■バッド・スタート・アンド・エンド
「違う」
男の足を覆う無骨なブーツが、未発達の少年の頬を勢いよく殴打した。小さな子供の肉体は、周りで見ていた男の部下達が肝を冷やすほど、いとも簡単に飛ぶ。撥ねる。無機質な床に叩きつけられる。
子供の鼻からは血がぽたぽたと零れ、唇を真っ赤に染めた。ああ、ああ、と切れ切れに聞こえる小さな悲鳴に混ざって、水滴の落ちる音がした。
「ターレス、様、だ」
幼子を見下す男の眼球は驚くほどに冷たく、鋭利な光を宿している。普段男の口に貼り付けられたようなにやにやと人を食った笑みはどこかに身を潜め、代わりに冷たく低い声を零す唇が真一文字に引き結ばれている。子供は耐えられず涙を流し、それでも必死に泣き声を殺して、頼るもののいない室内を見た。
壁際に、男の部下が座り込んでこちらを観察していたが、別に弱いものをいたぶる姿をにやにやと見ている訳でもなく、ただ淡々と、男が子供に暴行を加える姿を見ているだけだった。不思議な光景であった。
「もう一度言ってみろ」
男はそう言って、床にしゃがみこむ幼子のその黒い眼球を真っ直ぐ射抜く。鼻や口から血を垂らし、蹴りつけた頬が腫れて浮腫んでいる。衣服の端から覗く肌には蒼痣ができており、目だけが爛々と輝いている。
子供は一度男を睨みつけたと思うと、怪我をしているとは思えない身のこなしで、素早く男に飛びかかった。小さな両手はいとも簡単に男の手によって阻まれる。それでも子供は身を捩り、弱い乳歯をむき出しにして、男の首に噛み付こうとした。それすらも予想済みであったのか、男は無言のまま握った拳で少年の口を殴りつけた。無論、歯は折れ、小さな子供の白い骨が、一瞬宙を舞った。少年が口から血を吐き出しながら倒れるのを追って、数秒後に墜落する。
「もう一度」
男はそれでも子供に名前を呼ぶよう要求する。子供は前歯が折れたせいで、両手で口を覆っても、大量に溢れる己の血液に微かに咽るだけだった。
「もう一度」
男の声に慈悲はなく、そして感慨も憐憫も無い。何かの一つ覚えのように、子供に命令を下した。子供は男を睨みつけるのさえ忘れ、床に蹲り、ただその痛みに耐えた。
「ターレス様」
耐えられず、部下の一人が男の背に声をかけた。白いマントが微かに風を孕む。男は振り返り、なんだ、と聞いた。
「そろそろ以前宇宙船で回収したデータの解析が終わったのではないでしょうか」
「そうか。・・・そうだな」
男はそう言って、痛みに身悶える子供にあっさりと背を向け、その部屋から退出していった。部下がその後をついていく。子供は小さく蹲ったままで、部下の男は、一瞬だけ、この子供が死んだのなら己の主はどうするだろう、と考えた。そうかと一言答えて、ごみ焼却所に持っていくよう指示するかもしれないし、そのまま宇宙に放り出すかもしれない、と考えた。でも、もしかしたら、この人はこの子供を気に入っているから、温情でもかけるかもしれない。
「おい、生きてるか」
部下は一度問いかけたが、返ってきた声は無かった。反射のようにびくりとその肩が震えたが、当たり前に、その顔が上げられることはない。部下は入り口についていた通信機のボタンを押し、医療器具を持ってこの部屋に人を寄越すように指示をして、己の主の向かった方へと急ぎ足で去って行った。人気の無くなった室内に、小さな子供が声も上げられぬまま、ただ震えて血を垂らしていた。
死んだか、と男がそう聞いてきたので、医療スタッフとして腕を買われてこの船に乗っていた男は、一瞬だけ考え、いいえ、と答えた。先日不承した男の部下のことか、それとも男が暴行を加えた幼い、サイヤ人と地球人のハーフの子供のことかと考え、結局後者だと思ったからだった。
「衰弱していますが生きています。口は利けるようですが、目を覚ますと暴れようとするので、今は鎮痛薬と麻酔薬を投与して寝かしています」
「そうか。なら今すぐにでもトレーニングルームに連れて行け」
「起こしてですか」
「そうだ。暴れるようなら手足を縛れ」
「了解」
淡々とした声で、男は指示をする。医療スタッフである部下は、努めて冷静に、そう返した。別に幼い子供に暴行を加えることに今更罪悪感など無かった。どんな生物であろうとどんな劇薬を投与するのにまったく躊躇しない、そんな研究者的な思考能力も買われてこの船へと乗船することを薦められたからだ。これから何度も男にどれほど人畜非道な命令を受けようと、それを断るつもりはなかった。あの子供がこの男の何であろうが、自分にはまったく関係はないのだ。部下が踵を返すと、同時に男も私室に向かった。ターレス様、と遠くで船の主に何事かを伝える船員の声が聞こえた。
来い、と一言命令されて、いつものように医療スタッフの男はトレーニングルームへと向かった。この船に乗り始めて既に数年が経過した。見慣れた通路を通って扉を開けると、初めて会ったときより幾分か成長した子供が、ぐったりと床に倒れている。壁や床、天井にびっしりと刻まれた戦闘痕が、今まで彼らの行なっていた戦いの激しさを示している。ターレスは珍しく白い外套を脱ぎ捨てていて、腕から血を垂らしていた。子供に爪でも立てられたのか、それでもサイヤ人の皮膚から血を垂らさせるほどの攻撃であるせいか、かなり深いらしい。少年の指は真っ赤に濡れている。
それでも少年の体は傷つき、いたぶられ、打撲の後や切り傷を体に刻み込んでいる。以前治しかけていた包帯の下にある傷が開いたのか、少年の二の腕の包帯も赤く染まっていた。
「治せ」
「はい」
医療スタッフの男は、淡々と少年の隣を通り越し、ターレスの前で医療器具を広げた。一度眉を動かし、ターレスは、違う、とそれを止める。
「はい?」
「ガキの方を、だ」
「・・・はあ」
一瞬、煮え切らない返答をしてしまった自分を恨んだ。もしもこの主を怒らせてしまったらどうしよう、と心の中で反射的に不安になる。それでもターレスは黙ったまま、床に落ちた己の外套を拾いに、所々穴の開いてある床を歩いていく。男はほっとしながら、子供の手当てをするために医療器具を子供の許に寄った。子供は浅い呼吸を繰り返すだけで、薄い瞼を閉じたまま起きる気配はない。
「強くなりましたか」
男は、ふとターレスに聞いた。沈黙の下でこの密室にいるのが耐えられなくなったからだ。ああ、とターレスは答える。子供の傷は以前と比べて浅くなっている。手加減を知らないターレスのことだ。敵と戦うほどに強くなるサイヤ人の血によって、この子供が成長していることが伺える。包帯を取替え、傷の手当てをする己の部下を、ターレスは黙ってみていた。
「ターレス様、この子供を育てようとするのはご勝手でしょうが、せめて傷が全快するまで待てないものでしょうか?これではいくら治そうと治りません」
「知るか。そんなもの、ガキの勝手な事情だ」
「全快したら、貴方が負けるからでしょうか?」
「死にたいのか?」
子供の怪我に全て処置を施し、部下はターレスの方を見た。ターレスからむき出しにされる殺意は本物だった。プライドの高い男だった。部下である男は、スカウターも何も無い。だから子供がどれほど強いかは知らない。しかし、サイヤ人であるのはターレスも同じ。子供が強くなれば、ターレスも強くなるのだ。しかもその上、ターレスは神精樹の実がある。子供ならまだしも、自分ならターレスの小指で死ぬ自身がある。部下は、頭を垂れ、滅相も御座いません、ターレス様、と謝罪する。
「では、せめてメディカルカプセルでもご購入を考えていただきたい。薬代も馬鹿になりません」
「じゃあ、治さなくてもいい」
「では、何のために私がいるのですか」
「怪我を治すためだ」
言葉の真意が分からず、部下は聞いた。何が目的ですか。ターレスは襤褸になった外套を身に纏い、腕の怪我のことも気にせず、シャワールームに向かう。その背から答えは出なかった。部下が倒れる子供の体を抱き上げようとすると、ターレスはぴたりと立ち止まり、すっと振り返る。
「そうだな、実を言うと、俺もよく分からない」
ぼんやりと部下が見上げる先、ターレスはそれでも見慣れた惨忍な笑みを浮かべる。
「だが、そのガキが苦しむ姿を見るのは、好きだ」
思わず言葉を失えば、ターレスはふっと笑って、今度こそ扉の向こうに消える。閉じた扉の向こうにあるターレスの背を思って、しかしそれを頭から追いやる。子供の小さな寝息だけが部屋に聞こえた。
「ターレス」
懲りずに子供がそう呼べば、ターレスの拳がその頬を殴打した。もっと幼い頃は吹っ飛び、壁にぶつかってバウンドし、地面に墜落したものだが、今の子供は頬を殴られても直立したままで、鼻血しか出さない。体も頑丈になったのだな、と部下はそれを遠目に見て思った。医療スタッフの部下が子供とターレスを見る機会というのは、彼らの尋常とは思えぬ戦いの末、ぼろぼろになった子供を床に転がして、それの治療を頼むターレスに呼ばれた時しかない。医療器具の整理をしに倉庫へと向かっている途中に見たのはこれが初めてだった。
「様を付けろ。悟飯」
そこでようやく、医療スタッフである部下は子供の名前を知った。悟飯。間抜けそうな名前である。どこかの星では主食の名がそうではなかっただろうか。
「嫌だ。なんでアンタに敬称をつけなきゃいけないんだ」
「俺はお前より立場が上だ」
「そうだね。 僕はいわゆる捕虜だものね」
部下は、子供はこんなにもターレスに向かって強気な発言をしていたのか、と初めて知った。あんなに毎日、ボロ雑巾のようにやられる嵌めになるというのに。つい数時間前だって自分が包帯を付け替えたばかりだ。遠目に見る子供の腕にも、今だ白い包帯が巻かれている。
「次の手合わせはいつ?」
「明日だ」
「今すぐにやろう」
部下は生まれて初めてここまで驚いたのはないほど驚いた。てっきり、ターレスが無理やりに子供に戦いを強いていたのだと思っていた。子供は船の中では虫一匹殺せぬ善人だと思われているのだ。ターレスが悪人過ぎるというのもあるかもしれないが。
「満身創痍でよく言うな」
「僕が一刻も早くアンタを殺したいことがわからないの」
「じゃあ今飛びかかって来いよ」
「船を壊したら帰れない」
「帰ってどうする」
「お父さんとお母さんに会う」
「会えるものか」
「会えなくてもいい。地球に帰りたい」
「何の未練がある。地球で生きた期間より、この船の方がお前が生きた時間は長い」
「でも、ここにはお父さんもお母さんもいない。ここにいる意味は無い」
淡々と交わされる会話を聞きながら、部下は立ち去ろうかどうか迷った。見つかったら大目玉かもしれない。だがよく考えれば、ターレスはスカウターを常につけている。自分がここにいることぐらい分かっているだろう。どちらにせよ叱られるのは必死だ。なら最後まで聴いてみたい。
「僕はアンタが嫌いだ」
「そりゃそうだ。好きになる理由が無い」
「でもアンタは僕が好きなんでしょ」
まるっきり馬鹿にしたような、そんな声だった。あんな優しそうな子供が、こんな声が出せるのかと、部下は驚いた。せせら笑うような、嘲笑の声だ。ターレスの言葉が途切れた。
「アンタが僕のことが好きだろうがなんだろうが、僕はアンタを殺す。僕はアンタが嫌いだ。アンタのせいで、僕の過去も未来も消えた」
「知っている」
「だから早く、殺しあおう」
言葉がそうではなかったら、何かデートのお誘いのようだとも思った。サイヤ人にしてみたらデートの誘いかもしれない、と思う。ターレスは、一瞬遅れて、部下の名を呼んだ。
やはりばれていた、もしかして今殺されるだろうか、と思いながら、廊下の壁に隠れていた部下はすっと現れる。既に気配を察知していたのか、子供も無感動にこっちを見ている。ターレスは子供に一言、先にトレーニングルームに行くよう伝えた。その背を見送り、ターレスが部下に歩み寄っていく。呆然と立ち尽くす部下に、ターレスはゆっくりと口を開いた。
「俺が死んだら悟飯の命令を素直に聞け。今までの働き分の金は勝手に持っていけ。どうせあのガキはそういうものに興味ないだろう」
「はい」
「潮時だ」
「はい」
やはり、子供成長というのは恐ろしいのだ、とぼんやり思う。以前のあの傷はこれの前兆だったのだ。きっとこの主は死ぬだろう。一人の狂戦士が抱えられないほどの憎しみを持ってしまった。あの子供は憎しみのみでこの男を殺すだろう。今までありがとうございました、と心にもない台詞を、男は言った。ターレスもそんな男の胸のうちを知ってか知らずか、ああ、と言った。特に興味も無さそうだった。
「・・・盛大に振られましたね」
「死にたいのか?」
部下はそう言って、ターレスの前で初めて笑った。ターレスは低い声で脅せば、どうぞ、と部下は言う。
「貴方が死ねば私が誰かを治すこともなくなります。私が生きる意味だって無い。あんな善人の下にいても、どうせ治すものもいないでしょう」
「お前、俺に負けず劣らず悪人だったな」
「そんな、好きな子ほど苛めたくなるような、そんな子供みたいな人と一緒にしないでほしいです」
部下はそう言って、運ぼうとしていた医療器具の積まれたワゴンをがらがらと押していく。誰も居なくなった廊下に取り残されて、ターレスはその背を見た。そしてすぐに身を翻し、白い廊下を歩いていく。あっという間にたどり着いてしまったトレーニングルームの扉を開けば、その中央に見慣れた子供が腕を組んで立っていた。
「お前を殺す」
覚悟のように吐かれた言葉に、にやりと口角を吊り上げ、ターレスは外套を脱ぎ捨てた。ばさりと空気を孕みながら墜落したそれに目もくれず、二人の戦闘狂の視線が絡んだ。ぷしゅ、と音を立てて扉が閉まり、オートロックがかけられる。もはや誰も入ることのできない室内に、二人の昂った殺意と歓喜が溢れる。恋か愛の言葉でも吐くように、優しい声音でターレスは笑う。
「やってみろよ雑種のガキが。命乞いなら、聞かねぇぜ」
結局、幼い子供を連れ去ったあの日の感情も分からないまま、二人の最後の戦闘は幕を開けた。
2009/8・30