■百八の亡骸が私の道を塞いだ

 「あれ」
 階段を昇っていると突然足が震えだし、そのまま力を失って転倒してしまった。階段から滑り落ちることだけは免れて、右太腿から階段に座り込むように倒れる。左足が階段を踏み外した。
 「あれれ?」
 腕に力を入れて上半身を起き上がらせても、下半身ががくがくと痙攣したままどうしても立とうとしてくれなかった。別々の個体になった気がしておかしかった。酔っ払いのおじさんみたいだと思う。
 もう一度階段に上半身も凭れ掛けさせると、こめかみの辺りからぽたりと水滴が零れた。汗かな、と思ってその行方を見ると、何と赤い色をしている。頭から出血していた。
 「うわ、うわあ」
 驚いて右手を右側の額に当てると、べったりと掌に血液がついた。頭からの出血って、傷が小さくても派手に血が出るからな。血液って体温と同じ温度だから、出ても中々気づかないって本当だったんだ、と思った。
 それにしても、いつこんな傷を作ったんだろう。先ほどの乱闘の間だろうか。ぼんやりとしながら物思いに浸れば、そういえば、3人目を殺したとき、死角から体当たりしてきた男に押されて、壁にかかっていた額縁に頭をぶつけた気がした。眼鏡が無事だったから何も思わなかったんだけど。この程度の出血で貧血になるほど弱く育っていないから、下半身の震えはおそらくどこか変なところをぶつけてしまったのだろう、と思った。帰ったら診て貰わなければ。
 それにしても、血を流すなんていつぶりだろう。馴れない頃は生傷が絶えなかったけれど。しかも、頭から!これは明日雨が降るかもしれないな。
 自覚してしまうと一気に具合が悪くなってしまうようで、頭もずきずきと痛んできた。殺人鬼が、素人ともてんで変わらないような奴に体当たりされて、しかも転んで頭打って血を流すとは。『二十番目の地獄』も落ちたものだ。
 目を閉じて、遠くから聞こえてくる音に耳を澄ましていると、上の階段からゆっくりと降りてくる人間のものが聞こえた。かつかつと響く革靴などではなく、ぺたぺたと鳴る独特の足音。履き慣らしたサンダルを踏む音だった。
 「や、アス」
 「・・・あ?何してるっちゃ、そんなところで」
 予想通り、上階から降りてきたのは零崎曲識ではなく零崎軋識のものだった。血塗れの釘バットを担いで、怪訝そうな目で自分を見下ろしている。額から流れている血に目を留めて、珍しいっちゃね、と一言呟いた。
 「鬼の霍乱、って奴っちゃか。ナイフにでも切りつけられたっちゃ?」
 「ううん、押されて転んで、絵の額縁にぶつけた」
 「・・・どうしてそう、・・・変なところで間の抜けてる奴っちゃね」
 もうちょっとこう、物凄く強い奴との死闘の末に、とかないちゃか、とかなんとかぶつぶつ言いながら、アスは僕の頭のあるところのすぐ近くに腰を下ろした。
 「上、全部やってきた?」
 「ああ、後は帰るだけだっちゃ。おめぇ、その様子から見ると、もしかして立てないっちゃか?」
 「うん、面目ない」
 「まったくだっちゃ。地獄がこんなに生温いもんだとは思わなかったっちゃ」
 アスは溜息を吐いて、肩にかけている白いタオルを僕におしやってきた。とりあえず促されるがままにタオルを額に押し付けると、みるみるうちに赤く染まったが、2、3度場所を変えて押し付けると、血があまり付着しないようになった。「けっこう固まってきてるっちゃね」とアスが私の顔に顔を近づけて言った。
 碧の目を見つめ、次にすっと通った鼻筋を見た。そのまままっすぐ下に視線を降ろして、薄い唇を見る。一秒待って、少し上半身を捻って押し付けるようにアスの無防備な唇にキスをすると、もちろんあっという間に距離を取られる。綺麗な緑色の目が大きく見開かれて、私を変な生き物を見るような目で見ていた。
 「おっ、お前、何するっちゃか!!」
 「顔が近かったらどんな状況でもキスするのが少女漫画の鉄則だよ。知らないのかい」
 「『少女』漫画ならもっと慎みを持て!」
 正論を叫ぶアスの顔はすでに真っ赤に染まっていた。アスは恋愛ものとは縁遠いものだと思っていたのに、こういう反応がやけに可愛らしいのはどうしてなんだろう。無意識のものだとしても、これは酷い。可愛い。
 「アス、私動けないからおんぶしてくれよ。ここで待ってるのは嫌だよ。駐車場に降りてトキを待とう」
 「んなこと言って変なことする気じゃないっちゃね?」
 「変なことって?」
 アスはあからさまに顔を顰めて私を見た。この歳になってキスするだけでこんなになるなんて、本当に少女漫画じゃあるまいし。
 それがアスだからか、それとも殺人鬼だからそういうのに慣れていないのかはわからないけれど、とにかく可愛い。私がにこにこ笑っていると、アスが訝しげな目で私を見る。
 「っていうかおめぇ、まだ立てないっちゃか?」
 「うん?」
 私はきょとん、として、ゆっくり下半身に力を込めてみた。少し動く。あ、と思って手すりに掴まり、ゆっくりと身を起こした。目の前がちかちかと瞬いたが、じっと耐えると再び視界が開ける。立てるじゃねぇっちゃか、と呆れた声を上げて、アスが立ち上がった。
 「ん・・・でもまだ足ががくがくする。肩貸してくれよ。転ぶかもしれない」
 「ったく」
 アスは釘バットを鞄に入れなおして、渋々私の肩下に腕を入れて抱えるように支えてくれた。ゆっくりと階段を二人で下りながら、私を足を見るアスの横顔を見下ろす。このマンションの人間をほぼ殺してきた人の顔にはとても見えない。麦藁帽子の淵が私の頬に擦れてくすぐったく、アス、と名前を呼ぶと、ようやく帽子に気づいたのか、悪いと一言言って麦わら帽子を脱いだ。色素の薄い後ろに撫で付けられた髪が麦藁帽子をとったことによって微かに乱れていた。ひょこひょこ揺れるその髪を見て、私は自分の頭より少し下にある頭に顔を寄せた。唇をアスの頭に押し付けると、反射的にアスの拳が飛んできた。
 もちろん、満足に動ける状態じゃない私は、その拳をもろに顎に受けた。そして同時に足を踏み外し、見事にひっくり返る。
 「てめっ、ばっ」
 「い、いた・・・・ぎゃっ、傷開いてる!」
 転倒した衝撃で血が固まっている傷が開き、血液があっという間に目まで垂れてきた。どんなときでも容赦のないアスのことは心から愛しているけれど、こんなときぐらい手を抜いてくれたっていいだろうと思った。お前が馬鹿なことするから、とか言いながらアスは地味に涙目だったから、痛みなんかあっという間に吹っ飛んでしまったけれど。
2009/4・18


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