりと叩いた。容赦が無かった。
「俺を殺さないんですか?」
「俺は仲間は大切にする男だ」
短い言葉だったが、きっとその言葉に嘘はないのだと思った。俺は一方的に暴れまわってしまったことを悔やみ、すみませんと再び謝った。謝るぐらいならやるなと怒られた。その通りだと思った。
「兄貴」
「何だ」
懐から葉巻を取り出して、兄貴は口に銜えた。
少しして葉巻の匂いがして、俺は溜息を吐いた。吐いた空気は白く、昇って融けた。
「俺に壊されないで下さい」
「じゃあ壊すんじゃねぇよ」
正論だったが、壊したくなるんだから仕方が無いと思った。込み上げてくる幸福に心臓が痛んだ。ようやく動けるようになった手でレンチを握ろうとしたが、それよりも兄貴に触れたく、胡坐をかいて俺に向きあう兄貴の足に手を伸ばすと、先程俺を殴った手がべしりと俺の手を叩き落とした。
「兄貴・・・」
「少しは我慢することを覚えろ」
「・・・兄貴にだきつきたい」
「話聞いてたか?」
聞いていましたが我慢することは嫌いなんです。兄貴だって人殺しするなって言われたらどうするんですか!と反論したかったが、兄貴が俺を見てにやにやと笑っていたので、もう別にいいかと思った。
2008/2・2