■春に

 その時のピッコロの狼狽ぶりはといえば、筆舌に尽くし難かった。


 もはや毎日の日課になりつつある瞑想をしている最中、ピッコロは一つの慣れ親しんだ気が神殿に向かってきていることに気づいた。予想通り、その子供ほどの大きさをした気は、下方から素早く上昇し、ピッコロの後方に降り立つ。数日前に遊びにやってきた時とは打って変わって、ピッコロの知己である少年は珍しく沈黙を保ったままピッコロの背後に立ったままだった。瞑想に集中するピッコロを慮っているのか、それでもまったく近寄ってこない少年を訝しく思い、ピッコロはようやく背後へと振り返った。挨拶もしないで何を突っ立っているんだと言いかけ、ピッコロは口を微かに開いた状態で停止した。
 もしかしたらラディッツが初めて地球に来た時より驚いたかもしれない。
 立っていた少年は予想していた通り、ピッコロの弟子である孫悟飯だった。セルを想像を超えた力でいとも簡単に捩じ伏せていたのは未だ記憶に新しい。あの時とは別人のような穏やかな気であったが、ピッコロはあの時悟飯の気に気圧されてそれをただ見守ることしかできなかった時と同じ状態に陥っていた。
 今や地球最強の座に君臨しているはずである少年は、父親に似た二つの目からぼろぼろと大粒の涙を零してピッコロの背後に突っ立っていた。
「・・・・・・・・・・ご・・・悟飯・・・?」
 だよな?
 ピッコロは驚き悟飯に近寄ることすら忘れ、自分がいつの間にか空中から床に落ちていることにすら気づかなかった。今ピッコロの脳髄は元神の知恵をもって、瞬時に二十通りはこのあとの対応を考えた。彼の父親がいない今、実力以外でこの少年支えることができるのは自分しかないのではないかという脅迫めいた覚えすらあったのかもしれない。
「ピッコロさん…」
「ど」
 一言目を上げた瞬間に、ピッコロの声はその対象によって遮られた。悟飯はごしごしと己の目を擦りながら言う。
「目が…目が痒いんです!」



「おそらく花粉症ですね」
 悲鳴を上げる悟飯を担ぎ上げ神殿の中で蔵書を読みふけっていたデンデの元へと引き摺って行けば、一つ二つ質問をしただけでデンデは悟飯を蝕む病名に行き着いた。この季節を考えればこの症状名しかでてこないのだ。
 デンデの言った名称はピッコロも覚えがあった。地上で春に花粉を撒く種類の植物の花粉が、風に乗って人の粘膜でアレルギー反応を起こし、鼻炎や目に炎症を引き起こすものだったはずだ。
 デンデの正面に座り込み、ティッシュで鼻をかむ悟飯はぎゅっと目を閉じ、うう、と苦しそうに唸るだけだ。
「目擦っちゃ駄目ですよ。黴菌が入ってものもらいになることもありますからね」
「目に何か入ってるみたいなんだ」
「辛そうですね…」
 デンデはじっと悟飯を見つめ、そしてそのまま顔をピッコロへとむける。突然己へと向けられた視線にたじろぎながら、ピッコロはデンデの真摯な目を黙って受け止めた。デンデの目には地球の神というよりは友人を心配する健気な少年の意志が映っているようにも感じられる。ピッコロは昔からこういう類の視線にはとことん弱かった。自覚も持っていた。
「ピッコロさん」
「何だ」
「悟飯さんを病院に連れて行ってあげてください」
「なんで俺が!」
「ピッコロさん」
 勿論、ピッコロは何故自分が指名されたのか、その理由ぐらいは把握している。この場にいるのは神であるデンデ、その付き人であるポポ。そして一応元神であった知識があるが故に、デンデに業務を教えることにしている自分。まさか神に花粉症の人間の付き添いに行かせるなんてことはありえないだろうし、もちろんそれはポポにもいえた。
 しかし、ピッコロには病院という場所に行きたくない理由というものがあった。以前病院という施設に訪れた時、そこに居る看護士や医者達に物凄く心配そうな顔でちらちらと顔色を伺われ、その上10分に一度は「顔色が悪いようですが大丈夫ですか?」と声を掛けられたのだ。それに、病院に行くぐらい、悟飯なら一人でも行けるだろうと思った。ここまで飛んで来たのだから。しかし花粉症というのは車の廃棄ガスや人の衣服に付着したものから影響を受けることもあるらしいし、一人だけで町に放りだすのも酷だろう。くしゃみを繰り返しながら涙を流す悟飯は見ているだけで痛々しいものだったし、ただでさえ己の理解の及ばない場所へと辿りついた『強い生き物』がここまで苦しそうだともしかして花粉症っていうのは不治の病並に厄介なものなのではないかとさえ思えた。
 返答に渋るピッコロを見上げ、デンデは一瞬行き詰ったような顔をして、しかしすぐに挑むような表情を作り、静かに先輩を見据えた。
「弟子が苦しんでいる時に何もしてやれない人が師匠だなんて、悟飯さん可哀想・・・」




 デンデに夕方までにこれ全部読んで置けよ、テストするからなと山のような書物を押し付け、ピッコロは悟飯を抱きかかえて町へと飛んだ。ピッコロに対して口答えをしないデンデがあんなことを言うこともショックだったが、そんなデンデに自分に対して喧嘩を売るような台詞を吐かせた悟飯には頭が下がる思いだった。
 元はといえば、デンデが地球へ来たのは、再び悟飯やクリリンに会いたいと思ったからだった。地球の神という厄介な職業に付かせた一因である悟飯のことを思い、己の先輩であるピッコロに対してあれほどの台詞を吐くことすら厭わないとは見上げた根性だが、流石にさっきの言葉には傷ついた。
「ごめんなさい、ピッコロさん・・・邪魔してしまって・・・」
「構わん。それより、平気なのか?お前の母親には言わなかったのか?」
 悟飯は濡れたハンカチを目に押し付けながら、困ったように笑った。
「お母さんは朝からブルマさんとショッピングに出かけました。前から楽しみにしてたので、心配かけちゃいけないって思って、何も言ってません。目と鼻が痒いだけだったから、放っておけば治るって思ってたら、どうしても耐えられなくなって」
「お前はどうしてそう変な所で頑固なんだ・・・。辛いことを隠している方が心配かけさせるとは思わないのか」
「でも、お母さんが自分のことより僕のことを優先してくれるの、分かってるので」
 ハンカチを外せば、目元が赤く腫れていた。擦らなくても眼球は敏感だから腫れるのは仕方が無いか、とピッコロは思ったが、悟飯が嬉しそうに、しかし寂しそうに笑ったので一瞬心配することを忘れてしまった。
「僕のせいでお父さんをお母さんから奪ってしまったから、お母さんから何ももう奪いたくないんです。お母さんが泣く姿なんてもう見たくないし、できるなら喜んでる姿が見たいんです。お母さんが帰ってきたら、きっと買ってくる新しい服を褒めて、美味しいご飯を食べて早く寝たいんです」
「見上げた親孝行だな」
「利口な子供でいるつもりです。もう誰にだって心配をかけさせたくない。お父さんがいなくたって、僕は平気になってみせます」
 人気のない場所に降り立ち、総合病院への道を二人でゆっくりと歩きながら、悟飯は言った。目が赤く腫れているのが花粉症のせいだと分かっていても、悲しみに暮れているようにしか見えなかったので目を逸らした。
 ピッコロの記憶の中の悟飯はもっと強かった。幼い、初めて出会った時の悟飯とは違うのだと思っていた。父親の意思を継ぎ、世界を守ることに秀でた生き物だと思っていた。蓋を開けてみれば、中身は甘ったれた、未だ子供の域から抜け出せないただの子供だった。セルと戦っていた時、この子供は子供だっただろうか?それとも大人だっただろうか?ピッコロは思い出せない。思い出したくもなかった。
「悟飯」
 ふと、ピッコロは唐突に自慢の弟子の小さな背中を見た。春の暖かな陽気に包まれているこの子供の背中を、乾いた空気の中、殺意に満たされたあの戦いの中もこの背中を見ていた。己が怯えた化物を捻じ伏せながら嬉々として唇を歪めた子供の背中を、あの時も見ていた。
「はい?」
「お前は変わらないな」
 きょとん、と悟飯は目を丸くすると、はにかむように笑った。あの時とはかけ離れた、恥ずかしそうな、それでいて誇らしげな笑みだった。
「ピッコロさんは優しくなりましたね」
 俺が?ピッコロが眉根を寄せると、悟飯はおかしそうに笑った。
「見てるのはピッコロさんだけじゃないんですよ」
 なんていったって、僕、ピッコロさんのこと大好きですから。続けて大きなくしゃみを一度ついて、悟飯はぐすぐすと鼻をならした。変わらない幼子の言葉を苦々しげに聞いて、ピッコロも心の中で吐き捨てる。いつからこれを居心地良く感じるようになったのか!それでも見守っていた時間は自分の方が長いのだ、若造め。

2009/4・13


TOP