■悟飯の日/ビー飯・魔師弟・悟空と悟飯
たまに思うのだけれど。
ぽつりと呟かれた言葉に、いつものどこか自信に満ちた元気がなかったので、悟飯はぱっと顔を上げた。生まれて初めて入ったカフェテリアは悟飯にはよく分からない落ち着いた空気で満たされている。上でぐるぐる回っている風車のようなものが何の意味を果たしているのかが分からなかったけれど、それ以外に特に興味を惹かれるものはなにもない。あえて言うのならば珍しく思い悩むような顔をして俯くビーデルのことが気になって仕方が無かった。
せっかくの休日だから、と課題を山のように出してくれた英語教師を恨むビーデルを窘めて、二人で勉強するためにカフェテリアに入ったというのに、彼女はノートと教科書を開いてから、ウェイトレスが持ってきたアイスコーヒーの表面を睨むだけだ。悟飯は何か物思いに耽っているのならば邪魔をしない方がいいだろうと思って、黙々と勉強に取り組んでいたのだが、件の真剣な台詞である。ほぼ反射的に顔を上げると、ビーデルはきょとん、とする悟飯の顔をみて、はぁ、と一度溜息を吐いた。
「・・・えっ、と・・・どうかしたの?」
「私が悟飯くんにやってあげれることってないのかな、って思ったんだけど」
悟飯は思わず目を丸くした。ビーデルはテストの難問に挑むような真剣な顔で悟飯を見つめ、今度はむしろ抗議するように言う。
「何かして欲しいことってない?私にしかできないことで!」
「ビーデルさんにしか、できないこと、って?」
気圧されるように悟飯が体を反らせば、そう、それよ、とビーデルは嘆く声を上げる。
「勉強を教える事だってできないし、私はお菓子を作るとかそういうこと人に誇れるぐらいできるわけじゃないし、普通なら、悪い奴らから守ってあげるとかできるんだけど」
悟飯くん、私より強いんだもの!悲鳴を上げるようにビーデルがテーブルに突っ伏す。強くて悲しまれるのって初めてだな、なんて思いながら、悟飯はビーデルの旋毛を見た。そういえば、自分の一言で彼女はあの髪を切ってしまったのだっけ。あの時は驚いてよくわからなかったけれど、今はなんとなく、嬉しい。
悟飯はぱらぱらとビーデルの腕にかかる髪の毛を指で抓んだ。頭皮が引っ張られたことに気づいたのか、ビーデルが恨みがましい顔で腕の間から悟飯を見る。
「ビーデルさん、可愛いですね」
ぽろりと零れた言葉があっという間に静かな空間に解けたと思ったら、みるみるうちにビーデルの顔が真っ赤に染まった。ひどい。喘ぐような声がくぐもって落ちる。
「何がですか」
「私は、悟飯くんから貰ってばっかりだわ」
「いいじゃないですか、別に」
僕が貴方にあげたいものが、沢山あるんです。そっと吐かれた言葉はすぐに無くなってしまう。ビーデルはそれが寂しかったけれど、この言葉を他の誰にも聞かれたくないと思った。
じゃあ、私の一生を懸けて、貴方から貰った分の愛しさや優しさを返せるかしら? 呟こうと思った言葉は冷たいコーヒーに流されて、ビーデルの心にもう一度戻る。
ピッコロさん、ピッコロさん、と幼い声が無邪気に一つの名前を繰り返す。振り返れば小さな悟飯が両手を己に伸ばしながら追いかけてきていた。悟飯、と呼ぼうとして自分の声が出ないことに気づく。それと同時に、ああ、これは夢かと思った。
そういえば己の弟子である孫悟飯はこんなに幼い姿をしていない。もっと身長も高かったはずだし、四神珠のついた帽子も被ってはいない。これは初めて見たときの姿だろうか。それに、これほど小さい悟飯は自分のことをこんなにも親しげに名前を呼びはしなかったはずだ。幼い子供は走ってきたと思えば、ピッコロの少し手前で足を止めた。ピッコロさん。特に何を言うでもなく。子供は名前を繰り返し、そしてにこにこと笑った。悟飯はよく泣く子供であったが、同時に何が面白いのかよく笑う。泣くか笑うかしてしない気がした。
ふと場面が切り替わり、幼い悟飯の姿は少し成長した姿になった。丁度セルと戦った時の姿だ。超サイヤ人の姿ではなく、黒い髪の普段の姿。服装は人間が葬式という死んだ人間を尊ぶ儀式の時に着用する黒い礼服だった。孫悟空が死んだときに着ていたもので、片腕に腕章をつけている。
「ピッコロさん」
突然、声が明確に聞こえた。まるでさっきまで声が水の膜の中にでも入っていたようなものに思えるほどの、生々しい声。先ほどまで無邪気に名を呼ぶ子供の声が一気に霧散する。
「ピッコロさん、僕、とても強くなりました」
悟飯はそう言って、やはりにこりと笑った。何故笑うのか。理解できない。父親が死ねば喜ぶものなのだろうか?そんなはずは無い。悟飯が地面を殴りつけ悲しみで泣き叫ぶ姿を自分は見た。それでも悟飯は笑っている。その顔に悲しみはない。悲しみはない。
「でもまだ、足りないんでしょうか?皆を守る力というのは、どうすれば手に入るんでしょうか。・・・でも、どうしましょう?
僕、もう戦いたくないです」
悟飯は淡々と思いを吐露する。自分は一度頷いた。知っている。戦いが嫌いなのは知っている。
「僕が戦いが嫌いなこと、ピッコロさん、知ってたでしょう?」
小さい僕は、あんなにも嫌がったのに。悟飯は寂しそうに呟く。
「知ってて戦わせたんでしょう?」
そう。その通りだ。知ってて戦わせた。知っていながら戦わせた。戦力が欲しかったからだ。それ以外に理由はない。必要だったから戦わせた。それだけだ。
悟飯は一度にこりと笑うと、でも、僕も同罪です、と弱弱しい声で言う。
「僕はピッコロさんが好きだったので、ピッコロさんのために戦いました。僕はお父さんが好きだったので、お父さんのために戦いました。僕はお母さんが好きだったので、お母さんのために戦いました。僕はいろんな、僕が大切だと思う全てのもののために戦いました。もうピッコロさんが僕を脅すからとか、そういうんじゃないです」
だから、もうやめましょう。悟飯はそう言って、やはりにこにこしたままゆっくり吐いた。
「僕が戦うのは僕のためだけなので、もうやめましょう」
悟飯の幼い手が伸ばされて、自分の手を掴んだ。四本しかない指に指を絡めて、悟飯は繰り返し言う。
「僕が戦うのは僕のためだけです。ピッコロさんのせいじゃないです。ぼくの勝手です。我侭です。だから、ねぇ、ピッコロさん」
繰り返し、悟飯は俺の名前を呼ぶ。幼い頃から変わらない、優しい声で何度も。ピッコロさん。その言葉にどれ程の意味が含まれているのか、俺には到底わからない。俺は握られた手をゆっくり動かして、悟飯の頭に乗せて、一度その黒髪を撫ぜる。何年ぶりに触れたあろうか。こんなにも身近にあったものなのに。
「悟飯」
いつの間にか声は出る。一度溢れると止まらない。柔らかく弧を描く、悟飯が笑っている。
「流石だな。強くなったじゃねぇか」
だって貴方の弟子で、お父さんの子供だもの!悟飯は昔から変わらない真摯で純粋な笑顔を向けると、誇らしげに胸を張った。自分の知らぬうちに、少年は自分が思うよりもよっぽど強く気高い生き物へと成長していることを、俺はようやく知った。
チチ、遅ぇなぁ、なんて呟けば、いつもは「もうちょっとですよ」とかにこにこ笑いながら返ってくる言葉があるはずなのに、その時はいつまで待っても返ってこなかった。お?って隣を見れば、そこにあるのは悟飯が抱えてた色んな色した箱が詰まれてあって、見慣れた癖っ毛が見つからない。
「悟飯?」
別に箱の向かい側に埋もれてるって訳でもなくって、名前を呼んでも返事が無かった。人でごった返してるフロアの中じゃ、悟飯を探すなんてぶっちゃけ無理だ。チチの姿だって見あたらねぇのに。ワゴンに群がる大小さまざまな女があっちにいったりこっちに行ったりするから、ただでさえ目が回る。悟飯ー、と大きな声で呼んでみるけれど、聞こえてくるのはがやがやっていう色んな声の入り混じったノイズみたいな音ばっかりだ。気を探ろうにも人が多すぎてできない。積み上げられた荷物から離れたらチチに怒られるし、こういうのを何て言うんだっけ?八宝菜?あ、八方塞か。
迷子になった時は動くなってよく言うし、悟飯は頭もいいし大丈夫だろ、ってことでとりあえずその場に留まる。できることなら人ごみを掻き分けて探したいけど、どちらかといえばオラがここにまた帰ってこれるかが怪しい。すれ違うのも怖い。
そこでようやく、ぽんと出てきた考えに引っかかった。怖い。怖いだって?思わず笑った。ちっちゃい頃、どんな敵に会ったときだって思ったことはなかった。いや、怖いと思うことは勿論あったけど、それと一緒に、どきどきしたりわくわくしたりする気持ちが一杯だった。でも今心を埋め尽くすのは恐怖と不安ばかりだ。ものすげぇ強ぇ奴と戦うときだって、こんなに怖いと思ったことは無かったのに!悟飯が居なくなるだけでこんなにも怖い。失うことが恐ろしい。クリリンが死んじまった時なんてのは怖いとかそんなのは無かった。そんなの思う前に死んじまってたし。悲しいだけだった。
「あっ、よかったぁ」
突然聞き慣れた声が飛んできて、いつの間にか俯いてた顔を上げると、悟飯が困ったように笑いながら、「ごめんなさい、ちょっと迷っちゃいました」って言いながらオラの前まで歩み寄ってくる。
「トイレが込んでて・・・あれ、お父さん、どうかしましたか?」
「悟飯ー」
小首を傾げる悟飯をぎゅうっと抱きしめて、滅茶苦茶怖かったんだぞ!と言うと、ええ?って素っ頓狂な声を上げられた。
「オラ迷子になる所だったんだぞ」
「お父さんが?どっか行ってたんですか?」
「いや、一歩も動いてねぇ」
なんですかそれ、と悟飯はくすくす笑った。それでもオラが悟飯の背中をぎゅうと抱きしめれば、少し経って悟飯もオラの背中を抱いた。
「じゃあ、お父さんが迷子になったら、僕が絶対に見つけ出してみせますから」
「ほんとか?」
「ほんとです!」
任せてください!と悟飯は胸を張る。おめぇは頭いいもんなー、ってオラが笑えば、悟飯も同じ風ににこにこ笑った。
大丈夫です、お父さんの背中を追いかけるのは慣れてます。そうなんか、ってオラが納得すると、また新しい箱と紙袋抱えたチチが戻ってきた。
「何やってるだ、悟空さ」
「へへ、慰めてもらってた」
なー、って悟飯と顔を見合わせて頷きあうと、チチが不思議そうに首を傾げる。それでもすぐに気を取り直して、さぁ、次行くだ!と威勢良く叫んだ。
2009/5・8