■慈愛のその向こう
その部屋の中にはぱちぱちと暖炉の炎が爆ぜる音が絶えない。柔らかな暖かさに包まれるその室内には一人の男がベッドに拘束されたままの少年の頭部を優しく撫でていた。
少年の柔らかな髪は汗と埃でべとべととしており、少年が長い時間その場から動かされていないことが伺える。
両手は目一杯に開かれベッドの両端に縄でくくりつけられており、両足も中途半端に開かれ、まるでベッドに磔にされているようでもある。
少年の目は己の頭部を優しく撫でる男を畏怖の対象として見ており、そして不安げに男の左手に握られている錆びた鋸へと注がれていた。
対して、男の顔は伸ばした前髪に隠れて僅かにしか伺うことが叶わず、しかしその前髪には隠されていない、整った口元は緩やかに微笑んでいた。
この憧憬を見たものならば、頭を撫でてやるよりも先に少年の拘束を取るべきだと思うだろう。事実、男の髪で隠れた双眸は慈愛で満ちており、少年を心から愛するような母親の視線に似ている。
「チェス・・・寒いかい?」
そっと吐かれた男の言葉も、心の底から少年を心配しているような声音だった。事実、ここで少年が寒い、と言えば、おそらく男は毛布を少年の体にかけてやることだろう。
少年の指先が痙攣したようにぴくりと動き、首を微かに振って、少年は「ううん、寒くないよ」と震えた声で返答した。事実、男の言葉は久しぶりにまともな問いかけであり、少年は男が正気に戻ったのかと一瞬この地獄の終わりを信じた。
「そうかい。よかった・・・」
男はそう、言いながら優しく、壊れ物を扱うかのような仕草で少年の頭部を撫でる。しかし、少年が望む通りにけっして少年を拘束する縄が外れることは無く、そして男はゆっくりと空いた手に握る鋸を持ち上げた。
ギザギザになっている鋸の片面は手入れをしていないのか所々錆付いている。明らかに人を殺すべき道具としては二流のそれを掲げれば、暖炉の炎を反射して錆付いていない部分が赤くてらてらと光った。
「フェル・・・メート・・・・・・やめてよ。何するの?」
震える声で問いかければ、フェルメートと呼ばれた男は口だけで優しく微笑んだ。その口から吐き出される言葉が「何もしないよ、チェス」といった悪意の何も無い言葉であれ、と望みながらチェスは言う。どうにかして気を紛らわそうと笑おうとしても、恐怖で引き攣り、まるで泣きそうな表情になってしまう。
「実験だよ。チェス」
それは、いつものように囁かれる答え。不老不死になる前、精一杯手伝っていた実験。
けしてこの行為がその延長戦のわけがないとチェスワフ・メイエルは叫びながら、「やめて、やめてよ・・・」とうわ言のように呟く。
「やめてよ・・・やめてよ、フェルメート」
「何故?」
男は不思議そうに首を傾げながら―――――しかし、口元には笑みを浮かばせたまま、ゆっくり優しく問いかける。
「痛い、から・・・」
何を言い出すのかと顔を強張らせたまま、少年らしい単純な返答を返す。その言葉にふ、と微笑んで、フェルメートは再びチェスの頭を撫でる。
「可愛いチェス・・・痛いというのはね、生きているということさ。チェスが嫌がるのも、生きているからなんだよ?だからチェス・・・・・・・もっと痛がっておくれ」
「なに、・・・・・・・・・っあ!、あ、ああああ!」
何を言っているのかとチェスが口を開くよりも先に、フェルメートの持っていた鋸が振り下ろされ、チェスの手に先端をめり込ませた。激痛が腕そのものを麻痺させ、気を失うかと思うほどの痛みが全身を襲い、絶叫を上げるしかできなくなる。奥歯ががちがちと鳴り響き、反射的に腕を引こうとも、縄で拘束されたため少しも身を捩ることも叶わない。
一度目の絶叫にフェルメートは顔色を変えず、さび付いた鋸をそのまま押し込んだ。刺す形ではないその凶器はチェスの柔肌を切り裂き、乱杭歯になっている刃部分でがりがりとチェスの手の内側に隠されていた骨と神経を削る。
溢れた血がベッドのシーツへと沁みていく。千切れ飛んだ微かな肉片が赤い小さな塊となってベッドの上へと散乱した。
がりがりがり。ぶちぶちぶち。みちみちみち、と肉と骨が荒削りの刃で削れて行く。押しては引き、押しては引き、とまるで丸太を切ろうとでもするかのようにフェルメートの動きの末、断面がまるでずたずたじょうたいで、チェスの手が二つに分断される。錆び付いているせいで上手く切れないのか、残り皮一枚となった時には引きちぎれた肉は紙のように薄くなっており、鋸に引き摺られたせいで糸のようになり、そしてようやくチェスの体から離れた。
絶叫を上げることしかできなかったチェスの喉はひりつき、溢れた涙と口から零れた涎が枕を濡らしている。フェルメートがようやく腕を削ることをやめた頃、ようやくチェスの右手は再生を始めた。シーツに沁みていた血液はビデオの逆再生でも見るかのように浮き出てきて、そして再びチェスの体を構成するためにその手へと終結していく。
骨が合致し神経が繋ぎなおされパズルのピースでも当てはめるかのように肉片が集まり、再び幼子の柔らかな手が構築された。がくがくと、未だ脳髄を揺さぶった痛みと恐怖で震えるチェスに柔らかく微笑み、フェルメートは白々しくも囁く。
「手伝ってくれてありがとう、チェス」
「あ、あっ・・・・あ、あ、」
「嬉しいよ。チェスがいつまでたってもいい子で」
柔らかく微笑む男の声はいつだって優しい。緩やかに囁かれるその言葉の凶器は、確実に少年の心臓を抉っていく。
「ふぇ・・・・・ふぇる・・・・・・」
がちがちと歯を鳴らしながら、チェスは一人しか居ない加害者の名を呼んだ。その声には恐怖も怒りも無く、ただ救いと絶望のみが籠められている。
「右手で私達は殺されてしまうんだよね」
「はっ、はあっ、・・・・・・お願い、もうやめて・・・」
チェスの声を聞いているのか聞いていないのか、にこやかに笑ったまま、フェルメートは笑った。慈愛の籠められた笑みはかつてチェスが怖い思いをした後一緒に眠ってくれたり、手を繋いでくれた頃のフェルメートの笑みとなんら変わりは無い。
「チェスの可愛い右手を切り取って箱に詰めてしまえば――――チェスから怖いものなんてなくなるね」
それは慈愛ではない。フェルメートは身を竦めるチェスの頭を右手で撫で―――――目の前の子供が愛しくて溜まらないとでもいうかのようににっこりと笑った。
「冗談だよ。チェス」
いやだ――――――嘘だ。嘘だ。この男は―――――――。
チェスは溢れ出る涙を止める術を知らず、ただ目の前の男の笑みが見たくなくて、硬く目を閉じた。暗闇が覆う世界の向こうで、地獄のような優しさで笑う男が囁く。
「大好きだよ。チェス」
フェルメート―――――――・・・!
もはやこの男はかつての愛した男ではないのだ。痛みと恐怖は確実に、チェスの体を切り刻むよりも確実に、チェスから人を信じるという縋る行為を奪っていく。
2008/1・27