■祈りの答え
あにき、と温度を求めて唇が喘いだ。ソファに沈めた男の体は、抵抗の意思を見せず、静かに革張りの柔らかなクッションに沈んでいる。スーツに皺がつく、と真っ青な作業服に身を包んだ青年に押し倒された男は思った。長い金髪の間から男に注がれる視線には熱が篭っており、同時に狂気を宿している。青い、アクアマリンの眼球は男から目を逸らさないくせに、顰められた眉が青年が狼狽していることを如実に語っていた。
これからどうするんだ?と男は聞いてしまおうかと思った。己を押し倒した癖に、青年は殺される寸前の無様な人間のように怯えていたし、男の無骨な手に絡んだしなやかな手はじっとりと汗ばみ、微かに震えてさえ居た。
「あにき、あにき」
青年は男の上に馬乗りになって、腹の上に腰を下ろしている。一見華奢に見えるくせに、青年の足はがっちりと男の体を固定している。ただその眼球と弱弱しい声だけが、その体から切り離されたかのように男に哀願していた。
「あにき」
青年が、ゆっくりと男に顔を寄せた。二人の額がごつりと合わさり、青年の細い金糸の髪が男の頬を撫でる。引き攣った声が、熱い息と共に男の唇に掛かった。
「どうした?グラハム」
鼻と鼻が触れ合うほどの至近距離で、男の濁り冷たく青い眼球と、青年の透き通り熱く蒼い眼球がその視線を絡める。男はまったく怯んだ様子も無く、怯えきった青年の目を見返す。
「あにき」
青年は怯えていた。恋焦がれる対象である男に対して絶対的優位な位置にいながら、それでもまったく怯える様子も見せない男に、今すぐにでも離れて地面に額を擦り付けて謝罪したい気分だった。おそらく舎弟である己に組み伏せられた男は怒りのため己の惨めな脳味噌しか入っていない頭を踏みつけるぐらいのことをしてくれるだろう。むしろそれを望むほどである。いっそ、今すぐに口汚く罵って、自分のことを切り捨ててくれないだろうか、と願った。
きっと自分は悲しくて、三日三晩泣き続けるだろう。食べ物も食べられなくなって、廃人のように死んでしまうに違いない。それぐらい男のことを崇拝していたし、同時に恋といっても過言ではないほど、男のことが好きだった。
だから、自らが招いたこの状況下、恐れ多くも男を組み伏せた己が憎くて憎くて仕方が無かった。もしもここにもう一人自分が居たならば、愛用のモンキーレンチで己の頭部を破壊してほしい。ラッドの兄貴になんてことをしやがるんだ糞野郎と、破裂した頭部を靴底で踏みつけてほしい。
それほどまでに自分が憎い。それなのに、どうして離れられないのだろうか。かちかちと奥歯が鳴ってしまいそうなほど、目の前の男が怖いのに。
青年の震えた唇が、ゆっくりと男の唇に押し付けられる。顔を少し斜めに傾けて、一度だけ、ただ肉と肉を押し付けあうだけの口付けが交わされる。青年はきっと離れる瞬間、男が牙を向いて噛み付いてくるのではないかと思った。きっと頬の肉でも喰いちぎってくれるだろう。そしてそのまま、己の肉を食ってくれないだろうか、と思った。己には相応しい罰のように思えたし、しかし同時に至福だと思った。自分の一部がこの男に搾取されるという事実が、この身に勝る光栄だと思った。もちろん、文字通り。
そういえば、どうして押し倒したのだろうか。絡んだ手が痙攣して、人差し指がびくっと動いた。意識していない動きだったので、きっと己の頭以外は全て自分のものではなくなったのではないかと思う。どうして押し倒したか?そう、この男の目が。この男が俺を見たから。
ゆっくりと顔を離しても、予想していた痛みが襲ってこないので、再びあにき、と泣くような声が青年の口から零れた。堪えきれずに青年の眼球からぼとぼとと涙が男の頬へと墜落する。
「あにきがすきです」
子供がひゃっくりを上げながら言うような声だった。妙に引き攣っていて、青年の喉がきりきりと痛む。嗚咽を上げる青年を無感動に見返し、男は静かに「知ってるよ」と答えた。
「あにきがすきなんです」
「知ってる」
「あにきは」
絡めた手を離し、青年は己の顔を掌で覆った。絶えず溢れる涙が、あっという間に掌を濡らしていく。静かな室内を、青年が洩らす嗚咽だけがゆっくりと満たしていた。
青年は、今よりもっと幼い頃、人間が全て機械で作られていたらいいのに、と思っていた。姉に連れられてやってきた商店街で、行き交う人々を見ながら、こんなに一杯の人が全て機械でできていたら、さぞ壊しがいがあるんだろうなぁ、と思っていた。その夢はその数年後もずっと持ち続けていた。流れ星に願ったことすらある。そのことを男に語ると、男はそれじゃ殺せねぇだろと嫌そうな声で言ったので、青年はその夢を捨てた。
青年はそれがどんな感情なのかよく知らなかった。少なくとも、青年が今まで願い続けた全ての事象よりも、男の一言を優先するぐらいは軽いことだった。何よりも男を優先した。それは宗教ですよ、と舎弟に言われても、むしろ偉大な男を心から崇拝できる己を祝福した。男と関わること全てが至福だった。
「おれをころしてくれますか」
その声で嘲笑ってその掌で殺して、今まで貴方に殺されてきた人間の一人の中に収めてくれますか。なんだっていいんだ、貴方に一瞬だけでも愛されるなら。だって愛を持って殺してくれるんでしょう、やさしくころしてくれるでしょう。
「グラハム」
「おれをころしてくれますよね」
あなたのために夢を捨てた。願いを捨てた。あなたのためだけに祈った。あなたを思って祈った。神さまだって、ほんの少しだけでも慈愛をくれるはずだ。
誰よりも尊大だって身内に優しいあなたなら、きっと祈りは汲んでくれるでしょう。青年は泣いた。噛んだ唇から血が溢れて、その口の中を鉄錆の味で満たした。
「あなたがすきです」
ただこの思いに欠片でいいから答えて欲しい。その答えが貰えるのなら、貴方から貰える死だって、愛の告白に違いはないはずだ。
2009/3・27