■泣かず飛ばず逃げず立ち向かわず
しゃっ、と金属同士の擦れあう、鋭利な音が空中で爆ぜた。包丁を研ぐような音だと悟飯は思ったが、次の瞬間冷たいその切っ先が自分の頬を切り裂いたので、思わず身が竦んだ。
一瞬遅れてぱっと血が宙を舞って、銀色の綺麗な刀身がそれを砕いた。空中で閃いた血は小さな粒になって地面に落ちる。その行方を目で追って、それから痛みはやってくる。
無意識にそれを避けようとした自分の身体は中途半端に傾いでいた。片足がその体重を支えて、もう片方の足が反応しきれずずる、と少し滑った。一歩滑らかに踏み込んで、小さなナイフを振った悟天の手が、後方でくるりとそれを逆手に持ち替えた。
「ご、てん」
名前を呼ぶのと同時に、気が付けば背後にあったソファに膝を押されて、その上に腰を下ろしてしまう。それに素早く身を寄せて、悟天は悟飯を見下ろした。
「にいちゃん」
呆けたような悟天の声が微かに空気を震わせる。手に持たれたちゃちなナイフが、悟飯の顔を映していた。その銀色に写るあどけなさを残したような顔を見て、悟飯は自分が14歳の少年の姿だと、気づいた。しかしナイフを持った悟天は7歳ほどの歳に見える。子供らしい純朴な顔つきをしているのに、父親に似た顔には精悍な男の姿が見え隠れしていた。
「お父さんはどこ?」
不思議そうな優しい声だった。親を純粋に求める子供の声だった。悟飯のよく知る悟天の、ひたすらに直向でただ思いやりだけで行動するような、悟飯のことを何も省みない子供の声をしていた。
「にいちゃん、お父さんをどうしたの?」
悟飯は返す言葉を無くして、じくじくと痛む自分の頬を片手で押さえた。みるみるうちに掌は生温い液体で濡れそぼつ。
「お、おとうさん、は」
自分の声は震えていた。言いたくない、言えない、と脳が警鐘を鳴らしていた。しかし、同時に、今それを伝えれば、悟天はもしかしたら自分を殺すのではないかと思った。殺してくれるのではないかと思った。
そうしたら、僕は何も悪くもないまま、死ぬことができる。罪を償える。そう、馬鹿なことを思った。
「にいちゃんが殺したんでしょ」
突き放すように、その言葉は先に悟天がそれを言う。語飯は言葉を無くして、ぱくぱくと空気を求めて喘ぐように唇を動かした。悟天の持つ小さなナイフが、淡い光を反射して煌いた。その光の中に映されたまま、悟飯は小さく喘いだ。
「にいちゃんのせいで死んだんでしょ」
「や、やめ」
言わないでくれ、と悟飯は懇願した。やめてくれ、言わないでくれ、ぼくを暴露するな。それでも喉がひりひりと焼け付いたように痛みを発して、うまく声が出ない。悟天はナイフを持ったまま、悟飯を見下ろす。
「その癖に、あわよくば僕に殺してもらいたいんでしょ」
「う―――――――う、ううう、ち、ちが・・・」
「にいちゃんはどうしてそう、誰かに助けてもらわないと生きられないの?」
見下すような言葉で、悟天は悟飯を笑った。お父さんの子供のくせに。遠まわしにそんな声が聞こえた。悟飯は嗚咽を漏らしてその言葉を受け止める。
これが、罰。おとうさんを色んな人から奪った罰。
「弱いくせに」
茫然自失として崩れ落ちる悟飯を嘲笑い、悟天は続けた。
「どうして兄ちゃんはそうやって、一人でも生きれる気になってるの」
「う、ううう、うううううう」
「ほんとうに、馬鹿みたい」
「ごめ、ん、なさい、もう、言わないで、もう、ゆるし、て」
嗚咽を上げもはや兄の威厳などかなぐり捨てて、悟飯は悟天に謝罪した。その顔で、その声で、それ以上何も言わないでくれと懇願する。そんな血の繋がった兄の姿を冷ややかに見下し、悟天はふ、と微笑んだ。
父の血を確かに受け継いでいるものだと思えるような、優しい静かな微笑みだった。涙で滲む眼球で、悟飯はその姿を視界に捉え、一瞬言葉を無くした。
「やめていいの?」
「・・・え」
「それじゃあ、兄ちゃんを責める人が居なくなっちゃうよ」
「な、に?」
「兄ちゃん、お父さんを殺したくせに、救われちゃうよ?」
それでいいの、と悟天は不思議そうに問いかける。
「そんな自分を、許せるの?」
悟天は幼い、柔らかな子供の顔をしていたけれど、その顔の裏側には何かどろどろした黒いものが流れているように見えた。それを悟飯は無意識に欲して、涙で濡れた手をその頬へと伸ばす。
跳ね除けられるかと危惧したが、それはあっけなく悟天の頬に届いた。温かい、柔らかな子供の肌だった。傷のないさらさらとした肌が、悟飯の傷だらけの手についた涙であっという間に濡れる。
「良いんだよ、別に。僕をどう使おうが」
僕は兄ちゃんが大好きだから、と口の中だけで呟いて、悟天は無言で悟飯の掌をそっととった。涙で濡れたその掌に唇を押し付けて、悟天は哀れむような目で兄を見た。
「兄ちゃんはほんとうに可哀想だね」
哀れまれる理由は分からなかった。哀れまれるべきは、悟空や悟天のはずだった。息子の不手際のせいで死んでしまった人、そのせいで父親を亡くした子供。憎まれこそするかもしれないが、悟飯に哀れまれる資格などないはずだった。
「兄ちゃんはほんとうに可哀想だよ」
悟天はそう言って兄を罵る。柔らかな声で、愛するように悟飯を言葉だけで切り刻む。それでも悟飯は黙ったまま、その言葉に聞き惚れるように声を受け入れ、その奇妙な行為に耽った。
「兄ちゃんはへんたいだね」
「・・・そうかもしれない」
「実の弟に馬鹿にされて、悔しくないの」
「悔しいなんて」
嘲笑うような声を零して、悟飯は自嘲する。
「そんなこと思えない。僕は許して欲しくなんてないし、幸せになりたいわけじゃない。苦しみたいんだ。自分に罰を与えたい」
「・・・ええと、まぞひすと、なの」
たどたどしい口調で、悟天は不思議そうに聞いた。さぁ、と悟飯は小さく微笑む。幼い弟が必死でその言葉を考えるのは面白かった。お父さんの顔の癖に、そんな言葉を吐くなんて、倒錯的で笑える。
「でも、そうだな。今までみたいに皆に優しくされて慰められるのは嫌だ。自分がまるで、悪くないような気分になってしまう。それは嫌だ。僕はお父さんを殺してしまった。それだけは絶対に忘れたくない。自分を、許したくない」
「・・・・・」
「だから、悟天、僕を許さないでくれ」
喘ぐようなか弱い声で、悟飯は縋った。自分よりも弱い子供の手をとって、神さまでも信仰するかのような脆さで。
「いいよ。兄ちゃんがそうしてもらいたいなら」
そんな兄の姿を慈愛に満ちた目で見ながら、悟天はそっと悟飯の額に唇を寄せた。いつの間にか地面に落とされたナイフは光を失っていた。僕を殺すのに何もいらない、ただ悟天の声だけがあればいい、と悟飯は嘯く。その声を優しく奪い、暖かな暗闇に蕩けさせるように悟天は囁いてやった。
「世界でぼくだけが兄ちゃんを憎んであげる」
2010/1・20