■ブログ短文集


■クリグラ

骨ばった手がテーブルの上を這って、一瞬で握り拳を作ると真っ白い卓上にだん、と勢い良く叩きつけられた。その骨と爪の繋がりを眼で追っていたクリストファーは内心驚きながら、むすっとした顔をしているグラハムの顔をやる気のない顔で見た。
「俺は腹が減った!」
ベタな亭主関白の家の父親のような台詞である。その台詞を臆面なく堂々と言い放った好青年の正面に足を組んで座ったまま、クリストファーは「へぇ、初めて知った」といけしゃあしゃあと返答する。
「お前は目の前で腹を空かして絶望の淵を彷徨う人間に対してそういう態度を持って接する冷血漢だったのか?これは驚きだ。お前、マドレーヌが得意らしいじゃないか」
「君、普段と口調違うよ」
いらぬことまで過剰に表現する男の台詞が普段とは違う、むしろ大事な部分を飛ばしている台詞へと変貌している。驚きだって、僕が冷血漢だったこと?それともマドレーヌが得意なこと?その言葉すら理解不能だ。
「腹が減っているから舌が回らないんだ」
「舌が回らないっていうのは所謂呂律が回らないって意味で、舌噛んじゃうって意味だよ?」
「はりゃがへっているかりゃ、舌がまわりゃん」
「君さぁ・・・」
厭きれて物も言えぬ。
このでたらめ男がやってきたのは今からつい5分ほど前である。相変わらず馬鹿みたいな青い作業着に身を包んだ男は巨大なモンキーレンチを肩に担いでクリストファーが読書に勤しんでいたリカルドの私室に唐突にやってきた。
以前のようにレンチを投げてくるだろうか、と静かに本を閉じると、グラハム・スペクターは真顔のまま「兄貴はどこにいる?」とはっきりとした口調で問いただしてきた。
クリスは、グラハムが熱愛中の「兄貴」というのはリカルドの親戚に当たるラッド・ルッソのことだろうと考え、素直にリカルドと共に応接室に置く椅子の調達に出かけた旨を伝えた。その結果が、今の状況である。
「君さ、ここに何しに来たの?ご飯食べに来たの?」
「もちろんだ」
お門違いであろうとあきれた声音でクリスが聴けば、グラハムは頷きながら肯定する。は?とクリスが顔を歪めると、グラハムは小首を傾げながらクリスを睨んだ。
「なんだ、お前兄貴の料理が上手いことを知らんのか?ふん、良い機会だ。嬉しい、嬉しい話をしようじゃないか。何が嬉しいって兄貴の多才な部分を無知な奴らに教えることができることであったり、そして兄貴の多才な部分を知っている俺の幸福を噛み締めることであったり」
「いや、それはいいよ。リカルドからある程度は聴いてる」
長々と語り出しそうなグラハムの台詞を留め、クリスは思い出す。かつてリカルドが洩らしていたことだが、ラッドは「不味いもんは喰いたくねぇ」という我侭っぷりで、リカルドと二人邸宅で暇をしていると、まさに男の料理といった大雑把だがそれなりに美味しい料理を作ってくれるという話である。
「で、君はそのラッド氏にたかりにきたんだ」
「イエス・オフコース」
びしっ、とレンチの切っ先をクリスの鼻先に突き出し、グラハムは凶悪に笑う。
「と、いう俺の計画も兄貴が出かけちまったことで水泡のように消えてしまったわけだが・・・ああ、悲しい、悲しい話だ・・・・・・・・・・・すごく腹が減った」
「短絡的で良いと思うよその話は」
ぐでーっと白いテーブルに突っ伏す男を嘲笑い、クリスは席を立った。その姿を目で追い、グラハムはん?と眉根を顰めた。
「なんだ、ご飯作ってくれるのか?」
「何で僕が君のために奥さんみたいな真似しなくちゃいけないのさ」
呆れ声を上げながらクリスは部屋を後にした。
マドレーヌを焼こう。帰ってくるリカルドのために。
もしもその最中にあのいけ好かない青い野郎が惨めに頼んできたら、一個ぐらい恵んでやらないこともないけれど。
兄貴の料理の上手さを、という台詞だけがやけに頭から離れないことに、嫉妬というよりラッドへの敵対心だろうと心に刻み付けて、クリスはしばらくキッチンに引きこもることにした。



■リカラド

右手を動かす。リカルドが机の上に投げ出された万年筆へと伸ばし、その指先がつるりとした表面に触れると、一瞬頭が麻痺したかのような感覚に襲われた。
なんてことはない、微かな違和感である。しかし今はこの違和感が、少し息苦しい。
祖父から誕生日祝いに貰った黒檀の万年筆は、ただ沈黙したままだ。幼いリカルドの指に持ち上げられても、不平もなければ歓喜の声も上げない。万年筆になりたいな。リカルドはそう思った。
脳の奥のほうで、リカルドの思考を一笑する誰かがいた。シャムだ。リカルドは鉄面皮のまま、机の上にある便箋を押さえ、名義を記し、手紙を書くために紙の上へと筆の先端を走らせた。宛先は一年も前に会ったっきりの、NYに居る親戚の老婆である。「こんにちは。お久しぶりですね」心にもない言葉だ。シャムの笑う声が聞こえた。
一度息を吸って、吐く。手は相変わらず自分のものではないかのように重く苦しい。自分が捨てたこの体を、シャムは拾ってくれなかった。体にこびりついたリカルドの思考と概念だけが、今やこの体を操っているようである。
それだったら、良かったのに。
こんな苦しい体から離れて、今すぐにでも、どこかへ行ってしまいたい。
リカルドは万年筆を握り締めて、動きを止めた。頭の中はぐるぐると、思考を続けているのかいないのか、回転を続けるだけで忙しない。この体なんて、たいしたものではないというのに。息が詰まる。
首を横に向ければ、リカルドのベッドの上で横になる男がいた。仰向けになって目を瞑っているラッドの足は、ベッドから突き出ている。リカルドが黙ってラッドを見れば、「何も書かなくていいんじゃねぇの」と、投げやりな声を突然発した。
「起きてたんですか」
「寝てるように見えたか?目を瞑ってる奴が皆寝てると思ったら大間違いだ」
「そうですね。死体だって目を瞑っていますが、眠ってるんじゃなくて死んでるんですもんね」
リカルドが溜息混じりに万年筆を机に置けば、にやりと口を歪めて、ラッドが上半身を起こした。獣染みた狂気を孕んだ目玉が、じっとリカルドを見る。ベッドのスプリングが悲鳴を上げて、リカルドは一瞬、自分が殺されたものかと思った。
「何も書かなくていいとは?」
「その言葉の通りだ。手紙を出さなくてもいいだろ、と言ってんだよ」
ラッドの粗野な言い方に、リカルドは内心うきうきしながら、冷静に言葉を返した。ラッドの目は彼の叔父が命令する仕事の時と同じような色を宿している。運がよければ、殺してもらえるかもしれない。リカルドは思った。
「昨日来た手紙には、返事を書いてと書いてありました」
「命令には忠実になるのか?」
「命令ではなく、あれはお願いです」
「お願いなら何でも聞くのか?」
ラッドの言い方はつまらなさそうである。リカルドは子供を見ているような気分になって、一度小さく笑った。
「ラッドさんは」
言葉を切って、やめる。
微笑んでいるリカルドを訝しげに見ているラッドに、真正面から目を合わせ、リカルドは教え込むように囁いた。
「ラッドさんがお願いするのなら、俺はキスだってハグだってなんでもしてあげますよ」
「はぁ?」
「構って欲しいんでしょう?」
「・・・アホか!」
リカルドの柔らかな声に一度瞠目し、ラッドは一瞬止まり、怒鳴るように叫んだ。
「訳分からんことぬかしやがって、グラハムの野郎に悪影響されてんじゃねぇだろうな」
「そうですね」
ぶつぶつ言いながらごろりと再びベッドの上に横になるラッドの背中を笑って、リカルドは手紙に3文程度書き加えて、丁寧に折りたたみ、便箋に入れた。万年筆を引き出しにしまい、不貞腐れた従兄弟の背中に、ゆっくりと歩み寄る。
殺されたがってる人間にしては悪趣味だと思いながら、そっと男の背に手を這わせ、ごろりとその横に寝ころがった。重量オーバーだ、とベッドが泣き喚いたが、たまには苦労する事だって必要だろう、と思って黙殺した。脳の奥で、シャムがなんて酷い奴、とあきれた声を上げている。





■あんたのいる世界の何て美しいこと!(グラッド

 廃工場の中の、薄暗く埃っぽい空気を胸いっぱい吸い込んでも、気分は心が洗われるかのようだった。少しだけ開いた扉から覗く真っ赤な夕焼けが柔らかだ。夜を映して雲は少し紫がかっている。歌を歌いたい気分だった。
 寝転がった兄貴が銜えているもうすぐ消えて無くなりそうな短い煙草から、重く垂れた灰がついに落ちた。ゆらゆら揺れる煙が、ゆっくりと立ち昇っていく。
 今寝転がっている兄貴の上にのしかかって、キスしようとしたらどうなるだろう。きっとこの人のことだから、反射的に煙草を俺に吹いてくるに違いない。手の甲か頬に当たって悶絶する自分が想像できた。根性焼きは痛そうだから嫌だ。
 それでも、一度考えるとどうしても行動に移りたくなる。生粋の馬鹿らしい。俺は。気になる兄貴の唇を覗こうと上半身を傾ければ、相変わらず冷たい色をした眼球が俺をかち合った。ぷっ、と兄貴が煙草を吐き捨てる。溜まった灰だけが鉄骨の上に残って、飛んだ惨めな煙草はアスファルトの上に落ちた。
「なんかしたか」
「キスがしたくなりました」
「そういうのは女とやってろ」
 相変わらずラッドの兄貴は冷たい。商売女は唇は守ろうとするんですよ、と言えば、んな在り来たりな臭い小説みたいなことねぇよと一蹴される。確かに、体は許すのに唇を守るというのは本末転倒かな、とも思った。唇にどれほど重きを置くんだ、女ってのは。
「それほど重要なんですかね、唇」
「嘘しか吐かねぇくせしてな」
 くっ、と笑いを噛み締めるようにして兄貴が笑った。惨めな女達を嘲笑っているのだ。世界中の女性を嘘吐き呼ばわりするなんて相変わらず傲岸不遜である。こういうところを見習いたいとは思わないが、かっこいいと思う。
「じゃあ兄貴は俺に唇を許しますか」
 恥ずかしくて少し笑えた。アホか、と兄貴は目を細めておかしそうに笑ってくれたが、俺は俺で気が気じゃなかった。夜が近づいている。この暗闇の中、どれ程貴方に近づけるだろう。どれ程貴方を奪えるだろう。




■恋する女の人は美しい(ルアラド


 五つの爪はタイルのようにつやつやとしていて、その生白い肌で構成された細くなめらかな曲線を作る腕が伸ばされた瞬間、それに見惚れた。何か、人間ではない、もっと清らかで美しく、汚れの欠片もないものに見えるのだ。それは音も立てずに自分の首の後ろへその手を伸ばした。冷たく、柔らかな指先が自分のうなじに触れた。引き寄せられるように撫でられる。ラッド、と淫靡な音が空気を振るわせる。女の唇が少し動いて、笑みの形を作った。金色の艶やかな睫毛に縁取られた眼球の、怜悧な光りを孕んだ碧が、揺れる。あいしているわ、と女は言う。はやく、私をあやめて、と、誘うように声が零れた。たまらずその白い首に噛み付けば、むしろ首を喰いちぎってくれと言わんばかりに、うなじに這わされた女の手が、俺を抱きかかえた。むせかえる、花と血の匂いがする。

2009/9・30


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