夜の中を漂っている。ひんやりと冷え切った空気は、どろりと重く濁っていて、身体に絡み付いてくる。腕を動かすのも足を動かすのも億劫で、瞼でさえ動かしたくない。開けたくない。
それは、ただひたすらに、開けるのが辛かったのか、
それとも、目を開けて周りを見たくなかったのか。
分からないし、分かりたくもない。
逃げているのか、それすらも、知りたくない。気づきたくない。
の、かも、しれない。
(おれ)は、何故かそれらの事象が分からない。まるで、自分の体が自分のものでないかのような錯覚を覚えている。
大切なものが、どこかに消えてしまって、その残り滓である(おれ)は、ただどろりと重いこの空気の中で何もできずに漂っているだけだ。
しばらくして、遠くから人の声がした。知らない、女の声だ。母親のものでもないし、無論、妹のものでもない。
妹の声だったら、とそこで思った。この声が妹の声だったらよかったのに。
あのことが、あの怖ろしいことも、妹がいなくなってしまったことも、全てが悪い夢で。
父にも母にも何も起こっていない、平穏で平凡な、そんな日常が繰り返されているだけで。
それなら、どれだけよかっただろう。
「レック」
女の声は(おれ)を呼んだ。
「起きなさい。貴方は目を覚まさなければいけない」
重苦しい空気の中、女はそう呼びかける。優しい、母のような声だったが、その声は母のものでない。美しい、まさに精霊や妖精の類の発する、神聖な声だった。
(おれ)は、導かれるように片手をゆっくりと持ち上げ、その声の持ち主を探してその手を伸ばした。誰だろうか。暗闇の中、誰かが(おれ)の手をとった。
「目を覚ましてはいけない」
今度は男の声だ。精悍な、勇気に満ち溢れた力強い声。しかし、その声は何故か(おれ)を酷く不安にさせた。聞きなれているはずなのに、何故か不思議な声だった。
「目を覚ましたら、お前は不幸になる」
それを何故お前が決めるのか。お前は未来が分かるのか。(おれ)はそう思いながら、何故か瞼を開けることができない。どろりと濁った空気は濁流のように(おれ)を飲み込もうと突然蠢き出した。冷たい空気は蛇のようにその肉体を(おれ)に押し付け、蛇の甘言のように(おれ)に囁く。
「目を覚ましてはいけない。周りを見なければ、僕たちは幸せになれる」
気が付けば、女の声はどこかへ消えて、(おれ)の耳に囁く声は男だけのものになった。ただ、先ほど(おれ)の手をとってくれた手は、柔らかで華奢だ。恐らく、先ほど(おれ)に目を覚ますよう促した女のものだろう、と思った。
温かい。
手に触れたその手は、春の日差しのように暖かで、母のぬくもりのように温かだ。冷たい空気に身を曝す中、その熱が、俺を導いた。
「貴方がまだ、大切なものを守ろうとする気があるのなら」
貴方は目覚めなければならない。
断言するように女は言った。
俺はそこで、ようやく目を開ける。
夜はいつの間にか開けて、遠い地平線から太陽が昇っていた。柔らかな緑の覆い隠すなだらかな丘陵の上、俺と彼女だけが立っている。彼女は初めて見たというのに心から憧憬の念が溢れるほど美しく、そして母にどこか似ていた。
「ついに朝が貴方のもとに訪れました」
彼女はそう言って、静かに太陽へ目を向ける。人間よりも高位に存在する彼女はそれをそっと眩しそうに見やると、さあ、行くのです、と俺を送り出す。
「悪夢はまだ覚めませんが、貴方の夢も永遠に覚めないものなのです。恐れることはありません」
彼女は身を引いて、俺に道を明け渡す。人の踏んだ後の無い、柔らかな草原に一歩踏み出すと、遠くから誰かが俺を呼ぶ声がした。顔を上げる。朝日が逆光になって、眩しくて、その顔を見ることはできない。
「レック、さあ、」
また、一緒に旅に出よう。
俺はその6つの影に向かって走り出し、彼らに向かって手を伸ばす。
2010/1/28
機織りの仕事を終えて外にでてみると、まだ日が落ちていなかった。柔らかい橙色の夕焼けが、とおくの山肌を温かく包んでいる。背の方から吹いてきた冷たい風と、その柔らかな日差しを浴びて、ターニアはふと、母のことを思った。自分の幼い頃にしんでしまった母。布を重ねた中に抱かれ、優しい子守唄でまどろむ。あの美しく尊い日々。
「ターニア、風邪をひくよ」
「はぁい」
機織り小屋の管理をする老婆が、扉に鍵を掛けながら言った。寒そうに肩にかけた手織りのケープを、皺がれた手で寄せる。おお、寒いねぇ、と呟きながら、普段の蒼色のワンピースを着るターニアを眩しそうに見た。
「ターニア、そういえば」
「さようなら。早く夕飯の支度しなきゃ」
老婆が声音を変えて、囁くように声を掛けると、ターニアはぱっと持ち前の明るい笑みを零しながら、その場から逃げるように去った。老婆の声から逃げるように、あっという間に坂を駆け上がっていく。
ライフコッドは夜になると人通りが消えるため、家屋の灯りだけが頼りになる。そんな暗い中を人が出歩くには危ないからと、多くの人は夕暮れには帰路に着く。ターニアのその背に声を掛けようかと躊躇いながら、老婆はそれを諦め、肩を竦めながら家路についた。
家の中に灯りがついていないから、ターニアは彼が帰っていないものだと思っていた。夕暮れといえどすでに室内の中は禄に見えないほど薄暗い。それでも人のいる気配だけはあったから、ターニアは中に入って、しばらく暗闇に目を凝らした。
「おかえり」
ぽつ、と雨が一粒落ちたかのような他愛もない声が、暗闇から零れた。ターニアは肩から力を抜いて、「ただいま」とほっとしたように答える。
目が慣れてくると、どうやら彼は部屋の中央にあるテーブルに肘をつけて、椅子に座って何か考えに耽ているようだった。彼はしっかりとした年頃の青年の癖に、何かと細かいことは自分で動かない。それはただだらしがない、とも言えたけれど、彼にはそれを補って余りあるほどの高貴さというか、当たり前の血筋の良さが伺えた。そう。王子様、なのだ。この人は。
「灯り、点けないの?」
「ああ――――ごめん、忘れてた」
うかつにも、ただぼんやりしていただけで、彼は慌てて立ち上がる。そんなところに庶民のような、自分とそう変わらない存在なのではないか、という錯覚を受けてしまう。
「早かったんだな。もう少しかかると思ってた」
「うん、今日は早く終わって。お兄ちゃんも早かったね」
「ああ、うん」
見れば、部屋の隅に彼の切ってきた薪が詰まれている。別にやって欲しいと頼んだことではないが、ここに住ませてもらう身としては、働かないと居心地が悪いと、自ら買って出てくれたのだ。ただでさえ村の人に白い目で見られているのだから、少しぐらい働かせてくれと。ターニアはそんな真摯な男に全幅の信頼を寄せていた。だからこそ留守は任せることも、もう当たり前のようになっていたし、彼もそれに応えるようにただターニアに尽くした。ターニアが「お兄ちゃん」と呼ぶことも、当たり前のように許容したし、それを鬱陶しがる風もなかった。
「いいよ。私がやる」
ターニアは手馴れた手つきでさっと室内に灯りを灯した。ランプにつけられた明かりが、段々と室内を明るく照らしていく。そこでふと、ランプの明かりにうっすらと照らされた彼の頬に、朝は見なかったはずの擦り傷ができているのに、ターニアは気づいた。
「それ、どうしたの」
「それ?・・・・あ、ああ、これか」
すっかり忘れていた、とでも言うように、彼は自分の頬を触り、「いや、全然大丈夫だよ。傷なんてない。皮がむけてるだけだ」と慌てて弁明する。灯りに照らされたターニアの怒った顔が見えたんだろう。
「ほら、触ってみてもいいよ。傷なんてない」
彼はそう言ってターニアに頬を見せ付けた。見れば、皮が痛々しくズルむけているのに、中の肉が見えているわけでも、血が見えているわけでもない。ターニアは直感で、彼が、いつものように自分に気づかれないよう、魔法、で直したのだろうと思った。実際ターニアが見たことは無かったが、彼はそんな力を持っていた。元は旅をしていたのだ。当たり前だ。
「ランドにやられたんでしょう」
「いや、違う。慣れない山道で、滑って転んだんだ。動物の糞を踏んじゃってさ、あ、服は汚してないし、靴もちゃんと、入る前に洗ったよ」
「見てたんだから」
「・・・・あ、・・・ええと」
実際は見ていないけれど、そうターニアが言えば、途端、彼は言葉を無くしてどもった。強い光をたまにみせる目は、ターニアからそらされている。
「ほら。嘘。どうしたの、突き飛ばされたの?どうしてランド、貴方に酷いことするのかしら」
「・・・・・・・・ランドは君のことが大切なんだよ。僕が君に酷いことすると思っているんだ。まして、好きな子の同じ屋根の下に、突然やってきた素性も分からない男を住まわせるなんて、普通許せないよ」
「そんな!・・・・・ランドがそんなことは、無いわ。どっちにしろ、暴力を振う人は、嫌い」
彼はふっと微笑むように、自嘲するように笑みを零した。
「僕の方が乱暴者だよ。今までどれほどの魔物を倒して、人を傷つけてきたか、分かったものじゃない」
「貴方の場合は守れなかっただけでしょ!貴方が傷つけたわけじゃ、」
そこまで言って、ターニアははっと口を手で覆った。すぐ、ごめんなさい、と泣き出しそうな声を上げる。健気な優しい妹の姿を見つめ、彼は「ありがとう」と言った。
「ごめんなさい、こんなこと、言いたかったんじゃなくて」
「分かってるよ。ターニア、君は何も悪いことなんてしてないじゃないか。泣くのはやめてくれ」
ただ貴方は頑張っているだけなのに、とターニアは心の中でひたすら泣いた。私が彼の本当の妹だったら、もっと彼の気持ちが分かってやれたのに。そう自分を詰った。涙で濡れた視界の端で、ためらいがちに伸ばされた彼の手が、そっとターニアの頭を撫でた。怯えるような、申し訳無さそうな、そんな酷く優しい手つきで、ターニアは母の手つきを思い出して、また酷く泣いた。
2010/01/30
歴史によって築かれた荘厳さと美しさを兼ね備えたレイドック城の中庭は、今や人々の笑い声などが途絶えない。町の方は空の暗ささえ吹き飛ばすかのように炎が赤々と燃え、多くの人々が平和の喜びに踊り明かしていた。
しかし、その喧騒さえ遠くに聞こえるほど分厚い石の壁で作られた城の中は、まるで鏡のように正反対に物静かである。煌々と輝く月灯りが、城の中まで届き、炎の灯されていない廊下を静かに照らしている。
「お・・・?」
酔いが回ってきた頭を振りつつ、水を貰うために厨房へ向かっていたハッサンは、一人廊下に立ち外を見ているレックを見つけた。ムドーとの戦いによって深々と傷つけられた怪我はもう跡を探すのさえ困難なほど治ってきているが、疲労によって作られた内側の傷は未だ癒えていないらしい。レックが常に背負っている剣は彼の両親の寝室に置かれていて、その肩にかけられる比重は取られている。しかしレックの顔に浮かぶのは疲労の影で、窓に置かれている手も良く見れば左手だった。力なく垂れている右手からはグローブさえとられていて、珍しく素手が露になっている。
「ん」
小さく零したハッサンの声、いや呼吸に気づいたか、レックは無駄のない動きで振り向いた。ハッサンの姿を見つけると、きょとん、と目を丸くして、「もう酔いつぶれたのか?」と不思議そうに聞いた。ハッサンの酒豪ぶりを知っているからこその、驚きの声だった。
「まさか。でもまぁ、町の奴らと飲み比べしたから、結構回ってるけどな。でもよ、明日からもう旅に出るんだろ?自分探しに。明日になって二日酔いで全滅、なんてできないからな」
「確かに」
はは、とレックはハッサンの冗談に笑った。少し近づくと、レックの立つ窓の出っ張りに、グラスに入った酒があった。そうだ、レックも酒は飲めるのだったか。
「一人で月見酒かぁ?寂しい奴だな。今からでも遅くねぇし、あっちに行ったらどうだ?すぐ潰されそうだが」
「いや、さっきまで居たんだよ。あっちに。ちょっと酔った振りして逃げてきたんだ。といっても、実は結構酔ってる」
「ふーん。ヒーローは大変だねぇ」
「ハッサンも、ミレーユも、というか、皆もだろ」
「でもレイドックの連中にとっちゃ、王子さまご一行だからな。お前がヒーローで、つまり俺達はその取り巻きだし」
「拗ねてるのかよ」
「まさか。むしろ助かったと思ってるぜ。お前みたいに四六時中ちやほやされまくったら、流石に疲れそうだしな」
肩を竦めて笑うように言えば、静寂が突然訪れた。静かな廊下で誰か片方が言葉を止めればすぐ静かになるのだから仕方がない。が、ハッサンは居心地の悪さを感じてレックを見た。レックはグラスに入った酒をぐいっと飲み干すと、は、と笑った。
「ハッサン、ハッサンはいつになったら実家に帰るんだ?」
「・・・なんだ突然」
触れて欲しくない部分にあっさりと踏み込んできたレックに対して眉間に皺を寄せると、レックはごめん、と零した。
「なんだか、つかれた」
ムドーを倒して帰還して、すぐにこの宴会だから疲れたというのは普通だろう。ハッサンだって無論疲れていたし、ミレーユやチャモロはすでに宴会を抜けて休んでいる。バーバラは戦闘に参加していないので、給仕やらの仕事を手伝ったり、子供遊んだりしているようだが。
しかし、そのレックの一言は、そういう疲れた、ではない気がして、ハッサンは言葉に詰まった。
「・・・・・・・・・じゃあ」
レックはぼんやりと外を眺めていた。その横顔を見つめ、ハッサンは苦し紛れに言う。
「もう、寝ろよ」
「・・・・・・いや、まだ王も王妃も眠ってない。これだけやってもらったんだ。礼儀ぐらいは弁えないと」
「俺達がいるんだから、無理すんな」
レックは驚いたふうに目を見開いて、ハッサンを見た。その黒い、夜のような二つの眼球を真っ直ぐに向けられると不思議と落ち着かなくなって、ハッサンは少したじろぐ。
「なんだよ」
「いや、・・・ハッサンはほんと、良い奴だよなぁ、って思って」
「なに当たり前のこと言ってんだ!」
ははは、と零す笑いもぎこちなくなってしまう。どっ、どっ、と心臓の音がやけにうるさい。近寄り、恥ずかしさを紛らわすためにレックの背中をばんばんと叩いた。
「いっ、て!」
「ほれ、もう寝ろ!お前よく見りゃ顔赤いじゃねぇか!明日からまた頼むぜ、リーダー!」
「ああ、もう、わかったよ!」
よろけながら階段へ向かうレックを見れば、レックの掌がぽん、とハッサンの胸の上の置かれた。初めて触れたかもしれない、男のものであるはずなのに、グローブで覆われたレックの掌は傷がなく、日焼けもしていないせいかすこし色が白い。
「ありがとう。頼りにしてる」
掌から自分の心臓の音が伝わったかもしれない、とハッサンは気が気ではなかった。レックが階段を昇って視界から消えるまで見送ってから、ハッサンはしばらく廊下に立ち尽くし、はて、俺は一体何しにこの廊下に来たのだっけ、としばらく悩んだ。
2010/02/03
使い古された木製のテーブルに、それを毎日使う人の優しさがうつっているようで、触ると指先が少し温かくなった。パイプの灰が少し零れて、黒く焦げた痕も、少し凹んだ傷も多かったが、それでも長い間使われてきた、人の手に触れられ続けた温かみがあった。アベルは、ここに住む人はきっと素晴らしい人なのだろうと、それで察した。
気が付いたらここにいて、皆が思い思いに幸せな生活を営むことになっている。ならばこれは夢だと思った。夢とは言っても、一人一人、しっかりとした思いを持つ夢。ここがどこだか分からないし、自分はずっとはここにいてはいけない、ということも分かっていたのだけれど、アベルは幸せに生きる自分の妻と、その息子と娘たちを見て、このときだけが、全て許された選択の行きついた場所なのだと思った。
これ以外に、きっと3人が3人、思い描いた未来を手に入れることなどできないし、その可能性もまったく無い。ならば、もう少し、いや、夢なのだからずっと続いても良い場所だ、と思う。ここだけが、許された範囲内。現実に戻れば、いつもの戦火に、家族ぐるみで挑まなければならない。
無論、先ほど少しだけ見ることの叶った、生きた父の姿も、もう見れない。
「・・・・・・・・・・」
ふと、人の気配を感じて振り向けば、階段を上がってきた一人の青年が、呆然とアベルを見ていた。自分の知らない男だ。だから、彼は、アベルの夢の人物ではない。きっと途中から入ってきたイレギュラー、自分の世界に居ない人だ、とアベルは察する。
青年は、鮮やかな蒼色の髪の毛を逆立たせていて、奔放な若さがそれで見て取れた。引き締まった肉体は、自分と同じ戦火のなかに身を投じる人だと思ったし、着慣れた服や、その背に背負う武器を見て、旅慣れている人だ、と思った。どこか高貴な雰囲気も持ち合わせている、不思議な青年だった。
「あ・・・こんにちは」
「こんにちは。・・・旅の人かい?」
民家に勝手に入り込むなんて、と言えるわけが無い。なんといってもアベルがいるこの家こそ、アベルのものでもないのだから。下の階では勝手にヘンリーは酒を飲んでいるし、彼がもしかしてこの家の人だろうか、と思うと、アベルは咄嗟に申し訳なさで胸がいっぱいになった。申し開きようが無い。
青年はじっとアベルを見ると、あの、とためらいがちに聞いた。
「ここに住んでらっしゃるんですか?」
「あ・・・いや、気が付いたらここにいた・・・というべきかな。確かに、ここは僕が宛がわれた家、と言うべき場所なのかもしれない、と考えると、そうだね。ここを使わせてもらう、ことになるかな。そうなると、家主は僕になるかもしれない」
自分でも何を言っているのか良く分からない言い回しになってしまった、とアベルは心中で自分を詰った。動揺しすぎだ。青年の視線はまっすぐで、アベルに視線をそらすことを許さない。静かにアベルを見据えて、青年は一度、なるほどな、と小さく呟いた。
「未来といっても、夢が現実化する村・・・だから、夢を見る核になる人がいる、ってわけか・・・」
「・・・・・・・・ん」
青年が何を言っているのかアベルは分からなかったが、彼がかすかに身を捩ったとき、腰に下げた布袋の中に、ちかりと光るものを見つけて、アベルは目を眇めた。丸い、どうやら玉のようなものらしい。考え込む青年に、すみません、と声をかける。
「あの、君は綺麗な玉を持っているようだけれど、よければ見せてくれないか?すぐ返すから」
「え、・・・? あ、ああ、はい」
青年はきょとん、とすると、思い出したかのように腰からその玉を出してアベルに渡した。何か強い力の結晶化された宝玉だったが、アベルはそれをひとしきり眺めると、ありがとう、と青年に返した。
「探していたものかと思ったけれど、違うようだ。ごめんよ」
「いえ」
夢だと考えると、あの時なくしたゴールドオーブもここで手に入らないかと思ったが、流石にムリか、とアベルは心の中で肩を落とす。そう何もかも上手く行くわけが無い。
「君、遅くなってしまったが、名前はなんて言うんだい?僕はアベルというんだが」
「あ、すみません。俺はレックです」
「呼びやすい良い名前だね」
「ええ、まぁ、徒名のようなものですが。本名はもうちょっと長いんですけど」
「僕もまぁ、そうだよ。でも、そっちの名前は呼ばれなれてないから、あまり好きじゃないんだ。堅苦しい名前だしね」
レックは快活に笑うと、俺もそうなんですよ、と困ったように言った。アベルはそれで、彼はもしかして王族の人だろうか、とも思ったが、下手に詮索しない方がいいだろうとおもった。これが夢だとして、何かをきっかけにして、この世界が崩れてしまうこともありえる、と危惧したからだ。夢は多少の無理があっても何でもありえるような世界でありながら、矛盾をかかえた瞬間、一気に瓦解することも、ありえる。
「・・・ご両親はご健在かい?」
ふと、そう聞きたくなってしまったのは、レックのどこかに、自分に似た何かを感じ取ったせいなのかもしれない。ただでさえこの若さで旅をしているのならば、少なくとも両親とは離れ離れなのだろう、と察したせいもあった。しかし、レックの「本名を呼ばれなれていない」という言葉の意味から、きっと、両親と常に近いわけではない、と思えたのだ。
「・・・僕ぐらいの歳になってから気が付くことになるけれど、お父さんとお母さんは、大切にするんだよ。身近に居る人だと思って安心していると、気が付いたときには遠くへ行ってしまうことが、よくあるんだ」
それは、自分への戒めの言葉だったのかもしれない。レックはきょとん、とした顔でアベルを見ると、少し困ったように笑って、「はい、わかりました」と言った。その顔が、どうしても腑に落ちなかったので、アベルは少しそれに目を奪われた。軽率だったのかもしれない。その、言葉は。
「俺、そろそろ行きます、仲間を待たせてるので」
「ああ。気をつけて」
レックは軽やかな足取りで、アベルに手を振って、あっという間に階下に降りて行ってしまった。ヘンリーと少し挨拶を交わす声、そして扉の閉まる音。静寂が訪れてから、少しして、階段を上がる音が聞こえてきた。
「よお」
「ああ、うん」
酒瓶を片手に、のんびりくつろいだ風のヘンリーだ。すたすたと横を過ぎて、椅子に座ると、何しみったれた顔してんだよ、とアベルを叱咤する。
「しみったれた顔?してるかな」
「してるしてる。自分を責めてるお得意の面してるぜ。なんだ、さっきのガキに馬鹿なことでも言っちまったか」
「・・・どうだろう。でも、そうだね。理想を押し付けすぎたのかも」
両親を大切にしなよ、という言葉は、どれだけ言っても足りないもので、その大切な両親を置いてさえ旅に出なければならない、あの純粋な青年にとっては、ただの小言にしかならないのかもしれない、と思った。それでも、アベルはそれだけは伝えたかった。言っておかなければならない、と思った。
「・・・・はぁ」
「・・・酒、飲む?」
ついに溜息さえ零してしまったアベルにさり気なく瓶を押し付けて、ヘンリーは珍しく心配するようにアベルを見上げる。優しい親友の言葉に甘えて、アベルは久しぶりに酒を飲んだ。久しぶりの酒精は胃を焼くようで、思わず呻いた。
2010/02/04