■夕焼けの中の恋愛事情

 うわぁ、とイレーザはその状況を見て心の中で一回叫んだ。驚きのあまり口から音を出すことを忘れてしまったらしい。
 夕暮れの橙色の暖かな光で包まれた廊下の、自分の教室の入り口の手前、後ろ姿で誰か判別できるほど見知った友人である孫悟飯が立っている。その彼の背に、細い、女性の手であることが人目で分かるような小さな手が回っていた。マニキュアで彩られた10個の爪が、夕焼けを反射して光っている。
 もちろん、イレーザにとっての恋のライバル、ビーデルではないことは確かだ。彼女はマニキュアなんてものつけないし、それ以前にイレーザのすぐ隣に立っている。イレーザは一度悟飯から目を離し、隣に立っているビーデルの顔を盗み見た。
 うわぁ、とイレーザは悲鳴を上げそうになった。怒っている。めっちゃくちゃ怒っている。ビーデルがこれほどまで怒っているのを見たのは、幼い頃、まだミスターサタンが有名になっていない頃、クラスメイトの男子がサタンのことを毎日毎日マラソンばっかりしてる変なおっさん、なんて評した時以来だ。
 うわぁ、どうしよう。イレーザは迷った。何をするわけでもなく、ビーデルを見て、悟飯を見て、もう一度ビーデルを見て、多分今声を上げたら何か起こるかもしれないけれど、きっと声を上げてしまったら何か酷い目を見るに違いない。イレーザの女の勘がそう呼びかけていた。
 何秒経っただろう。イレーザにとってはもう一時間ぐらいそうしていた気分だったが、ようやく悟飯の背中からマニキュアのついた手が離れた。
 何かぼそぼそと悟飯とその正面に立っているであろう女性が会話を交わした。なんと言っているかは聞き取れないが、イレーザはいつビーデルが昔のように悟飯に殴りかかるか気が気ではなかった。もしかしたら悟飯の向かいにいる女の子に殴りかかるかもしれない。とりあえず顔だけは避けてあげて!とイレーザは心の中で祈った。
 すると、悟飯と話をしていた女の子がすっと隣を通って、イレーザたちの方へ向かってきた。イレーザとビーデルを見て、少女はびくっと肩を震わせ、目を大きく見開いた。ちらっとビーデルを見て、そしてそのまま走って隣を走り去ってしまう。彼女の頬が濡れていたのは私の目がおかしいわけではないだろう、とイレーザは思った。
 「あ」
 唐突に零れた声にはっとして悟飯を見れば、彼は呆然と立ち尽くしたままイレーザとビーデルを見ていた。
 「や、やっほー」
 イレーザは片手を上げて、いつものように声を掛けた。何も見てないよ、という振りでもして、一刻も早くこの場を離れたかったが、それはビーデルが許さなかった。
 「悟飯くん」
 ビーデルはつかつかと悟飯に歩み寄った。ああっ殴る!殴られる!イレーザは悲鳴を上げかけた。イレーザは悟飯がそれなりに好きだった。友情でいえば昔からの友人であるシャプナーやビーデルまでとはいかないが、もう十分に友達だし、顔も好みだ。勇気を出して今ビーデルの背中に飛び掛って羽交い絞めにして・・・。考えるだけは自由だ。イレーザがそうこうやっているうちに、あっというまにビーデルは悟飯のすぐ前までやってきていた。触れるか触れないかの位置でビーデルは立ち止まり、悟飯の顔を見上げた。イレーザが見つめる先で、悟飯とビーデルが向かい合い、無言のまましばらく見詰め合っている。これの前に何もなければいい雰囲気なのに!とイレーザは思った。
 「さっきの子、誰?」
 「え、さっきの子は・・・」
 静かなビーデルの声は普段どおりのように思えたけど、イレーザはビーデルが普通じゃないことぐらい分かっている。というかこの状況で平然としているほうが怖い!恐る恐る近づけば、段々二人の話し声が鮮明に聞こえてきた。
 「その・・・あの子に付き合ってくれって言われたんだけど・・・・・・・僕はビーデルさんが好きだから」
 この台詞に流石に足を止めないイレーザではない。ええっ、嘘、ほんとに?さよなら私の恋・・・。一人さめざめと壁に寄りかかってみるも、悟飯とビーデルの会話はイレーザを意に介さないかのように淡々と繋がっていく。
 「なんで抱きしめてたの?」
 「え、いや、僕はあの子に好きな子がいるからって言ったんだけど、一度だけでいいから抱きしめてくれないかって言われたから・・・」
 そうか、そういう男だった。イレーザは壁に凭れながら思った。こういうのに関しては、意志薄弱だからなぁ、とシャプナーも言っていた。しばらく抵抗はするけれど、泣かれると弱い、とかなんとか。
 悟飯はそこまで言って、もう何も弁解することはない、とでもいうように黙ってビーデルの返答を待った。自分がどのような理由であれビーデルを裏切ったことは承知の上なんだろう。小さく、ごめん、と声が響いた。
 「何で謝るの」
 「え、いや」
 きっ、とビーデルが表情を険しくした。右手を振り上げ、唇を噛み締める。これから来るであろう衝撃に備えて悟飯は歯を食いしばった。
 「悟飯くんの馬鹿っ!」
 イレーザも堪えきれずに目を瞑って耳を封じた。やってくる高い音に備えて肩を竦めたが、予想に反して嫌な音が響かない。
 恐る恐る目を開けば、ビーデルの振り上げられた平手がいつの間にか握りこぶしになって、ゆっくり悟飯の左胸を叩いた。
 「び、」
 「悟飯くんの馬鹿!」
 二回目の同じ台詞と同時に、ビーデルは悟飯に背を向けあっという間に居なくなってしまった。目にはたっぷりと涙が溢れていて、イレーザのすぐ隣にぽた、と一拍遅れて落ちた。
 「・・・・・・・あーあ、泣かした・・・」
 「・・・・あ・・・」
 「一日で女の子を3人も!」
 三人?と悟飯がイレーザを伺えば、はぁ、と重いため息を吐きながらイレーザがビーデルの居なくなった方向を指差す。
 「追いなさいよ!」
 「は、はい!」
 慌てて走り出す悟飯の背中を見送り、イレーザは腕で己の目を拭った。廊下に差す夕日の色が段々薄くなってきていた。っていうか教室に何しに来たんだっけ・・・。
 「あ、そうだ、課題・・・」
 のろのろと教室へと向かえば、丁度さっきまで悟飯が立っていた場所に自分が立っていることに気がついた。廊下の真ん中、足元にビーデルが零したであろう涙が二滴、夕日を反射して光っている。
 イレーザは一歩下がり、ビーデルが悟飯と向かいあう形になった場所に立つ。そして叫んだ。
 「悟飯くんの馬鹿!」
 誰も居ない校舎に一度響いた。今なら一発ぐらい彼を叩ける、と思えたけれど、もうその男は友人を追って街を奔走してる最中だろう。
 「ああっ男ってなんで馬鹿ばっかりなんだろ!」
 イレーザの問いに答えてくれる人は誰も居ない。
2009/3・30


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