■彼を愛した全ての者は何を想ったのか
兄貴の声は低い。だみ声の一歩手前みたいな声をしている。殺す相手を脅す時に、わざとだみ声を出す時だってあるけど、そういうのを簡単に出せれるぐらい、低い。脳味噌に響くバスの音を零す。俺はそれが好きだった。
少し、兄貴がいらついている時。座った兄貴が俺を見る瞬間。銀色の前髪が微かに揺れて、伏せられた瞼が開く。短い睫毛の向こうから、青い、冷たい視線が俺を穿つ。眉間にみるみるうちに皺が寄せられて、少し、厚い唇がゆっくりと開いて、白い歯列が覗く。そして赤い舌がちらりと覗いて、一言。
「グラハム」
名前を呼ばれるだけで、俺の背筋にはぞくぞくとした快感が走り抜ける。脳髄まで痺れるそれ。綺麗な女に首に腕を絡みつけられて、耳元で睦言を吐かれる時ぐらいにいやらしい。兄貴と俺の間は、1mも開いてるっていうのに。
「はい」
にやける顔を止められない!ふにゃふにゃと頬が緩むのを感じながら、俺は返答する。もう一度名前、呼んでくれないかな、と願いながら。兄貴はその蒼い双眸を俺から逸らして、もう一度瞼を伏せた。何か考え事でもしてるみたいだ。中央で少し両側に開けた前髪の間から覗く額を見て、俺はゆっくりと上半身を折った。
兄貴はドラム缶の上に腰を下ろしている。その手前に俺が立っている。兄貴の頭と俺の頭の高さの差は大体30cmぐらい。少し上半身を傾けると、すぐに兄貴に届いた。掠るように兄貴の額にキスをすると、すっと兄貴が身を引いた。見開かれる青の目。俺と視線を絡ませる。
この一瞬が永遠に続けばいいのに、と思った。あにき、と俺は呟いた。誰も居ない廃工場の中、そのささやかな声があまりにも大きく聞こえる。すきだ、すきだ、すきだ。愛してます。
兄貴は何も言わず、黙って俺を見た。俺の大好きなその蒼色の眼球が、黙って俺を凝視するので、頬がかっと熱を持った。耐えられず、俺は両手を兄貴の両頬に添えた。そして、もう一度キスをする。
額に唇を押し付けて、次に鼻の先端を啄ばむ。愛しい右目の瞼にキスをして、その反対側の左の瞼にもキスをした。両頬を包んでいた手をすっと首の方へずらすと、ぎくりと兄貴の体が強張った。首を絞められることを想像したのだろう。俺は少し笑って、兄貴の頬にキスをする。
「俺に、兄貴は殺せません」
「はぁ?」
「俺は、兄貴に殺して貰わなきゃいけないので」
くすくすと笑って、今度は兄貴の逆の頬にキスをする。最後に兄貴の唇に、自分の唇を押し付ける。顔を傾けたのに、歯がかちりと触れ合った。がち、と嫌な音を立てる。そうか、この人犬歯が長いから。幼稚なキスに笑いが込み上げてきた。無視して舌を兄貴の中へと侵入させる。歯列をなぞって兄貴の舌に絡めると、兄貴が眉根に皺を寄せた。くふ、とくぐもった笑いが零れる。舌を伸ばしているから変に間抜けな声が出た。
しばらく、兄貴の口の中を堪能した。生暖かい口内をすみずみまで舌で探れば、少し苦しそうな声が零れて、兄貴の手が俺の背中を掴んだ。離れろ、ってことらしい。大人しく従って、ようやく口を離すと、苦々しげな顔の兄貴が俺を睨んでいた。
「いいじゃないですか。キスぐらい。・・・・・ルーア姐さんにもやったんでしょう?」
「なんでそこにルーアが出てくるんだよ」
「嫉妬だから、に決まってるじゃないですか」
この人の愛した全てのものが妬ましい。羨ましい。憎らしい。しかしそれでも、兄貴が愛したものはとても美しいものだということを知っている。だって兄貴が愛したものなのだ。美しくないわけがない。
醜く張り裂けて内臓を露出する人間でさえ。
美しい。愛しい。優しい。
壊してやりたい。
解体してやりたい。
解体して、兄貴が慈しんだ部分だけを奪い取ってやりたい。
それができたら、俺の大切なものは兄貴に慈しまれたすべてのもので構成される。なんて素晴らしい出来事!
「兄貴」
俺が縋るような声を上げて兄貴の前に傅くと、兄貴は少しだけその目に哀れみの色を浮かべた。
俺の我侭を許して、今すぐ俺に慈悲を。
にやける俺の頭を撫でて、兄貴は優しく微笑んだ。貴方のために何だって壊してみせる。俺の命ですら祈りですら優しい恋でさえも。
「あいかわらず馬鹿だなお前は」
馬鹿で結構!すべては俺と貴方のためです。俺は笑顔で兄貴のごつごつとした人殺しの手にキスをする。王子さまみたいでしょ?兄貴はばぁか、とおかしそうに笑ってくれた。
2009/4・19