■悟空の日/悟チチ・ベジータと悟空・悟飯じいちゃんと悟空
結い上げられた髪の付け根をじっと見て、そのすべらかな首筋に指を這わせると、チチはなんだー?と伸びやかな声を上げた。うん、と返事のような声を上げて、細い体を後ろから抱きしめると、華奢な、柔らかな体はいとも簡単に自分の腕の中に納まる。柔らかい髪に顔を擦り付けて、そのすべすべした頭に鼻を押し付けると、自分と同じシャンプーの匂いがする。悟空さは甘えんぼだな、なんて笑い声と一緒に言われても、うん、としか返せない。ふにゃふにゃとした柔らかい、陽だまりのような暖かさに満たされている。
「チチ」
「んー?」
「好きだ」
一度呟くと、ふにゃりと揺れる。うん、とチチが頷いた。
「そっか」
「うん」
少し、痩せたかもしれない。柔らかい指先が自分の掌の上に這わされる。
「おらも、悟空さが、好きだ」
「うん」
唇を押し付けて、すぐに離れる。自分の無骨な手がチチのお腹の辺りを撫でて、その中にある新しい命を愛しむ。緩やかに進む時間の中を、二人で一緒に過ごした。さっきまで腹が減っていたはずなのに、既に何か満たされている。すきだ、と何度も繰り返す。
傷ついた手で触れるのが億劫になるほど、チチは優しい生き物だ。柔らかくて、いい匂いがする。そろりと撫でた自分の手が、今までしたこともないほどゆっくりと動いた。悟空さ、と零れる声が好きだった。少し震えて、耳に届く。熱い息が少し漏れて、自分達の唇を湿らせる。すきだ。すきだ。すきだ。言葉というものがどれほどの意味を持つのか、オラには分からない。だから、精一杯を呟く。
「チチ、好きだ」
美しいや可愛い、愛しいなんてものはよく分からない。それでも、その言葉を言っているうちは、オラの世界はチチだけになる、気がするんだ。
拳を突き出せばそこに当たるのは散った汗の粒で、素早く右側に周りこむ男の拳を屈んで避ける。虚空を掴む掌を蹴り上げて、両腕で着地し、そのまま反動で飛び上がれば、地面から見開いた眼球と視線が絡んで、その顔が間抜けだったので笑えた。
「なんだ?」
四肢を叩きつけるようにして着地すると、艶やかに目を細めてカカロットは笑った。風に押されるように地面に向かって倒れるようにゆらりと揺れると、その低くした姿勢のまま一直線に突っ込んでくる。一瞬遅れて昇る土煙も遅すぎる。世界は俺達に追いつけない。振り下ろされた拳を受け止め、その腕に手を絡めて持ち上げると、無理に遣り合おうとはせず、カカロットはいとも簡単に持ち上がる。そのまま岩場にたたきつけようとすると、するりと離れて音も立てずすぐ真下の地面に着地した。
「何がだ」
「今、おめぇ、笑ったじゃねぇか」
不思議そうな声を上げる顔面を蹴り上げようとすると、それを見越してカカロットは身を引いた。丁度拳一個分の余裕を持って、俺の足が空を切る。
「貴様の顔が、間抜けだったからだ」
「なんだそれ」
あっはっは、と間延びした声が上がった。山吹色の胴着が、空の蒼と対比されて美しく見える。それでも俺達が望んでいるのは美しいものではなくて、どこまでも醜くても構わない厭らしい赤色だったので、俺は溜まらず笑った。声を上げて。
また、きょとんと目を見開いて硬直するカカロットの奴はついに上げていた拳を下ろした。なぁ、何かおめぇ、変だぞ?正常な訳が無いだろう、馬鹿が。
「カカロット、お前、何を美しいと思う?」
「へぇ?」
うーん、と唸り声を上げながら腕を組んで、一仕切り考え込むと、カカロットは一言、「わかんねぇや」と答えた。
「別に、オラ、綺麗なもんとか興味ねぇし」
「同感だ」
「え?っちゅーか、何が言いてぇ、うわ!」
ぽかん、とする間抜け面に気孔弾を打ち込んでやれば、足を折りたたんで頭一個分体が縮んだ。逃げ切れなかった髪の毛が少し焦げて、なんだってんだよ、と悲痛な声が高い空に上がった。
兎を殺してしまった。殺してしまったっていうことも分からないぐらい、あっさりと。
走る兎を追いかけて遊んでたら、木の根っこに躓いて転んでしまった。あ、って思うより先に、目の前に地面が迫ってきていて、視界の端っこに、白い、兎のふわふわした毛が見えた。どてっ、て転んでしまわないように手を付いたら、ふわふわした毛を掴んで、丁度よく潰してしまった。掌の向こうで、ぼきっ、て木の枝が折れるような音がした。首が変に捻じ曲がっている兎が、自分の手の下に居た。
すぐに動き出すと思ったのに、兎は変な方をじっと見て、ずっと動かない。静かな森の中で、皆が息を殺して自分と死んでしまった兎を見ているみたいで、ぞっと背筋に冷たいものが走った。動かない兎を抱き上げて、オラは一生懸命に走った。今までこんなに急いで走ったことが無いぐらい、凄く急いだ。すぐに息が上がって、喉がからからになる。でも、その分あっという間にじいちゃんの家に着いた。
じいちゃんは庭で薪を割っていた。オラがじいちゃん、って叫んでじいちゃんに抱きついたら、おお、どうした、っていつものじいちゃんの声がして、オラの頭を撫でた。オラは腕に抱えてた兎を見せて、兎がうごかねぇんだ、って叫んだ。じいちゃんは皺だらけの手を兎に乗せて、一回、アッ、て声を上げると、すぐに寂しそうな顔をした。
「じいちゃん、どうなっちまったんだ?」
「悟空、兎は死んでしまったんじゃ」
じいちゃんはそう言って、オラの手から兎を持ち上げた。瞼を閉じさせて、じいちゃんは兎の首をこしょこしょと撫でる。
「もう、うごかねぇんか」
オラが言うと、じいちゃんは頷いて、オラの頭をゆっくり撫でた。ごつごつした皺だらけの大きな手が、どうしてかいつもより小さく見えて、オラはとてつもなく不安になった。じいちゃん。オラが呼ぶと、じいちゃんは目を細めて笑って、でも何も言わなかった。
2009/5・9