■可哀想なひと



 家康の脳裏に残っている半兵衛の残滓は、戦場で的確に指示を飛ばし秀吉の右腕として力を振う気高い男ではなかった。だからといって病に苦しみながら己の夢と希望のため必死にもがく人間らしい姿でもなく、ただ何度も思い出されることといえば、ゆっくりと切り刻むように家康を哀れむ眼を投げかける一人の人間に過ぎない。
「可哀想な子」
 半兵衛はよく、家康をそう評した。彼は家康を稀に部屋に呼び出し、進軍の指示を伝えた後に、そう家康を哀れむ。反論を許さない高圧的な物言いではなく、ただ単純に可哀想な生き物を心の底から慈しむようなそんな声だった。病に侵された身である半兵衛を、むしろ家康は哀れむ側であるはずなのに、半兵衛は己よりも頑丈で輝かしい未来に愛された若者を哀れむ。
「君は本当に、可哀想な子だよ」
 それはもはや教え込むようなそんな言葉だった。洗脳か何かだろうかと家康は首を捻る。しかし半兵衛はそうやって理解しかねる様子の家康を、また、かわいそうだと言う。
「半兵衛殿、ワシの何が可哀想なのですか」
「そういう所がだよ、家康君―――」
 半兵衛は南蛮から取り寄せた家具に座っている。身体を労わるため用意されたそれは半兵衛の軽い体重だけでもゆっくりと沈む。それに座る半兵衛は酷く病弱そうであったが、その己の身よりも目の前の子供を哀れむその目線だけが、不思議と場にそぐわない。
「君は自分のことを可哀想だと、何故思わないんだい」
「何を言っているのか、わかりません、半兵衛殿」
「それは無知というより、無自覚なんだろうね、家康君は。君は、自分の不幸を、正しく理解できていないんだ」
 不幸を正しく理解とはどういうことだ、と家康は心の中で首を傾げた。率直に問うても、半兵衛は素直に答えるようには見えない。理解が及ばないのは君が馬鹿だからではない、それが君だからさ、と半兵衛はゆっくりと首を振った。
 病のせいか、それとも生まれつきなのか、半兵衛の白髪は光を受けて透けている。怖ろしいほど蒼い顔なので、家康は寝所に向かうよう言おうかと思ったが、立たせるほうが酷に見えた。戦場でなぜこの男がこれほど病に苦しんでいるように見えないのだろうか、と家康は不思議に思った。軍師としての彼の矜持が、彼を戦場で強く見せているのかと思う。
「君は秀吉をどう見る」
「秀吉殿、を」
「彼はとても人間らしいんだよ・・・・・・君よりよっぽどね」
 眼を見張る家康を、ふと柔らかく嘲笑い、半兵衛は目を細めた。眼球の奥で深い紫が滲んでいる。家康の心に巣食う恐怖を一笑して、君は、と半兵衛は口を開いた。
「取り違えている。この世で最も怖ろしいものは魔王でも妖怪でも化物でもなく、人さ。君は分かっていない。君の後ろに犇く群衆も、ただの人だ。人の群れだ。人外はね、恐れないんだよ――知らなかっただろう」
「・・・・・・半兵衛殿は、何を仰りたいのですか? 裏切りを恐れているという、ことですか」
「違うよ。君が、可哀想なんだ」
 また、それだ。家康は理解できず、眉間に皺を寄せた。聡明なこの軍師が一体何を目的としているのか、家康は分からない。徳川がいつかまた豊臣に反旗を翻そうとしているのではないかと危惧しているのだろうか? 半兵衛の言葉の意図が、理解できない。何を狙っているのか分からない。それがまた怖ろしかった。
「僕はね、君のことは嫌いじゃないんだよ。・・・・・・気に入っていると言ってもいい。だから君が、心配なんだ。君が心を砕いて、そして君は最終的に何を得られるのか、僕にはまったく分からないんだ、家康君。君は一体何のために動くんだい、愛されたいのかい? 大切な人が欲しいのならやり方が違うだろう? 愛され方が分からないのかい?」
「ま、待ってください」
 話がずれていないか、と家康は狼狽する。愛というのはよく分からない、理解できない――、と家康は口をついてそう喘いだ。
 人の心は、よく分からないのだ。
 半兵衛はそう言って顔を赤くする家康をまた可哀想なものを見る目で見つめ、そうだね、と頷いた。人の心ほど分からないものはない、と半兵衛も笑った。何を思って言うのか家康は分からなかったが、半兵衛は可哀想な者を哀れむ目をやめていた。視線は窓の外へ向いている。外は曇っていた。一雨来るような空模様だ。今日は止まって行くと良いよ、と半兵衛は言う。家康は忠勝に乗って来ていたので、ありがたい、と頭を下げた。
「部屋を用意するから下がってくれていい。ああ、ついでに三成君を呼んできてくれるかな、次の戦の話があるんだ――」







 そして半兵衛はその一週間後に戦場で亡くなったので、家康は結局己の何が可哀想なのか分からないままだった。その日は特別に具合が悪い様子だったというのに、戦場で軍師として死にたいと言った半兵衛を、家康は最後まで強い人だったと思う。半兵衛が死ぬのではないかという危惧は彼が死ぬ数日前から予期されていたことだったので、半兵衛が死んでしまった時、だいたいの人は「ああ―――ついに来てしまった」という心境に思えた。三成も馬鹿ではないのでそんな予感はあったはずであったのに、半兵衛が死んだとき一番狼狽していたように思う。君主である秀吉がまったく動じぬままその死を受け入れていたので、悲しまぬ主君の前で悲しむ失態だけは犯さぬよう努めてはいたが、その痛々しいほど神経を張り詰めた三成は見ているだけで哀れだった。
「ひっひ、死んだな」
「・・・・・・ああ」
 半兵衛が亡くなってから数日後、家康は大谷の元へ訪れた。葬儀には輿に乗って参列した刑部であったが、それほど半兵衛に親しくしていた覚えの無い大谷がつつましく参列したという話に家康は少なからず驚いたことだった。しかし、布団に寝たままそう笑った刑部を見て、家康は、ああ、とそれだけで理解した。葬儀に集まり悲しみに暮れる人々を見て喜んでいたのだろう、この男は。
 変わりの無いほど人の不幸を甘い蜜のように啜る男に、少なからず家康はむっと顔を顰めたが、その様子を見てまた刑部は楽しそうに笑うので努めて冷静に振舞った。大谷の横たわる隣に腰を下ろし、具合はどうだ薬を飲むかと問う。以前から「主から寄越される薬で具合が良くなると竹中と主が喜ぶから飲みたくない」とぬけぬけと言った男は、最近一転して「生きてた方が人の不幸に接することができる」と、気が向いた時だけ薬を飲むようになった。刑部は家康をにたりと口を歪めて見上げ、ああ飲もう、と頷く。
「竹中が死んだ祝いだ」
「刑部」
「なんだ、嬉しくはないのか? 主を太閤の下に引き摺り落としおった憎い男が死んだのだぞ? なぁに、聞き耳を立てる輩などおらぬわ。我のこの部屋に寄り付く者など石田ぐらいだ。あいつが来る時は足音で分かる。煩いからな・・・・・・ひひひ」
 掌に握り締める薬を包んだ紙を刑部の枕元に置き、家康は刑部、と咎めた。
「人が死んだんだぞ? 嬉しいわけがないだろう」
「主は本当に分からんな。暗の奴などあの穴倉で祝杯をあげたそうだぞ? 泥水でな! ひひひひひ!」
「何故喜ばなければならないんだ」
「憎いのだろう?」
「憎くは、ないさ・・・・・・いや、憎いのかもしれないが、だが死んで欲しいと思ったことはない。いや、むしろ生きていて欲しかった。悲しむ人が大勢いる。・・・・・・半兵衛殿にも、幸せになってほしかった」
 刑部は家康を見て顔を顰めた。今にも泣き出しそうなほど苦しそうな顔をする家康の表情はとても心地よかったが、ただ家康のこの理解できない心境が、刑部にとっては怖ろしく気味が悪い。これこそ驚くことに、まだ喜んでくれた方がまだ嬉しかったかもしれない。
「主は可哀想な脳味噌をしているな」
「・・・・・・」
 ぴたり、と家康が固まった。見開かれた夕日色の眼が、刑部を見て不思議そうに瞬かれる。
「かわいそう――?」
 言葉の意味さえ分からないとでも言うように、ゆっくりとその単語を復唱する。家康はかわいそう、と口の中でその言葉を唱えて、半兵衛殿が、と呟いた。
「半兵衛殿も、言っていたな、ワシが、可哀想だと」
「ほう」
「何が可哀想なものか」
 ふふ、と家康はそこで笑った。可笑しくて仕方がないように、しかし哀しそうに、それでいて確実に半兵衛を嘲笑するかのような声音で、何が可哀想なものか、と肩を震わせる。
「可哀想なのは自分自身だろうに」
 それは病に蝕まれた刑部と半兵衛を嘲笑うようでもあったが、その奥に潜んだ無自覚がぞろぞろと蠢いているように、刑部には見えた。ならば幼い時に両親を失い質として国々を回され常に死と隣りあわせで過ごしたお前は可哀想ではないのかと刑部は咄嗟に問い返そうかと思ったが、きっとそれを問うても「ワシは恵まれている」と心から信じた様子で答えるに決まっていた。己の不幸が理解できない。憎しみが分からない。人間の感情と無縁に思える太陽の権化は怖ろしいことに笑顔で自分の傷つきすぎた身体を更に矢面に立たせ人を守る。
「ああ、そうだな」
 なので刑部はゆっくりと頷き、ああ、この男は駄目だ――とそう、判断した。ただ唯一悔やまれるのは、この男がこのようになる前、不幸の絶頂期だった頃、何故己はこの子供に会えなかったのだろうと、その運命を呪った。
「人は正しく己の不幸を自覚し己を哀れむべきだろうなぁ可哀想に、カワイソウに」
 人ではないお前に可哀想などという言葉は不釣合いだった、と刑部は心の中でそう詰った。己の弱さを恐れ愛した人間の命を縊った人間の王である豊臣秀吉の方が、まだ哀れむこともできよう。しかし民が死ぬことを恐れ強者を捻るこの太陽が、人間として生まれたことが刑部は怖ろしくてたまらなかった。お前の恐れは贋物だ、とそう糾弾したかったが、擦れたこの喉が叫ぶのは己の身が可哀想だったのでやめた。ああ、可哀想だカワイソウだ。乾いた言葉が嗚咽に震える城の片隅で嘯かれていた。
  2010/10・28


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